リボーの法則
伝助じいさんは、このところだいぶ痴呆が進んできたようである。ついさっき食べた食事のことまで忘れてしまうことがあるほどだ。
ところが不思議なことに、何故か昔のことはよく覚えている。
昔はこの空き地でよく皆んなと野球をやったとか、あの道端には大きな柿木があって、その柿を盗ろうとしたらその家の爺さんに追いかけられたとか・・・
伝助じいさんがそうやって懐かしそうに思い出を話すときは、いつもきまって薄っすらとその目に涙を浮かべる。
ついこの間も、急に老人仲間の良夫じいさんに食って掛かった。良夫じいさんは、ともに養老院でお世話になっている彼とは幼馴染である。
「良夫、あの時に貸した金を返してもらわねば、わしは死んでも死にきれん・・・」
良夫じいさんが驚きながら聞き返す。
「伝助さんや、それはいつのことを言っているんじゃ。わしはお前さんからお金を借りた覚えなんて・・・」
良夫じいさんがすべてを語り終わらぬうちに、伝助じいさんが割って入る。
「小学校五年生の時じゃ。ベーゴマ買うって言うて、五円貸したじゃろうが・・・」
「小学校五年生?・・・」
さすがに、これには良夫じいさんも反論のしようがない。
それでもおそらくは本当のことなのであろう。それが証拠に、伝助じいさんはまたもやその目に涙をいっぱいに溜めている。
「分かった、わかった」
良夫じいさんは、財布から十円玉を一つ摘み取ると、それを彼に手渡す。伝助じいさんは、ニコリとほほ笑む。
「ところで、伝助さんや・・・」
「何じゃ?・・・」
「さっき、院の売店で煙草を買う時に立て替えた五百円なあ。あれ、返してもらってもよいかねえ?・・・」
伝助じいさんは、遠くを見るような顔付をする。
「はて、何のことかさっぱり覚えておらんなあ・・・」
【リボーの法則】
進行性痴呆症において現れる症状で、遠い昔の記憶は保存されているのに対して、つい最近の記憶は失われる傾向にあるという法則。