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第七話 皇帝ロベルト二世

ケイを乗せた小船は、地中海を滑るように進み、もうすぐ目的地であるイフリーキアに着く。

大きな都市を抱える地域へなら、(かなり老朽化しているとはいえ)蒸気船の定期航路があるのだが、今回の目的地であるイフリーキアは、そんな航路には面していない。

仕方なくジブラルタルまで蒸気船で行き、そこからは定期航路の帆船に乗り換える。

ところがその帆船ですらイフリーキア向けの定期航路は存在しないため、最寄りの寂れた港町までたどり着くと、その先は小さな釣り船をチャーターするしか無かった。

交渉した漁師のンドゥールはここぞとばかりに吹っ掛けてきたが、ケイが全く値切る風を見せなかったので、ホクホク顔で帆を操っている。

連邦政府としては監査官がケチ臭い真似をする事は体面に拘わると考えているので、値切り交渉は禁止されているのだ。

「旦那。あそこに見えちょるんが、イフリーキアの港ですけん。」

そう言って、彼が指差した先には、荒涼たる砂漠を背にして、陽炎の中に微かに建ち並ぶ背の低いビル群らしき物が見えた。

「暑そうだね。」

「まあ、この辺は、どこも似たようなもんですけんどね。」

それにしても、とケイは考えている。

イフリーキアとは、妙な名前である。

それはアラビア語で、『アフリカ』を意味する。

確かに地中海南岸なのだからアフリカには違いないが、とはいえ国名に『アフリカ』は無いだろう。

第一、ケイが事前に資料を確かめた限りでは、イフリーキアではイスラム信仰は殆ど行われていないので、何故アラビア語なのかも良く判らない。

かつて、ウマイヤ朝時代のイスラム勢力がアフリカを席巻した際に、これをイフリーキアという名で呼んでいた。

ただしイスラム勢力は、ついにサハラ砂漠を越えて南下する事が無かったので、そう言う意味では、イフリーキアとは『北アフリカ』の古名と言えなくもない。

新興国が、前の政権との断絶を明示するために、敢えて使われなくなって久しい名前を引っ張り出す事は、良くある。

ローデシアの白人政権が打倒された後に立ち上がった新政権は、かつてのイギリスの植民地相セシル・ローズの名を冠した国名を嫌って、ジンバブエを名乗った。

しかし、そう解釈するとしても、高々人口100万人程の国が『北アフリカ』を名乗るのは、やはり大した心臓ぶりではある。

勿論、今の世界で人口100万人と言えば、その数だけなら結構な大国と言える。

大いなる再構築後の神聖盟約制の元で、文明の崩壊はそのまま近代国家の崩壊でもあったので、かつての大国は分裂に分裂を重ね、殆どが精々数万人の小国群に成り果ててしまった。

ところが、中央アジアやアフリカの(大いなる再構築以前なら)小国であった人口100万人前後の国家の中には、分裂すること無くそのままの規模を保つ事に成功した国もあり、それらの国々は人口だけで言えば相対的に大国となった。

ただし、人口=国力と言うのは、頭数で勝負するのが前提の民主主義の時代の発想である。

現在の神聖盟約制の元では、大賢人会議でどれだけ古株であるかと、議会内でどれだけ子分を持っているかで力関係が決まるので、多くの人口を擁している事それ自体は特にアドバンテージにはならない。

また、文明の崩壊とそれに伴う国家の解体を経験しなかったからといって、別に彼らが文明を保持しつつその政治体制を維持する事に成功した訳ではない。

むしろそれらの国家は、元々科学技術の喪失で崩壊する程の文明や政治体制を保持していなかったので、そのまま残っているだけなのである。

彼らにとっては、今の世界の有り様が、言わば『平常運転』なのだ。

ただし、イフリーキアの場合は、少々事情が異なる。

イフリーキアは、大いなる再構築の30年ほど前に独立した国で、その頃はレアアースの輸出で、結構な繁栄を見せていた。

当時のアフリカの新興国には良くある様に、その直接の利益は支配階級が独占しており、従って極端な貧富の差があったが、それでも下層階級までなにがしかのおこぼれが行き渡る程度の繁栄ぶりであった。

そう言う意味では崩壊する側のグループに属する筈だったのだが、大いなる再構築の後の混乱の中で世界がその存在を忘れている間に、いつの間にか帝政が敷かれ、その強大な皇帝権力の元で半鎖国状態になっていた。

そのため、以前の領土がそのまま保持されている事は判っているのだが、それ以上の事は判らない。

人口についても100万人というのは鎖国前の数字であり、現在どうなっているのかは全く不明だ。

その鎖国政策のため、周辺国でイフリーキアと公式の交渉のある国は無く、他国から出入りしているのは、ンドゥールのように漁師の傍らで副業として個人で細々と物資を持ち込んで売買する人間だけだ。

彼がやっているのは言わば密輸であるが、完全な自給経済は不可能なイフリーキアは、これを大目に見ているのだ。

そして何故か今頃になって、隣国の一つを通じて連邦政府に対し加盟申請を出してきた。

そのために、ケイが監査に派遣される事となったのである。


ンドゥールは、小舟を桟橋に着けた。

船底から板を取り出して桟橋に渡すと、もやい綱を取って桟橋に上がる。

しっかりと括り着けてから、ケイに声を掛けた。

「旦那、行きますけん。」

ケイも桟橋に上がり、二人は街に向かって歩き始めた。

帰るまで、ンドゥールごと借りきりの約束なのだ。

色々と内部状況が判らない国だからガイドも必要だし、状況次第では風を喰らって逃げ出す必要があるかも知れない。

宿に関しては、彼の商売相手の店を当てにしている。

昼前の照りつける陽射しの中で通りを進んで行くと、何やら興奮気味の人だかりが見えた。

ケイは興味を持ったが、ンドゥールはトラブルに巻き込まれる事を嫌ってそのまま通り過ぎようとした。

その時、人だかりの中から幼い子供の悲鳴が聞こえた。

ケイは、ンドゥールの制止を振り切って人垣に割って入った。

何と、三人の大人が10歳にもならない様な子供をとり囲んで蹴りつけている。

「止めるんだ!」

ケイは、手前の男を引き剥がし、子供を庇うように両手で抱えた。

子供は声も出せず、目を固く瞑って震えていた。

「今助けるからな。」

耳許でそう囁くが、子供は亀の様に手足を縮こめたまま反応しない。

「あんたぁ、何者じゃ。」

男の一人が口を尖らせて、訊ねた。

「通りすがりの者だよ。」

ケイが答えると、男は下卑た笑いを浮かべながら言った。

「何を関係の無ぇ事に、口を出しょるんなら。」

ケイは、男達に向かって言い放った。

「いい大人が三人がかりで幼い子を虐めるなんて、恥ずかしく無いのか?」

男達はせせら笑った。

「こいつはエボラじゃ。それともおめぇは、エボラの味方なんか?」

その言葉に驚愕したケイは、慌てて子供の固く閉じられた瞼を捲る様に開き、目の奥を覗き込んだ。

子供はケイに抱きすくめられて少し安心したのか、されるままになっていた。

取り合えずエボラ出血熱の特徴の一つである眼底出血は、無さそうだった。

続いて口をこじ開けて舌を確認しようとしたとき、ケイの意図に気付いた男達はどっと笑った。

「判りもせん事に、嘴をはさむんじゃねぇわ。」

そう言いながら、ケイの手から子供の腕をもぎ取ろうとする。

「手を出すな!本当にエボラなら、あんたらも危ないじゃないか。」

その答えに男達は爆笑し、腹を抱えて踞る者までいる。

彼等は大笑いしながら、ケイを子供から引き剥がそうと押し寄せて来た。

ケイは咄嗟に男達に背を向けて、再び子供を抱え込んだ。

その時鋭い警笛の音が響き、男達の動きが止まった。

「貴様ら!何をやっとるかぁ!」

激しい叱責が響き渡り、警官らしき制服の二人組が男達を掻き分けて入って来た。

「この子はエボラだと言っている。すぐに隔離しないと・・・」

そう言いかけるケイに向かって警官は、宥める様に言った。

「判った。後はこちらでやるから。」

ケイは、必死に事の重大性を訴えようとした。

「今のところは、症状は出ていない様だが・・・」

それを軽くいなして、警官は言った。

「大丈夫だ。あんたが考えている様な問題じゃない。」

そう言いながら警官は、ンドゥールを振り返る。

どうやら、ンドゥールが彼らを連れてきてくれた様だ。

「はいはい、判っちょります。後で説明しときますけん。」

その返事を聞いた警官達は、ケイから子供を受け取ると、群衆を追い散らしながら去っていった。

群衆はがっかりした様子でそのまま散会し、ケイとンドゥールだけが残された。

「旦那、もう大丈夫ですけん。ここはなんもかんもがくそったれな国じゃけんど、警察と軍隊だけは羨ましいくらいにちゃんと仕事をしますけん。」

袖の下無しではまともな仕事をしない警官を見慣れているケイは、意外そうな表情になった。

その表情を見たンドゥールは、説明する。

「皇帝は不正を絶対に許さんのですけんな。みんな皇帝が怖いけん、そりゃあ真面目に仕事をするんですわ。」

取り合えず、彼がそう言うのなら安心して良さそうだと判断した。

二人は、再び歩き始めた。

その時、ケイは思い出した様に訊ねた。

「ところであの警官が言ってたのは、何だったんだ?」

ンドゥールは、淡々と話し始めた。

「この国には、ベムボとエブアっちゅう二つの部族がおります。」

その程度の事は、ケイの事前調査でも判っていたので、黙って頷いた。

「この二つの部族が、まあとにかく仲が悪いんですわ。」

と、呆れた様な口調で続ける。

「良くある事だね。」

「じゃけんどこいつらは、イフリーキア全体で混じりあって暮らしとります。」

部族対立がありながら混住しているのは、色々とトラブルの元になるが、歴史的経緯で仕方なくそうしている国は珍しくない。

「ほんで、地域毎にベムボとエブアがそれぞれ小さく固まって、いがみ合っとるんです。で、この辺りはベムボの集落なんですわ。」

「ふむ。」

ケイは情況が呑み込めないまま、生返事をする。

「おおかたあの子は、近くのエブアの集落から迷い込んだんじゃろうと思います。」

対立部族の子供だという事は判ったが、それが先程の警官の話とどう関係するのか。

「それで?」

「ほんで、ベムボはエブアの事を『エボラ』と呼んで嫌うとります。」

ケイは、ようやく子供の症状を確かめようとしたときの、男達の軽蔑する様な笑いの意味が判った。

「そう言う意味か。しかしあんな子供相手に、良い大人がやる事じゃ無いな。」

ケイは、やれやれという風に頸を振った。

「まあそうですわな。じゃけんどこの国では、ああいうんは珍しゅう無いんですわ。」

その言葉に、ふと不安がきざした。

「そうなると、あの子は大丈夫かな?」

ンドゥールは、ケイを慰める様に、笑いながら言った。

「さっきも言うた通り、この国の警察はちゃんと仕事をしますけん、もう心配ありませんわ。おおかた今頃はあの子に手当をして、家に送っとると思いますけん。」

彼がそう言うのなら、そうなのであろう。


二人は市場に通りかかった。

そこには、処刑台が設けられていた。

その事自体は、特に珍しい事ではない。

公開処刑は、多くの国で見せしめによる犯罪抑止と(余り上等とは言い難い)娯楽としての効果を期待されて、人の集まる街の中心部や主要な街道口で実施される事が多く、また執行後は、死体が腐敗して落ちるか次の処刑があるまで、そのままぶら下げておくのが普通である。

ただこの処刑台は、ケイが今まで見てきた物と比べて、横幅が異様に長かった。

横幅は同時に執行できる人数を示しており、これが長いという事はそれ自体が不吉な徴である。

「あんなに『需要』があるのか?」

ケイが問い掛けると、ンドゥールは声を潜めて言った。

「最近はあまり見ん様になったけんど、昔はようぶら下がっとったもんですわ。儂の親父が若かった頃は毎日のように執行があって、端から端まで一杯になる事も珍しゅう無かったって言うとりました。」

ケイは、声を潜めて訊ねた。

「そんなに治安が悪いのか?」

ンドゥールも調子を落として答える。

「まあそれも無くはないけんど、皇帝は『分離主義』っちゅうてベムボだけエブアだけで独立しようっちゅうのんが大嫌いでしてな。」

その言葉に、ケイは驚いた様に訊ねた。

「それだけで『吊るされ』るのか?」

ンドゥールは、再び宥める様に言った。

「流石に、分離しようやっちゅうて言っただけで吊るされる事ぁ無いけんど、ベムボを追い出せじゃとかエブアを殺せじゃとか言うて煽り立てて廻るんが見つかったら、直ぐに裁判があってあそこへ行くんですわ。」

先程の一件で見てとれる程の対立感情が蔓延している中でその方針では、確かにいくら処刑台があっても足りないだろう。

道の両側に並ぶ日除けのテントの下では、様々の商品が商われていた。

とは言えその品数は豊富とは言い難く、特に食糧品は種類も量も乏しかった。

肉といえば、鶏と豚がそれぞれ少量並んでいるくらいで、主食物としてはトウモロコシと何かの芋とクスクスがこれまた少量づつ並んでいる。

「もう、昼だから、そろそろ店仕舞いかな?」

「いやあ、ここはいつ来てもこんなもんですがな。食い物はかなり前から大分寂しゅうなっとるんで値段も高くなってしもうて、大した量も無えけど、買う方もその日その日の分を買うんでいっぱいいっぱいじゃから、品切にもならんのですわ。」

そう言いながら二人は市場を抜け、雑貨屋とおぼしき店の前に立った。

「おるかぁ?」

と声を掛けながらンドゥールは入り口をくぐる。

ごちゃごちゃと雑多ながらくた同然の商品が積み上げられた奥の、カウンターに座る男が顔を上げた。

「おぉンドゥール。今日はまたどねえしたんなら?何かええ荷が入ったんか。」

ンドゥールは、掌を振って見せる。

「いやいや、今日は商売じゃねえ。この、」

そう言いながらケイの方を振り返る。

「旦那が、皇帝陛下に用があるっちゅうて仰るんで、お連れしたんじゃ。」

「ほうか、陛下にのう。」

ケイは、進み出た。

「連邦政府SI局のケイ・アマギです。」

そう言って右手を差し出すと、男は立ち上がった。

「オログ・ンガボっちゅう者です。ご覧の通りの商いをしとります。」

そう答えると、握手を返した。

「時に、もう宮殿に話は通っとるんですかな?」

「こちらの皇帝陛下からの依頼で来ましたが、まだ到着の連絡はしていません。」

「ほんなら、家の者に言いに行かせましょう。」

そう言って、ンガボは店の奥に声を掛けた。

「おぉい。ちょっと宮殿に行って、連邦のアマギさんっちゅう方がお出でんさった、って言うて来い。」

奥から子供の声で返事があり、出ていく気配がした。

「ほんでンドゥールよ。今晩はどうするんなら?」

「ほれがのぉ、急な話で悪いけんど、ここに泊めて貰えんかのう。」

「おお、ええぞ。」

ンドゥールは、懐から金を出すとンガボに握らせた。

「ほんなら、ちょっと待っとってつかあさい。」

何故か嬉しそうな様子でそう言って、ンガボも裏口から出ていった。

ンドゥールは言った。

「市場に買い出しに行ったんですわ。少し多目に渡しちゃったけん、今晩はここん子らも、久し振りに腹一杯喰えるじゃろう。」

そう言う彼も、心なしか嬉しそうであった。

どうやらこの国の食糧事情は、かなり悪そうである。

そこへ、店の奥から少年が顔を出した。

父を探しているようだ。

「どねえした。父ちゃんは市場じゃ。」

「あー、そのぅ・・・」

少年がどうしたものかと、口ごもる。

「ああ、宮殿に行ってきたんか。ほんで、どねえ言うとった?」

「えー、その、」

少年は、言われた事を懸命に思いだそうとしていた。

「オッテ・・・サタアルマデ・・・えーとタイキセヨ、って伝えろって言われたんじゃけど。」

「ほうかほうか、ご苦労様じゃったのう。」

ンドゥールは、懸命な表情の少年の頭を撫でた。

「ご苦労様でした。ありがとう。」

そう言いながら、ケイは一ドル札を差し出した。

少年は、どうしたものかとンドゥールの表情を窺う。

「ええよ、貰うとけ。」

ンドゥールの笑い声にほっとした様子で、少年は、嬉しそうにチップを受け取った。

しばらくすると、人の良さそうな笑顔を浮かべてンガボが帰ってきた。

「すぐに晩飯の仕度をさせますけん、もう少し待っとっちゃってつかあさい。」

そう言って、三人は店内で談笑した。

世間話に託つけて、ケイは国内事情を色々と訊ねた。

経済がうまくいっていない状況、特に税金の高さと食糧事情の悪さについて、ンガボは政府の無策を一頻り嘆いた後、嘆息した。

「陛下も、もうちょっと役人共の尻を叩いて下さらんかのう。」

愚痴が出た所で、ンドゥールが話題を替えた。

「さっきのは、下の坊主か。」

「おお、上はまだ学校から帰らんわ。」

「そうじゃったのぅ。」

その会話を聞いたらケイが割り込んだ。

「学校があるんですか?」

「ああ、そうですわ。」

ここまでに見てきた街の様子からすると、とても信じられない。

殆どの社会では、危機になったときまず犠牲にされるのが福祉であり、特に生命に直結しない公教育は、最初に放棄される。

これは、教育を受けさせる義務を持つ二者、即ち保護者と国家に共通して言える。

子供に教育を受けさせる事は、親にとっては学費を捻出する必要と同時に、大した力ではないとはいえ労働力を奪われるという二重の負担を強いる物である。

そして国家にとっては、公教育制度は軍隊と並んで金のかかる物である。

一人辺りの費用は軍隊より格段に安いが、その対象となる人数が桁違いなのだ。

そして、その費用を全て保護者に負わせれば、結局教育の恩恵を受けられるのは一部の富裕層だけとなり、本当に必要な階層が教育を受ける事は出来なくなる。

教育の普及割合と保護者負担額は、概ね反比例する。

十分な人数が教育を受けられる所まで保護者の負担額を下げるために国家が負担しなければならない費用は、想像を絶する金額となる。

さらに本当に公教育を必要とする低い階層は、子供分の労働力を奪われるために、無償の場合ですら子供を学校に行かせる事を嫌がる。

今や世界中で公教育がきちんと機能している国は少数派に属する。

「まあ、学校は只じゃし、そもそも怪我や病気みてぇな理由も無いのに子供を学校に行かさんかったら、目ん玉が飛び出る程の罰金を取られますけんな。」

教育が完全無料であると聞いて、ケイは軽く驚いた。

かなり余裕のある国でも、学費の補助や免除規定がある程度で、完全無料という国は見たことがない。

「それに、みんな少々の病気や怪我なら、叱り付けてでも学校に行かせますわ。何しろ学校に行きゃあ昼飯が出ますけん。」

「給食があるんですか?」

ケイは本気で驚いた。

ここまで見てきた事だけでも、深刻な食糧事情は明らかである。

この状況で教育機関が給食を運営できているなら、奇跡に近い。

「それぞれの地域にある皇室の御料農場で取れたもんを、優先的に給食に廻して下さっとるんですわ。」

ンガボはしみじみとした調子で言った。

「それは、大した物ですね。」

ケイは感心する他は無かった。

「ああ、大人なら、今日は昼を抜こうかっちゅうのもありじゃけんど、子供はそうはいかんですからのぅ。下の子らも、早う学校に行ける様に成りたいっちゅうて、毎日言うとりますわ。」

そう言ってンガボは笑った。

やがて、奥から女の声がする。

「あんたぁ、出来たで。」

「ほんなら、食べましょうか。」

ンガボに誘われて奥に入ると、テーブルには、先程市場で見たような食材が湯気をたてている。

ンガボの妻らしき女が三人の子供達をさらに奥に追いたてようとしているが、一番歳かさらしき少年を筆頭に、子供達はテーブルの上を一生懸命に見つめて中々出ていこうとしない。

「ほら、後でちゃんと食わしちゃるから、あっちへ行っとれ。」

そう言って、ンガボも追いたてようとした。

子供というものは大概空腹な物だが、それにしてもこの子らの眼差しは、余りにも真剣であった。

普段の食事がどれ程乏しいのかが窺える。

「食事は賑やかな方が楽しいから、一緒に食べよう。」

ケイの言葉に、子供達の目が一斉に輝いた。

子供達が大変な勢いで料理の山を片付けて行くのを、目を細めて眺めつつ和やかに食事を済ませた。

ミルクで煮出して(取って置きの)砂糖をたっぷり入れたスパイス入りの紅茶を啜りつつ談笑していると、表から大きな声が響いた。

「連邦監査官アマギ殿は、居られるか?」

ケイが出て行くと、そこには派手な肋骨飾りつきの立派な制服を着た男が立っていた。

「連邦監査官ケイ・アマギです。」

男は直立不動の姿勢を取ると、声を張り上げた。

「帝室侍従のシャルル・ポンピドーと申します。陛下からの御言葉を伝えに参りました。明日10時に謁見の儀を行うので宮廷に出頭せよ、との事です。」

「承知しました。」

ケイが答えると、ポンピドーは肩の力を抜いた。

「宮廷内でのご案内は、私が仰せ付かっております。宮廷にご到着の際は、玄関で私を呼んで下さい。」

そう言って、右手を差し出す。

ケイはその手を握り返した。

「よろしくお願いします。」

ポンピドーが帰ると、ケイはンガボの長男に頼んで教科書を見せて貰った。

算数や国語は特に偏りもなく、初等教育の物としては悪くない内容であった。

理科の教科書を見た時には、ケイは軽い驚きを覚えた。

内容的には、他の教科と大差無い初等教育的な物であるが、適切な科学教育が行われているという事自体が驚きであった。

今や大半の地域では、公教育は宗教団体が肩代わりしている。

いわゆる日曜学校というやつである。

といっても現在の神聖盟約制の元では、宗教団体と地方政府は概ね同じ組織の両面に過ぎないのだから、一見すれば同じ事の様に見える。

しかし、この『両面』というのが曲者なのだ。

『政府』が行うなら、建前として特別な価値観に偏らない公平な(勿論程度の問題ではあるが)教育が求められる。

しかし『宗教団体』が行うならそんな制約は無いので、そのカリキュラムは思想教育が中心となり、従順な信徒を育てる事こそがその眼目となる。

だから、それは特定の価値観に偏って当然なのである。

そして、国史の教科書を開いて読み進むと、驚愕した。

レアアース景気の終焉により、旧政府が崩壊した際の社会的混乱の中で、ベムボとエブアの対立という最大の国難を収拾した初代皇帝ジョン一世の功績が、特筆すべき偉業として太文字で讃えられているが、一方で、その事跡やそれに続く皇帝制の樹立は、『旧政府崩壊の混乱と、それに伴う民族対立の激化という緊急事態を乗り切るための便法』とはっきり記されているのだ。

つまり、その対立が止揚できれば皇帝制は不要になる、と言わんばかりの論調なのである。

これでは、革命を勧めている様な物だ。

政府公定の教科書が、はっきりとは言わないまでも革命を是認する様な筆法で編纂されているという事実は、ケイの理解を超えていた。

しばらくすると、ンガボ達がハンモックを持って表に出た。

ハンモックを庇の下に並べて吊り始めるのを見たケイは、ンドゥールに訊ねた。

「何をしているんだ?」

「わしらに寝室を空けるために、ここで寝るんですがな。」

「それはいけない。子供に野宿させる訳にはいかんだろう。」

ンドゥールは笑った。

「これが、ここでの歓迎の印ですけん。それにこの辺は、夜は虫が多いんじゃから、ンガボも子供達も慣れとるけど、旦那はそうはいかんじゃろ。」

たしかに、ケイはもう既に何ヵ所も虫に刺されている。

ありがたく好意を受け取っておく事にした。


翌朝、ンドゥールの案内で、宮殿へと向かった。

それは、街の中心部に建つ優美な建物であった。

高さは三階建てと大した事はないが、全体に白亜が施され、屋根には明るいテラコッタが張られた、コロニアル・スタイルの恐ろしく大きな建物である。

大きく開いた玄関の向こうには広いロビーが窺え、かつては高級ホテルだったと想像された。

建物自体はかなり古そうだが、全体的に良く手入れされている。

「では打ち合わせ通り、船で待っていてくれ。」

「判りました、旦那。いつでも出せるようにしときますけん。じゃけんど、慌てて逃げ出す様な事にならにゃあええんですがな。」

「私も、そうならないことを願っているよ。」

そして、ンドゥールは港に向かった。

ケイは、玄関脇に捧げ銃の姿勢で直立している衛兵に声を掛けた。

「連邦SI局の監査官ケイ・アマギが参りました。侍従のポンピドーさんにお取り次ぎ願います。」

「かしこまりました。」

そう言って、衛兵は一礼すると中へ入っていった。

しばらく待つと、衛兵はポンピドーと供に戻って来た。

「アマギ様、ようこそいらっしゃいました。」

「今日はお手数をお掛けしますが、よろしくお願いします。」

「もう謁見の準備は出来ております。こちらへどうぞ。」

そう言って、ポンピドーは先導した。

ロビー奥の壮麗な階段を昇り、絨毯の敷き詰められた長い廊下を進むと、大きな扉があった。

「こちらが、謁見の間でございます。」

そう言って、ポンピドーは見上げる程に高い扉に手を掛けた。

扉は全面に彫刻が施され、大変に重厚そうである。

ポンピドーは、にこやかな表情で扉を引いたが、その取っ手を握る指が真っ白になる程の力が掛かっており、相当に重いのは間違いない。

ケイは、通された部屋を観察した。

それは、部屋というよりはちょっとしたホールという規模で、左右の壁は見事なタペストリーで被われ、床は艶やかな大理石が張られた上に、足首まで埋まるかと思われるような絨毯が敷かれ、その他の壁や天井は、扉同様に全て細かな彫刻が施されている。

壁際のマホガニー製と思しきテーブルには、目の覚める様な鮮やかな朱青の稠密な彩色と金銀の縁取が施された、磁器の巨大な壺が並んでいる。

一言で表せば、豪華としか言い様のない調度である。

その奥には、その部屋の豪華さが霞む程に立派な、緻密な彫刻で金張りの玉座が置かれていた。

ケイの背後で再び扉が開く気配がした。

振り返ると、金銀のモールをごてごてと貼り付けた豪華な衣装をまとった男達が、ぞろぞろと入って来た。

彼らはケイには目もくれず、部屋の奥に進み、玉座の左右に整列する。

おそらく、閣僚達であろう。

しばらくすると、何か合図があったのか、玉座の間近に立つ大臣が声を張り上げる。

「皇帝陛下のお出ましである!」

その声に、閣僚達は一斉に直立不動の姿勢を取った。

玉座の脇の扉が開き、銀髪を綺麗に撫で付けて全身を金銀のモールと輝くボタンで飾り立てた衣装を纏った堂々とした風采の男が入って来た。

男は、ゆったりとした所作で玉座に付くと、傍らの大臣に声を掛けた。

「この者が、連邦政府の監査官か?」

大臣は恭しく一礼して、答える。

「左様でございます。」

そう言って、ケイに向き直ると言った。

「ここにおわすは、イフリーキア皇帝ロベルト二世陛下である。平伏せよ。」

その間に、末席の大臣が、ケイの傍らに歩み寄る。

どうやら、この男を通して話をせねばならないようだ。

皇帝は、軽く右手を挙げて制した。

「良い良い、平伏するには及ばぬ。直答を許す。その場で名乗るが良い。」

その言葉で、男は元の位置に戻った。

ケイは、下らない伝言ゲームをしなくても良さそうなので、一安心した。

「連邦SI局の監査官、ケイ・アマギと申します。」

そう言って、深々と一礼した。

「遠路遥々大儀であった。詳しい話は、後程帝室長官の方からあろう。明日の儀式の監査、宜しく頼むぞ。」

ケイは、取り合えず調子を合わせておく事にした。

「畏まりました。」

皇帝が傍らの大臣に目をやると、大臣は無言で頷いた。

「正餐の準備が調ったようじゃ。席を代えて話そうではないか。」

その言葉を合図に、大臣達は列になって謁見の間を出ていった。

ポンピドーが再びケイに寄り添い、先導する。


正餐の間は、謁見の間に負けず劣らずの豪華さであった。

部屋の中央は、長いテーブルで占められており、その奥の主人席には、既に皇室が座っていた。

驚いた事に、ケイはテーブルの端を占める皇帝の右隣、つまり、最上級席に案内された。

本日の正餐では、主賓扱いという事である。

皇帝に一礼して、着席する。

料理は既に大皿に盛られて、テーブルに並んでいた。

その品々は、鶏や豚、羊の丸焼きや二種類のスープ、後は何かの芋を蒸した物と、塩ゆでしたトウモロコシの粒といった程度で、宮殿の外で食べられている物と大差無さそうで、部屋の調度とは似つかわしくないくらいに質素というよりは、むしろ粗末な代物である。

ただし、その量は馬鹿馬鹿しいくらい多く、テーブルの向こう側の顔が見えない程に盛り上げられている。

皇帝以下の閣僚達がどれ程大食漢揃いでも、一割も食べられないだろう。

グラスに酒が注がれて、首席大臣の音頭で乾杯が行われ、食事が始まった。

給侍が取り分けた料理は、豪華では無かったが、味は悪くなかった。

良い材料を、丁寧に調理しているようである。

宮殿の外では、手掴みで食べられているであろう料理を、全員が神妙な面持ちで、ナイフとフォークで食べている。

皇帝と談笑しながらケイは、外で見た食糧事情とこのテーブルの上の有り様について問い質してみたい衝動に駆られたが、敢えて触れるのは止めておいた。

「どうじゃ、余り食が進んでおらぬようじゃが?」

「いえ、もう十分頂いております。」

そう言う皇帝自身も、それほど大量に食べている風ではなかった。

食欲に関しては閣僚達も大差無い様で、結局どの皿も殆ど減らないまま下げられ、食後のコーヒーとなった。

皇帝は、一頻り世間話をした後退出した。

ケイの向かいに座る帝室長官は、明日の儀式に関する細々とした説明を行い、正餐は散会となった。

正餐の間を出たケイに、ポンピドーが耳打ちする。

「陛下が、自室でお話ししたいとの仰せです。」

ケイが頷くと、ポンピドーは先導して廊下の奥に向かって歩き始めた。

廊下の奥の特にこれといった特徴のないごく普通のドアの前に立ち、声を掛けた。

「陛下、お連れ致しました。」

「入りなさい。」

即座に返事があったので、ドアを開けてケイに入室を促す。

ケイが入ると、皇帝は椅子を持って来る様に命じた。

一旦部屋を出たポンピドーは、椅子を引きずって来ると、一礼して出ていった。


翌朝ケイが儀場となる広場に案内されると、街の中心にある広場の奥にはステージが設けられていた。

ステージの奥は白く塗られた壁であり、その中央部にカーテンが掛けられている。

そこが、出入口なのであろう。

ステージの右側には、10枚の肖像画がステージ中央奥から右手前に斜めに整列して広場を威圧的な眼差しで睥睨しており、その前には豪華なゴブラン織りの掛かった祭壇が設えられ、金と思しき燭台を両脇に従えた重厚な大理石の水盤が安置され、その横には聖水を振り撒くための灌水器や、何に使う物か金色の椀が並べられている。

ステージ左端では、奥側から左手前に斜めに高さ2メートル弱のトーテムポールが二体と、それに挟まれるように置かれたテーブルの上に、高さ50センチ程の細かい模様の施された、銀色の平たい十字架が立てられている。

トーテムポールのモチーフは、それぞれ鰐とガゼルであり、両方共下部30センチ程が、焚刑を思わせる細い木切れで覆われている。

ステージと向かい合う広場は、既に群衆で埋め尽くされていた。

群衆の周りは、制服姿の軍人がライフルを斜めに構えて取り囲んでおり、何事か有れば躊躇無く発砲する構えである。

ケイはステージ右隅の椅子に案内され、閣僚達と並んで席に着いた。

朝の爽やかな時間はとうに過ぎて、高く昇った太陽は灼け付くような陽射しを投げ付けている。

ケイも群衆も軍人達も、既にじっとりと汗ばんで、何が起こるのかを待っていた。

「皇帝陛下のお出ましである!」

大音声が響き渡ると、閣僚達はバネのように一斉に起立し、直立不動の姿勢を取った。

ケイも一呼吸遅れて立ち上がりつつ広場を見ると、群衆はその場に平伏させられていた。

ステージ中央のカーテンが開き、皇帝が歩みでた。

金糸銀糸の繍を施した分厚いマントを羽織り、大きな錫杖を携えて、ゆったりとした所作である。

この暑いのに大変な事だ、とケイは内心同情を覚えた。

閣僚達は、一斉に拍手を始めた。

ステージ中央に立った皇帝は群衆を無視して、右手を上げ閣僚達の拍手に応える。

一頻りお手盛りの喝采を受けた後、掌で閣僚達に着席を促して広場に向き直ると、堂々とした声で演説が始まった。

「我が忠実なる臣民達よ、この暑い中大儀である。」

一旦顔を上げた群衆は、その声に再び平伏した。

「汝らの中で、再び歴代皇帝の厚恩を忘れ、汝ら忠実なる臣民達を約体もない古臭い神々の許へ引き戻し、臣民同士を互いに敵視させようとする悪辣なる企みが起こっておる。」

その声は凛とした調子でありながら、ケイの耳にはむしろ悲痛な叫びの様に聞こえた。

「そこで、ここに再びその古臭い神々が神聖なる皇帝の力の前には全く無力である事を、汝らの愚鈍なる頭でも理解できる様に示してやろう。」

そう言って皇帝は、トーテムポールと十字架を指した。

「これ等は汝らの古い宗教を示している。つまりこの鰐のトーテムはベムボの祖先であり、ガゼルはエブアのトーテムである。また十字架はカトリックの象徴じゃ。」

その言葉に、群衆は不安そうに顔を見合わせていた。

「予の力を見よ!」

そう叫ぶと、肖像画に向き直った。

「歴代皇帝陛下、貴殿方の後継者たる予に、その神聖なる力を分け与えたまえ!」

そう言いながら、金色に輝く錫杖を差し上げ、何かを唱え始めた。

微かに聞き取れる単語からすると、ラテン語の様である。

ケイは、ラテン語を独学で少し学んだ事がある。

基本的に、監査官の教育に必須科目は存在しない。

カリキュラムは師匠と本人で決めて行く物なのである。

ケイ本人はラテン語が必要と考えた訳ではなく、師匠のランドルフもその点は同様であった。

ケイは、ランドルフの決めた余りに実用一辺倒のカリキュラムに対する子供らしい反発心から、最も実用的でないと思われたラテン語に敢えて手を出したのだ。

ランドルフは、それを笑って見ていた。

今になって思えば、アルゴンキン語かチョクトー語にしておくべきだった、と感じている。

監査官の仕事においては、ラテン語は存外『実用的』なのだ。

どうせ、大した事は言っていないだろうと思いつつも、皇帝の呪文に聞くともなく耳を傾けていたケイは、危うく吹き出しそうになった。

皇帝が一生懸命に唱えていたのは、アエネイスだったのだ。

ケイも全てを暗記しているわけではないが、それでも特徴的ないくつかの節は覚えていた。

まあ、あれなら例え明日の朝まで唱え続けても、ネタ切れを起こす心配は無い。

勿論、あの長い叙事詩を全て暗記しているならの話だが。

詠唱を延々と続ける皇帝の額には青筋が浮かび、流れる汗は暑さによるものというよりは、むしろ何かと戦っている風であった。

詠唱がいくら続いても特にこれといった事は起こらず、時々詠唱を中断して歴代皇帝の肖像への呼び掛けを三度に渡って繰り返したが、状況は代わらなかった。

一本調子のラテン語の詠唱が更に続き、額に青筋を立てて懸命に唱え続ける皇帝本人以外は、灼け付く様な陽射しに炙られ目眩を覚え始めた頃に、突然叱咤の叫びが響き、全員の注意がステージ中央の皇帝の上に引き戻された。

「未だ、邪悪なるジン(精霊)が予の力を妨害せんと、跋扈しておるのか!」

そう叫ぶと皇帝は、錫杖をその場に置き、いきなり手近の兵士から銃を引ったくって、威嚇するように腰の高さに構えた。

「どこにおる、呪われし者よ?その浅ましき姿を現すが良い!」

そう言いながら、銃を構えてゆっくりとステージを見回す。

ステージ中央に目を向けた時、銃口が止まった。

「そこかぁ!」

叫ぶや否や、躊躇無く虚空に向けてぶっぱなした。

その瞬間、銃声と共に何も無いはずの空間から、ステージ背後の白壁に向かって鮮血が飛び散った。

群衆は度肝を抜かれ、恐怖の叫びを上げた。

「どうだ!皇帝の力を見たか!予の力の前には汝らの祖霊であるジンなど、獣の如く撃ち倒される存在でしか無いのだ!」

そう言って皇帝は、銃を投げ棄てると群衆をねめつけた。

再び祭壇に向き直ると、皇帝は灌水器を取り上げ、水盤に浸してから祭壇に向けて大きく振った。

すると、祭壇の両脇に立てられた燭台の蝋燭に、次々と自然に火が灯った。

それを見た群衆の間から、恐怖の呻き声が漏れる。

「見よ!最早歴代皇帝がその力を予の手にお下しになる事を、妨げる物は何も無い!」

そう高らかに宣言し、灌水器を置くと再び錫杖を取り上げ、両手を広げた。

「歴代皇帝陛下よ。今こそ来たりてその力をこの聖水に満たしたまえ。」

そう言って更に詠唱を行った後、金色の椀を取り上げて水盤の水を掬い取ると一気に飲み干した。

「さあ、これで歴代皇帝の聖なる力が、予の身に宿ったぞ。」

厳かにそう宣言したあと、再び水盤に灌水器を浸し、大股にトーテムに歩み寄った。

「臣民達を邪悪なる迷信に吹き戻そうとする、呪われた無力なるシンボル共よ。今この場で滅び去るが良い!」

そう言いながら灌水器を二度三度と大きく振って、再びラテン語の呪文を唱え始めた。

すると、なんと二本のトーテムの足許に積み上げられた薪の小山から、微かに煙が立ち登り始めた。

皇帝の詠唱がつづく中、その煙は小さな炎に変わり、めらめらと燃え上がり始めた。

みるみる炎は大きくなり、二本のトーテムを包み込む。

群衆は、呆然自失の体でその様子を眺めていた。

それを見ながらケイは、昨日の皇帝との非公式な二度めの謁見を思い出していた。

ーーー

その部屋は、先程の謁見の間とは比べ物にならない程みすぼらしかった。

何の飾りもないベッドとライティング・デスクに、クッションも張られていない木製の椅子と、これまた素っ気ないクローゼット、後はほんの言い訳程度の飾りがついた、それでも銀製とおぼしき燭台があるだけの狭い部屋である。

そしてその部屋に立つ皇帝は、ごく普通のシャツとスラックス姿の、いささかくたびれた初老の男に過ぎず、先程の威圧感は微塵も無かった。

ケイの表情を見た皇帝は、部屋の調度を見回して皮肉そうな笑みを浮かべた。

「驚いたかね?」

「そうですね。」

ケイは、素直に認めた。

「ここは私室だからな。皇帝たるもの、臣民に接する場では常に畏怖を覚えさせるようでなくてはならない。あの謁見の間の調度品は、言わば必要経費というやつだ。それはともかく、改めて自己紹介しよう。ロベルト・シュヴァルツァーだ。」

ケイは、差し出された手を握る。

「早速だが、本題に入ろう。掛けたまえ。」

ケイは、シュヴァルツァーと向かい合って座ると、訊ねた。

「どういったご用件ですか?」

「明日君に見てもらう儀式だがな・・・」

そこでシュヴァルツァーは、唇の端を吊り上げ、皮肉めいた口調で言った。

「有り体に言えば、全てイカサマだ。」

さらりと言ってのけたその言葉に、ケイは絶句した。

「どうせ、君の目は誤魔化せんからな。全てぶちまけた上で、理解を求める他はないと思っている。」

ここまで明け透けな言い方をされると、ケイとしても微妙な駆け引きを考える段階では無いので、率直に訊ねた。

「それは、私に詐欺の片棒を担げ、と仰っているんですか?」

シュヴァルツァーは、一瞬、悪戯を見つけられた子供の誤魔化し笑いを思わせる様な顔をしたが、すぐに元の皮肉な表情に戻った。

「出来ればそう願いたい物だが、いずれにせよ、君にそれを強制する手段は無い。まあ、ともかく話を聞いては貰えまいか?」

何にしても、話を聞かない事にはどうしようもない。

取り合えず、先を促した。

「何もお約束する事は出来ませんが、先ずは伺いましょう。」

シュヴァルツァーは、話し始めた。

「ベムボとエブアは、互いに何と呼びあっているか、ご存知かね?」

その件に関しては、昨日実例を見たばかりである。

「エブア族の方が何と言っているかは存じませんが、ベムボ族の方は、エブア族を『エボラ』と呼んでいる様ですね。」

シュヴァルツァーは、頷いた。

「そうだ、そして、エブアは、ベムボを『ペスト』と呼んでいる。」

ケイは、昨日の男達が『エボラ』と口にした時の、吐き棄てる様な表情を思い出す。

「正に『憎しみを込めた』呼び方ですね。」

シュヴァルツァーは、淡々と話し続ける。

「元々、ベムボとエブアはタンガニア連邦の辺境で、隣接した部族だった。そして、伝統的に仲が悪かった。この実り少ない大地で隣り合っていれば、まあ当然の事だ。」

ケイは黙って頷く。

「タンガニアは、20世紀半ばまでイギリスの植民地だった。そう言う場合のイギリスの典型的な遣り口を知っているかね?」

帝国主義時代に関する歴史では、基礎知識である。

「少数民族の優遇ですか?」

シュヴァルツァーは頷いた。

「そうだ。まあ、イギリスだけの手管ではないがな。」

植民地を作る際に、わざと複数民族を一纏めにして国を構成し、少数派となる民族を優遇して、中間支配階級として唆走する。

それによって、危険な多数派に力を持たせない様にすると共に、民族間の対立を煽って、植民地全体が団結する事を防ぎ、更には少数派民族を通じて過酷な支配を行わせる事で、多数派民族の怨みをそちらに向け、これを盾とする事で、宗主国から来る少数の白人による支配を維持するのである。

「タンガニアには、全部で10を越える部族がいた。イギリスは、その中で少数派である3部族を中間支配階級とした。その内最も規模が小さかったのがエブアだ。だからエブアは、タンガニアの中で怨嗟の的となっていた。その後、イギリスの支配から脱した時も、アフリカの植民地としては流血の少ない比較的穏やかな独立ぶりではあったので、支配階級であった白人達も根絶やしの憂き目を見る事もなく、タンガニアを捨てて亡命する必要もなかった。とは言え、支配階級から滑り落ちた事の不満は燻っていた。」

ここまでの内容は、ケイが事前に調べていた事と概ね一致している。

「それだけなら、どこの国でも有りそうな話だが、この国の不幸は、大いなる再構築以前にレアアース、特にロジウムやパラジウムの大鉱脈が発見されてしまった事から始まった。」

ロジウムやパラジウムは、レアアースの中でも自動車の排気ガスを分解する触媒からバッテリーの添加物まで、特にその利用範囲が広く非常に使いでがある上にその産出量が少ない、極めて価値の高い代物である。

「当時は、発展途上国でも耐久消費財の大量生産が始まり、世界的にレアアースの枯渇が深刻化していた時期だったから、世界的企業のグローバル・マテリアル社が、早速それに目を着けた。更に不運だったのは、その鉱脈があるエブアの居住地は、海に面していなかった事だ。早速採掘権獲得の交渉に入ったグローバル社に、タンガニア連邦政府は足許を見て途方もない金額をふっかけた。グローバル社の経営陣は、冷静に算盤を弾いた結果、その金額なら国が買えるだろうと判断した。そして、タンガニア国内で不満を燻らせていた旧支配層に目を着けた訳だ。彼らを唆して、タンガニアから独立させる事にしたんだ。しかし、エブア族の居留地だけで独立させればレアアースの搬出が難しいから、隣接する海のあるベムボ族の居住地をワンセットとして国を作れば良いと考えた。そして旧支配層は、グローバル社からの資金で両部族の代表者に裏から働き掛けて、独立戦争を起こさせた訳だ。」

「対立を棚上げしたくなる程の金額を与えたわけですか。」

シュヴァルツァーは頷いた。

「ベムボとエブアの代表者達は旧支配層に買収されて手を組み、レアアースの採掘権を担保に借金をして、独立戦争を起こした。多少の紆余曲折はあったが、その思惑通り両部族地域は独立を果たし、旧支配層は、グローバル社と独占契約を結ぶイフリーキア・マテリアル社を立ち上げて、その経営権を独占した。そして、イフリーキア社は、イフリーキア政府とほぼ一体の存在として、君臨した。」

これで、先日来の疑問の一つが解けた。

「なるほど、だから、国名がこんなにいい加減なんですか。」

シュヴァルツァーは笑った。

「いい加減とは、また辛辣だな。『イフリーキア』の何が悪い?良い名前じゃないか。国名を『エブア』や『ベムボ』にしたら、この国は5年と持たずに崩壊しただろう。さりとて、両地方には統一的な呼び方も無かった。大きくまとめる以外に手がないじゃないか。」

「それにしても、少々大きすぎますよ。」

シュヴァルツァーは、ケイの抗議を軽くいなした。

「初代社長の名前を国名にしなかっただけでも、控え目な方さ。まあ、それはどうでも良い。いずれにしても独立後のイフリーキアは、レアアースの一大輸出国となり、国をあげて好景気に沸いた。イフリーキア社の経済的支配の元で部族対立は棚上げされ、両部族の雑居化が進んだ。特にエブアは人口が少なかったから、採掘や精製のための人手確保を目的として、イフリーキア社が積極的にベムボの移住を後押ししたからな。そして、元々、食糧生産が豊かで無かった土地だったが、レアアース景気で大規模な食糧輸入が可能となり、イフリーキアは急激な人口増を迎えた。そのまま100年、いやせめて50年この状況が続けば、両部族は混交し新しい統一部族が出来たかも知れない。しかし、そこで大いなる再構築が起こった。」

ケイは頷く。

「レアアースは、誰も必要としない元の土塊に戻り、他に何も産業のないイフリーキアの社会は、一瞬で破綻した。その結果、とてもこの貧しい大地では養い切れない人口を抱えたまま、ベムボとエブアは恒常的な食糧不足の中で、折り合いの悪い隣人達との協同生活を強いられる破目に陥った訳だ。その時、本格的に帰る場所を失ったイフリーキア社の幹部達は、大いなる再構築後の混乱の中でここに骨を埋める覚悟を決め、イフリーキアの崩壊を回避すべく必死に努力した。彼等は、今更エブアとベムボを分離する事も叶わぬ中で部族間対立を緩和しようと、懸命に教化と仲裁に努めた。ルワンダの様な悪夢が起こる事を怖れたのだ。君は、ルワンダの悪夢をご存知かね?」

「ええ、聞いた事はあります。」

ルワンダは、元々フツ族とツチ族という二つの部族の居住地だった地域を、ドイツが植民地化した結果出来上がった国である。

フツ族とツチ族の間にも、やはり根深い部族間対立があったが、少数民族であるツチ族を中間支配者の位置に据える事で、一つの植民地とした。

しかしその後、支配者がベルギーに代わり、第二次大戦後のナショナリズムの台頭を契機に独立を果たした。

フツ族とツチ族は、とりあえず協同してルワンダを立ち上げたが、その発足当初から、ベルギー主導の旧体制下での中間支配階級であった少数民族ツチと、その支配・弾圧を被った多数民族フツの感情的対立の種子はそのままであった。

そして20世紀末、両部族間の調整に心を砕いていた大統領以下の政府主要閣僚が、飛行機爆破による暗殺で壊滅した時、生き残ったフツ派閣僚が、少数民族のツチを『駆除』せよ(彼の目にはツチは人間として映ってはいなかった)と呼び掛けたために、フツ族の間で『民兵』と称する愚連隊が次々と発足し、虐殺を始めたのだ。

フツの民兵達は、有り合わせの武器を手に、身近のツチに襲い掛かった。

その主力兵器は鉈や包丁であり、それ以外には棍棒や自動車のエアフィルター(!)を振り上げて手当たり次第にツチの人々に振り下ろして行った。

民兵の襲撃を受けた雑居地域のある女子中学では、「お前はフツか、ツチか?」という問に対して「どちらでもない。自分達は、ルワンダ人だ!」と少女達が胸を張って答えたという。

しかし、この答は目を血走らせた民兵達に感銘を与える事は無かった。

少女達は部族に関係無く、皆殺しにされた。

結局のところ、国連が介入を決めるまでに、フツ族の襲撃とツチ族の反撃で喪われた命は80万とも100万とも言われている。

「当時のイフリーキア社の幹部達は、文明人としてのノブレス・オブリージュに従い、ベムボとエブアという野蛮人達が、この国を第二のルワンダにしてしまわぬ様に必死に努力した。しかし、互いに敵視し合わない様に指導・教化する試みは、実を結ばなかった。元々が、イフリーキア全土に民族対立感情が深く根付いており、枯草が一面に広がる荒野のような物だったのだ。レアアース景気という温かく穏やかな雨が降り注いでいる間は、枯草が燃え上がる事は滅多に無く、仮に一部が燃え出しても、燃え広がらぬうちに自然に消えていた。ところが、その雨が止んで乾燥を止める手立てが無くなった時、荒野全体はまだ枯草に覆われたままである事があきらかとなった。どれ程教育を施し、仲裁を行って消火しても、すぐに別の場所で対立と小規模な虐殺の火の手が上がる。野蛮人特有の無知による偏見は余りにも根深い物だったのだ。様々な試行錯誤による苦い経験の末に彼等がたどり着いた結論は、もう一度雨を降らせる事が出来ない以上、荒野全体冷たく峻烈な嵐で覆って再び火が起こらない様にする事、すなわち『野蛮人どもの無知蒙昧に基づく迷信を利用して、上からの圧政を敷く事により、互いに争い合う余裕を与えない』という事だった。」

我慢しきれなくなったケイは、できるだけ婉曲に指摘した。

「まことに失礼ではありますが、貴方のお考えには、ベムボ族やエブア族の人々に対する、いささか適切とは言いがたい感情が窺える様に見受けられます。」

シュヴァルツァーは、からからと笑った。

「随分と持って回った言い方をするね。はっきり『偏見に満ちている』と言ったらどうだ。」

ケイは、どう答えたら良いのか、判らなかった。

シュヴァルツァーは、傲然と胸を反らして言った。

「私は、誇り高き白人としての矜持を持って、あの、互いに助け合う事もできぬ、無知な野蛮人どもを軽蔑しておるよ。」

そう言った後、寂しそうに笑い、声を潜めて続けた。

「そう思い込まなければ、こんなろくでもない圧政を敷き続ける事に耐えられるもんじゃない。」

その言葉に、ケイは慄然とした。

「ルワンダの悲劇を避けるために、もっと穏やかな遣り方があるなら、是非教えて欲しいものだ。いや、君がそれをできると言うんなら、この場で皇帝の座を君に譲っても良い。」

唇の右端を吊り上げた皮肉な表情からは、どこまで本気で言っているのかのか判らないが、案外本音なのではないかという気がした。

「しかし、それで反乱が起こったらどうするんです?」

シュヴァルツァーは、平然と答えた。

「どうもすりゃせんよ。前任者達はその都度無慈悲に鎮圧してきたし、幸い私が即位してからはそんな目に会っていないが、もしそうなれば、私も躊躇う事なくそうする。」

その言葉に、ケイは意地の悪い追い討ちを掛けた。

「鎮圧が不可能な規模の反乱になったら?」

シュヴァルツァーは、皮肉な調子で答えた。

「ベムボとエブアが、共に手を取り合って私の首を取りに来るなら、くれてやるさ。そうなれば、その成功に舞い上がって、その後何十年かは互いの憎しみを忘れるかも知れん。もしかしたら、革命の興奮の中で奇跡が起こって、奴等がしっかりと手を携えて行く気になるかも知れん。」

国を治めるという事は綺麗事では済まないのだと頭の中では理解しているが、これ程の決意をしている事にケイは絶句した。

「ところで君は、ヨーロッパの歴史を学んだ事はあるかね?」

唐突な話の転換に、ケイは狼狽えつつ答えた。

「少し本を読んだ程度です。」

更にシュヴァルツァーは訊ねた。

「イングランド史の中で、国民がその権利という点で最も多くの恩恵を被った王は、誰だか知っているか?」

ケイは、首を捻ってから答えた。

「ヘンリー八世か、エリザベス一世でしょうか。」

ところが、その答は全く意外な名前だった。

「欠地王ジョンだよ。」

「ジョンが?」

欠地王ジョンとは、中世イングランドの王であるが、その独善的で欲深く猜疑心の塊の様な性格のために外交上の失敗を惹き起こし、大陸領土の大半を喪失し、更には全イングランドを法王に寄進させられる破目に陥るなどの失政でイングランドに多大な損害を与えた事から、イングランド史上最悪の王とされている。

これらの大規模な領地喪失のために『失地王』と渾名されたと誤解されるほどである。

実際のところは、ジョンの少年時代に父ヘンリー二世が、領地を全て兄達に与えてしまったために彼の取り分が無くなってしまったと謝った事から『欠地王』という渾名になったのだが、そういう誤解が広く定着する程に、その失政は甚だしかった。

勿論、内政においても同様に失政が多かった上に、欲望の赴くままに苛酷な収奪を重ねたので、その功績を肯定的に評価する歴史家は居ない。

余りにもその政治が芳しからざる物であったために、その後のイングランド史上でその名を継承するジョン二世はついに出なかった、という程の人物である。

「ご存知の通り、ジョンはその相次ぐ失政のために、何度も反乱に遭っている。そして、その度にマグナ・カルタに代表される王権を制約する権利を臣下達によって力ずくでもぎ取られ、その約束を反古にしようと足掻いては更なる反乱を招いて、先の権利を再確認させられた上に、より以上の権利を約束させられる、という醜態を重ねた。その余りの苛政・無能ぶりに反発する国民達は、上下の枠を越えて協力しあい、政治意識を高めていった。実際のところ、ジョンがいなければ、イングランドに範を取る議会制民主主義の確立は、100年は遅れただろう。」

確かに、その説明は筋が通っている。

「なるほど。」

「穏健な施策を重ねながら粘り強く教育を施して、部族間対立を止揚し国民意識を醸成するような余裕は、イフリーキアには無い。苛政を続ける事で対立感情を抑え込み、その苦しみの中から国民意識を掴み取らせる以外に、手は無いんだ。」

ケイには到底納得は出来なかったが、さりとて対案がある訳でも無かった。

「私はイフリーキアの11代皇帝だが、私を含めた11人の皇帝の中に 、簒奪で帝位に昇った者は一人も居ない。まあ、初代が皇帝を僭称した事を除けば、だがな。誰一人として、成りたくて成った者は居らんのだ。そして、玉座を自分の子供に譲った皇帝も一人も居ない。せめて、我が子にだけは、こんな辛い仕事はさせたく無いと願ったからだ。例えば、君をこの部屋に案内したポンピドーだが、あれは先帝の息子だ。」

何という過酷な仕事であろうか。

ケイは、明末清初の政治学者黄宗羲が明夷待訪録に記した「凡そこの世で絶対君主ほど、割に合わぬ仕事はない」という慨嘆を思い出した。

「その辺りの事情は判りました。しかし、何で今になって加盟監査の申請をする気になったんですか?」

ケイの疑問に、シュヴァルツァーは事も無げに答えた。

「簡単な事さ。最早イフリーキアの食糧自給能力は、限界を越えている。色々と誤魔化してきたが、そろそろ国内の至るところで餓死者が出始めているんだ。解決手段は食糧輸入しかないが、この辺りで食糧を輸出する能力があるのは、隣国の神聖タンガニア以外にない。ところがその神聖タンガニアは、名前から想像できる通り、タンガニア連邦が分裂して出来た群小国家の中で、最も強烈にタンガニア連邦政府の正統継承政権を自称している。だから、そのプライドにかけて、イフリーキアを認めるわけにはいかないのだ。そのために、神聖タンガニアとの間で、個別に交渉する事が出来ない。そうなると、後は連邦政府の調整を仰ぐしか手は無い。そのためには、我々も連邦に加盟しなくてはならない。」

---

シュヴァルツァーから具体的なトリックの説明は無かったが、目の前で起こっている奇跡の仕掛は、概ね想像が付く。

始めにジンを射殺して見せたトリックは、シュヴァルツァーに銃を取られた兵士がサクラだったのだろう。

彼の銃には、弾丸の代わりに血糊が装填してあったと思われる。

つまり、あの血飛沫自体が、銃口から飛び出したのである。

その後の自然発火は、二回とも聖水が掛かった時に起きている。

しかし、シュヴァルツァーはその聖水を飲んで見せているから、水に仕掛がある訳では無さそうだ。

となれば、蝋燭の芯とトーテムの足許には、水と反応して高熱を発する薬品、例えば生石灰の様なものが仕込まれているのだろう。

トーテムは、みるみるうちに炎の柱と化した。

その火勢からすると、たぶん油が染み込ませてあるのだろう。

「見よ!汝らの旧き信仰の末路を!」

再びシュヴァルツァーが、声を張り上げる。

炎の柱に挟まれた十字架の横腕が垂れ下がり始めた。

固唾を呑んで見守る群衆の目前で、十字架は両腕をすっかり下ろしてしまい、更に根元からグニャリと曲がり、そのまま倒れ込んだ。

群衆は驚愕の呻きを上げた。

いくら、炎の柱に挟まれているとはいえ、金属製の十字架である。

普通なら、金属が熔ける程の高温になっているとしたら、それと至近距離で向き合っているシュヴァルツァーが無事でいられる筈がない。

第一、十字架の立てられている木製のテーブルは燃え出す気配も無い。

これには、ケイも驚いた。

一体、どれだけの費用や手間暇を掛けているのか、と内心呆れたのである。

あの十字架の素材は、恐らくウッドメタルであろう。

ウッドメタルとは、ビスマスや鉛、カドミウムその他の合金で、一見固そうに見えるが、その融点は70℃程度でしか無く、普通のコーヒーを掛けても熔ける代物なのだ。

だから、炎に照らされて50℃程度になれば、もう軟化し始める。

あの十字架はかなり平たいので、ケイは見た感じで重量を1kg程と見積もった。

ウッドメタル1kgといえば、大いなる再構築以前なら100ドルで釣りがきただろうが、今はそうは行かない。

少く見ても1万ドル以上は掛かっているだろう。

今の世界で、ビスマスやカドミウムのまとまった量を手に入れるのは難しい。

特に、カドミウムは亜鉛と一緒に産出するが、亜鉛から分離するのは難しいのである。

大量の亜鉛を用意して、そこから様々な科学的操作を加えて抽出したのだろう。

ウッドメタル全体で1kgなら、カドミウムは100g程度は必要な筈だ。

そもそもどんなに丁寧に作業しても、純粋なカドミウムだけを100%抽出する事は出来ないし、工程が確立された大規模な工業プラントでもなければ、含有量の一割も取り出せれば良い方である。

だから、抽出に必要な亜鉛は恐らくトン単位になるだろう。

それを、工業的な規模のプラント無しに実験室程度の設備で処理するとなれば、それこそ気が遠くなる程の手間がかかっている筈だ。

怖れおののく群衆の前で、とうとう十字架はその形を失いステージの床に流れ落ちた。

シュヴァルツァーは、ステージ中央に仁王立ちし、錫杖を振り上げた。

「聞け、臣民共よ!汝らの約体もない旧き神々は滅び去った。汝らのすがるべきは、ただ予とその後継者たる皇帝達の力のみである。予は、ベムボもエブアも差別しない。予の与える祝福を離れては、汝らは平等に価値がない。皇帝の加護無くして、汝らに救済は無いのだ!今すぐ下らぬ争いを止め、全身全霊を以て予に仕えよ!」

群衆は、恐怖に震えながら再び平伏した。

ケイは、シュヴァルツァーの考えには未だに賛成できないが、この茶番を妨げる事もできなかった。

実は昨日の非公式会見の後、シュヴァルツァーに宮殿内部を自由に見回る許可を得ていた。

まず正餐の後の膨大な食べ残しを確認してみたところ、想像通りそれは正餐に預からなかった宮廷職員の食事になっていた。

今やイフリーキアの食糧事情は、高々数十人分の食糧を集めるだけでも、不満が沸き起こる程に悪化していたのだ。

だからシュヴァルツァーは、敢えて一身に怨嗟を集める形で彼らの食糧を調達していた。

たかが食糧だけで、この有り様である。

さらに政府の出納記録を確認したところ、毎月絞り上げる苛斂誅求そのものと言える高額の税金は、政府機構のギリギリの経常費用を除いた残りは、全て軍隊と教育の維持に注ぎ込まれていた。

その結果、国庫もとても余裕が有るとは言いがたい状態ではあるが、帝室財庫は完全に空になっていた。

そして宮殿内で、謁見の間と正餐の間以外で多少とも値打ちのありそうな調度は、皇帝の私室の燭台一本きりであった。

その他の部屋では木切れに釘を打っただけの間に合わせの燭台や、小皿に灯芯を差しただけの灯りが使われており、他の調度は全て売り払われて、税負担によらない宮殿の運営費に充てられていた。


「さて、儀式の間ずっと邪魔をしなかったという事は、この件に関してご協力願えると考えて良いのかな?」

再び私室で向かい合うと、シュヴァルツァーが切り出した。

「取り合えず、報告書には『全てイカサマだった』とは書かない事にします。それを見てどうするかは大賢人会議が判断する事なので、何もお約束はできません。」

シュヴァルツァーは、満足げに微笑んだ。

「十分だ。礼を言う。」

そう言って頭を下げるのを制して、ケイは訊ねた。

「ところで陛下、ウェルギリウスはお好きなんですか?」

そう言われたシュヴァルツァーは、ばつの悪そうな表情になった。

「何だ、知っていたのか。」

「昔、少しだけ読んだ事があります。」

シュヴァルツァーは、続ける。

「ウェルギリウスは嫌いではないが、別に好きだから暗記しているというわけじゃない。この国を今の体制で維持すると決めた先人達の中核となったのは、イギリスからやって来たジェントルマン達だったんだ。」

その言葉に、ケイは頷く。

ここで言うジェントルマンとは、紳士的な振る舞いをする人々の事ではなく、イギリスにおける平民と貴族の間の社会的階級の事である。

「初代皇帝ジョン一世は、ラグビーの出身だったと聞いている。聞いた事があるかね?」

何となく、話が見えてきた様な気がする。

「パブリックスクールですか。」

シュヴァルツァーは頷いた。

「そういう事だ。」

大いなる再構築以前、イギリスの上流つまりジェントルマン以上の階級の間では、出身大学は(ケンブリッジであろうとオックスフォードであろうと)大して問題とされなかった。

彼らの中で『良い教育』を受けたかどうかの基準は、出身の高校とされたのだ。

高校の中でも、ハロー、イートン、ラグビーといった名門中の名門とされる学校群は、パブリックスクール(『パブリック』と言っても、別に公立校ではない。その昔、貴族の子弟が自宅で家庭教師によりマンツーマンの教育を受けていた事に対して、公に対して開かれた学校、という意味である。)と称され、これらを卒業する事が上流階級に相応しい『良い』教育を受けた印であった。

そこでは、いわゆる学業で優秀な成績を修める事ではなく『公正な支配者』となるための人格的陶冶が重視され、そのために古典的教養を中心とした非実用的教育が施された。

その典型的な例がラテン語教育であり、それを基礎とする古代ローマの文学であった。

具体的には、政治家で哲学者のキケロの残した多数の演説や、詩人ウェルギリウスの叙事詩アエネイスに代表される古典的教養の習得だったわけだ。

それにより、パブリックスクールは教養豊かなジェントルマンを多数輩出したわけだが、同時に自ら支配者を持って任ずる、ある意味鼻持ちならないエリート意識の養成機関ともなった。

そういった人間達が初期に支配階級の中核にあった事で、この国の方向性が固まって行ったのであろう。

「ジョン一世だけでなく、その周りを固めていた人々も、半数近くがジェントルマン出身だったのさ。そして彼らは、その高い志を継ぐ後継者を養成するために、宮廷にパブリックスクール的な教育体制を作り上げたんだ。」

ケイは、ようやくこの国に現状の様な圧政が敷かれ続けている理由を理解した。

優れた支配者による善意の支配という幻想が、この国では未だに生きているのである。


宮殿を辞去したケイは、ンガボの店に立ち寄りンドゥールと合流した。

ンガボは店を閉め、家族総出で二人の船出を見送った。

ケイ達は、一家に丁寧に礼を言って、船に乗り込む。

船は、穏やかな海面を滑るように走り出した。

北アフリカの熱い陽射しに炙られながら港を振り返ると、一家はいつまでも手を振りながら小さくなっていった。

「旦那、うまくいった様じゃな。」

ンドゥールが、安心した様に言った。

「ああ、まあ大失敗はしなくて済んだ様だ。」

そう言ってケイは腰を下ろしたが、自分の判断が正しかったのかどうか未だ判断が着きかねており、イフリーキアの未来を思うと心は暗く沈んだ。

ンドゥールはしばらく無言で帆を操っていたが、風が安定したのを見極めて帆を固定しケイ傍らに腰を下ろした。

「旦那、一昨日の子供の事じゃけんどな。」

物思いに沈んでいたケイは、その言葉に顔を上げた。

「何かあったのか?」

ケイの心配そうな問い掛けに、ンドゥールは軽く手を振って打ち消しながら答えた。

「いや、ちょっと警察まで行って話を聞いてみたんじゃが、あの子は隣のエブア集落から、道に迷うて来たそうじゃ。」

ンドゥールの勘は正しかったらしい。

「ほんで、空きっ腹が辛抱できんで、かっぱらいをやらかしたんじゃそうな。」

今の食糧事情で食べ物を盗んだとなると、まあ只では済まされないだろうという事は理解できた。

「ちょっと前じゃったら、あんな手間をかけずにその場で鉈でどたまをかち割って終いになるところだったんじゃが、二月程前にベムボの子がエブアの集落に迷い混んで、おんなじ様にかっぱらいをやったんじゃと。」

「それで、どうなったんだ?」

興味を覚えたケイは、先を促した。

「その子は、捕まったけど生きて帰ってきたんじゃそうな。まあ、顔は倍ぐらいに腫れ上がっとったそうじゃけどな。」

嫌な話では無さそうだ、とケイは無言で頷いた。

「じゃから、あの子も少々手荒な躾をして、生かして帰してやろうとしとったようなんですわ。」

ケイは、ホッと胸を撫で下ろした。

「多少でもましになってきているって事か。」

ンドゥールは、安堵した様に言った。

「そうですな。ようやくあのくそったれ共も『自制』っちゅうもんを覚え始めたみたいですわ。」

ケイの表情が、少し明るくなった。

「皮肉なもんで、この食糧危機で、みんなおんなじくらいひもじいんじゃ、という気持ちから、対立が和らいできとるようじゃ。」

その言葉に安心したケイは、もう一つの懸念を思い出した。

「ベムボとエブアの和解が進むのは結構だが、そうなると皇帝はどうなるんだろうな。」

ンドゥールは、気楽そうな調子で言った。

「先の事は誰にも判りゃせんけど、まあ大事にはなりゃあせんじゃろう。皇帝も悪気があってやっとる訳じゃ無い事は、みんな知っとりますけんな。」

その言葉にケイが意外そうな表情を見せると、ンドゥールは続けて言った。

「なんじゃかんじゃ言うても、あいつらはみんな、皇帝が好きじゃけん。」

ケイの驚いた表情を見て、ンドゥールは言った。

「旦那は、あの宮殿を見んさったじゃろ。」

「ああ、立派なもんだった。」

ケイは、古いが手入れの行き届いた宮殿の様子を思い出していた。

「ありゃあ皇帝が出るまでは、ホテルとして使われとったもんで、宮殿になってもう100年以上にもなるんじゃけど、古い割には良う手入れされとったじゃろ。」

「そうだな。たしかに、良く手がかかっている。」

ケイは同意した。

「あの手入れは、皇帝が命じてやらすんじゃ無うて、国中から手弁当でやって来たやつらが勝手にやっとるんですわ。皇帝がそれをどういうつもりで見とるんかは知らんが、やって来るやつらは、みんな皇帝が好きじゃから喜んでやっとるんです。」

ケイは、その言葉をシュヴァルツァーに聞かせてやりたかった。

あの男は感激して涙を流すだろうか、と考えたがすぐに打ち消した。

そんな事で泣く男では無さそうだ。

それでも、嬉しさを必死に隠しながらあの皮肉な表情を懸命に保とうとするシュヴァルツァーの様子が想像でき、思わず口元が緩んだ。

ケイは表情を引き締めると、イフリーキア加盟のためにあらゆる手を尽くす決意を固めた。

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