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第三話 念動力者ダヴール

その女は、勝ち気な性分そのままに、仁王立ちでこちらを睨んでいた。

「で、これが貴方の『愛』なの?」

ケイは、返す言葉もなく立ち竦んでいた。

「結局、貴方はあたしを利用しただけじゃないの!」

「いや、メディア。それは違・・・」

「じゃあ何で『さよなら』なわけ?」

その声は、今まで聞いたことが無いくらい冷やかな響きであった。

「俺は帰らなきゃならないんだ。」

ケイは、途方に暮れた様子で言う。

「だったら、貴方の言うべき台詞は『俺に着いて来い』じゃあ無いの?」

「だから、今の君の立場を考えれば・・・」

「関係ないわ、そんなもの!」

女は、叫ぶ様に言うと、調子を落として続けた。

「今の私は裏切者なのよ。誰かさんに唆されたおかげでね。」

ケイはどうやって宥めた物かと途方に暮れつつ説得を試みる。

「君が俺に手を貸した事は、誰も知らない。だから、君の立場に変わりは無いよ。」

女は、笑い飛ばした。

「はっ!だからどうだって言うのよ。あたしは父を裏切ったという重荷を背負ったままで、この先もしれっとした顔で生きていけ、と言うわけね。その裏切ってしまった人達の中でね!」

「いや、だからそれは・・・」

ケイが虚しい弁明を重ねようとしたとき、女の背後の闇の中から声が掛かった。

「大巫女様、大変でございます!猊下が・・・」

女が無言で振り向くと、その肩越しに、ロープに吊るされて俯く男のシルエットが浮かぶ。

再びこちらを向いた時、女の顔は能面の様に無表情であった。

「判ったわ。別れてあげる。貴方の望み通り、あたしはあたしの『立場』を守って生きて行くわ。」

ケイは、やはり何も言えなかった。

「でも、これは覚えておいてね。黄金の羊には殉教覚悟で教団の敵を倒す専門の人間『護教戦士』が居るの。多分教団は、貴方に向けて彼らを送るでしょうね。」

そう言って女は一旦言葉を切ると、思い直した様に訥々と語り始めた。

「貴方が望む『自分の立場』を守るあたしは、ケンジントンから来た色男に誑かされた田舎娘のメディア・ソンターグじゃなく、信徒12万人を擁する教団『黄金の羊』の教皇に仕える大巫女メディアなのよ。」

能面の様に無表情なままでありながら、その声は小刻みに震えている事が、その絶望の深さを物語っている。

女は芝居がかった仕種でスカートをつまんで少し持ち上げ、片足の爪先を立て軽く身を屈めると別れを告げた。

「それではご機嫌よう。」

そのまま身を翻して、歩き去って行く。

「待ってくれ、メディア!」

今更言うべき事など何もない事判りきっているのに、呼び止めないではいられなかった。

女は全く歩調を緩める気配もなく、そのまま闇の中へ溶けていった。

「待ってくれ!」


ケイは、自分の叫び声で目覚めた。

また、この夢だ。

月に一度は、この夢を見る。

女の台詞も一語一句変わらず、あのとき投げ付けられたそのままである。

もしかして、そういう呪いが掛けられているんじゃないか、とすら思えて来る。

勿論そんなものではなく、単にケイ自身の律儀さと罪悪感の産物に過ぎない事は十分理解しているのだが。


「これが、俺の報告書だ」

そう言って、ジョージ・ウォンは紙束を差し出した。

ケイは報告書を受け取り、めくってみる。

ウォンはSI局長ランドルフの最初の弟子であり、従ってケイから見ると兄弟子に当たる。

今回は、ウォンが審査した案件について、その判定を再検証する役目がたまたま近くで監査を行っていたケイに回ってきたのだ。

申請に応じて派遣された監査官がトリックではないと判断したら、こうして他の監査官の再検証をクリアして、初めて大賢人会議での判定会議に掛けられるのだ。

案件の種類はPK(念動力)であった。

ただし、申請者であるダヴールは「精神集中の為に、光が全く入らないキャビネットに1人で閉じこもる必要がある」と主張している。

つまり、中で何をやっているかは全く見えないわけだ。

両手首を後手に縛られ両足首も揃えて縛られた状態で、そのキャビネットに楽器と一緒に篭る。

楽器は、ウクレレ・ラッパ・タンバリン・鈴・トライアングルとある。

手を使わずに鳴らして見せるという触れ込みで使われる、定番の楽器ばかりだ。

こういう場合は何故か『手を使わずに』操作する筈なのに、手で操作出来ない道具が出てくる事は無い。

キャビネットの周りを取り囲んで待っていると、 暫くして(本人が言う所の)『精神集中』が出来たら、おもむろに楽器が鳴り出す(特に素晴らしい演奏だったとは書いていない)。

楽器が鳴り止んでから一呼吸置いて中からドアを開けろと言われるので、開けてみるとダヴールは元通り縛られたまま、と言うわけだ。


報告書から目を上げた。

「で、どう思うね?」

ウォンが尋ねる。

「これだけでは何とも言えませんが、縄抜けって線はありませんか?」

ウォンの言う事だからそんな基本的な見落しは無いだろうと思ってはいるのだが、どんな事でも一応疑って見るのが監査官の仕事なのだ。

「2ページ目の詳細経過を読んでみろ。ダヴールは手首を縛られる前に、両手に小麦粉を握っている。手を開けば小麦粉が零れるから、すぐに判る。」

それぐらいは判っているさ、と言いたげな口調で答が返ってくる。

「拳を握ったままでも縄抜けは出来るでしょう?」

縄抜けは監査官の基礎教養なのだ。

「縄抜けは出来るかも知れんが、終わった後で結び目を元に戻せるか?それに楽器もだ。お前さんは握りこぶしでウクレレが鳴らせるかい?」

ケイがあえて粗を探しているのはウォンにも良く解っているので、特に気を悪くする様子はない。

「すると、協力者がいるか・・・」

そう言い掛けると、ウォンが先回りして答えた。

「次のページを見てみろ」

もう1ページめくると、各寸法入りの概略図が出ている。

床の上に87センチの台を置いて、その上にキャビネットを載せてある。 高さ2m10cm、横幅3m15cm、奥行き1m10cm・・・結構なサイズだ。

「中は確認したんですよね?」

「当然だ、あと、その横に内寸の測定結果も書いてある。高さ・横幅・ 奥行きとも、板の厚さ分の差しかない。」

「中に隠れるのは無理、と。床下から台を通って出入りするのは?」

「そこに書いてあるとおり、台は木の枠だけの代物だから、通り抜ければ外から丸見えだ。」

「鏡を使って素通しに見せるトリックとか・・・」

「ちゃんとキャビネットの下に潜って確認したよ。」

苦笑混じりの答えが返ってきた。

「では、天井から・・・床から天井まで8.3mか、えらく天井の高い建物ですね。」

「昔はルーテル派教会の礼拝堂だったらしい。キャビネットを台の上に乗せても、まだ天井まで5m以上ある。天井から発見されずに降りてくるのは不可能だ。」

礼拝堂は教会の中で最も神聖な場所であるから、その上に部屋を作る事はできない。

うっかり『祭壇の上』にたってしまう訳には行かないのだ。

そして、ゴシック文化の流を汲むルーテル派教会は、神の恩寵である日光を祭壇の向こうから最大限に採り入れるために、窓を極限まで高く拡げるので、必然的に礼拝堂は非常に天井が高くなる。

「キャビネットの上の死角に腹ばいになって隠れているとか。」

「始める前と終わってから、梯子をかけて上を検めたよ。なんなら、やってる最中に上に座ってても良いと言われた。」

ケイは少し考え込んだ。

「・・・協力者を隠すよりは、縄抜けの方がまだ簡単そうですね。」

「拳を握ったままでウクレレが弾けるならな。」

ウォンは即座に否定する。

「小麦粉を捨てて縄抜けして、ウクレレを弾いてから縄を元に戻して、 隠していた別の小麦粉を握る・・・」

「後手に縛られた状態に戻ってから、隠していた小麦粉を握るのは難しくないか?第一、出来たとしても元の小麦粉がこぼれていたらすぐに見つかるだろうさ。」

「ポケットの中に棄てた可能性は?」

「開始前と終了後に身体検査を要求したら、全く抵抗なく受け入れた。勿論、全てのポケットに、小麦粉を入れた形跡は無かった。」

ケイは、見方を変えて見る事にした。

「そもそも、何で『小麦粉』なんですかね?」

「知らんよ。ダヴールに聞いたら、「小麦粉で何が悪い?」と言われた。」

ケイは、親指を顎に当てて考え込んだ。

「小麦粉の特徴・・・小麦粉なら『食える』ってのは?」

「何?」

「元の小麦粉を食っちまったとしたら、捨てた跡がない事の説明がつきます。」

「仮にそうだとして、終わってから握り直す小麦粉は、何処から出てくるんだ?」

「全て一度に解決という訳にはいかんでしょう。取り合えず一つづつやっつけるしかありませんよ。」

「なるほど、じゃあ明日の再監はその方向で攻めてみるか。」


初めて会ったダヴールは、見るからに自身満々な様子であった。

真っ白なシャツに、定規を当てたのかと思うほど綺麗に伸びた糊の利いたカフス、ツヤツヤと深い光沢を湛えたシルクのブラックフォーマルスーツを羽織っている。

「ダヴールさん。彼が再監査を担当するアマギ監査官です。」

ウォンが掌でケイを示した。

「初めまして、SI局のケイ・アマギです。」

「初めまして、シャルル・ダヴールです。今日はなるべくお手柔らかにお願いしますよ。」

軽口を叩きながら、手を差し出して来る。

握ったその掌は、暖かいが乾いていた。

余裕たっぷりな様子は演技では無いらしい。

「それではこちらへどうぞ。」

二人はダヴールの先導で会場に入った。

会場は元礼拝堂だったので、左右二列に別れて多くの座席が並んでいる。

それらの席は概ね埋っており、立ち見が出るほどではないにせよまず大した人気ぶりを示していた。

「それでは始めましょうか。」

祭壇上のダヴールは観客(あるいは信徒というべきか)を一瞥してそう言うと、同じく壇上のケイとウォンに向けて手のひらを開いて見せた。

ケイは用意した革袋から、こぼさない様に慎重に砂をその掌に広げた。

ダヴンズは一瞬だけ意外そうな表情を見せたが、特に狼狽する様子は見えない。

「小麦粉が見当たらなかったので砂で代用したいのですが、問題ありませんか?」

表情を窺いながら、カマを掛けてみる。

「いえ、特に問題はありませんよ。」

憎らしいほど余裕のある表情だ。

掌の上で袋を逆さまにしたまま何度も指で弾き、中の砂を出来る限り掌に落とした。

観客は、咳一つ立てる事無く見守っている。


まずケイがキャビネットに入り中をざっとあらためた後、拳を握り締めたままのダヴールに続いてウォンが入る。

ダヴールを椅子に座らせて、ケイが後ろに回り両手首を縛る。

その間にウォンが足元に膝をついて、足首を縛り上げる。

「確認が済んだら、外に出ていただけますか?」

彼の声に押されて、キャビネットの外に出た。

「では、ドアを閉めてください。」

求めに応じて、ケイはドアを閉め掛け金をかける。

ケイはドアと右側面が同時に見える角に立ち、ウォンは対角線上の反対位置に立つ。

これでキャビネットの全ての壁を同時に監視できるわけだ 。


観客は固唾を呑みその一方で二人が冷静に見守っている中で、突然ウクレレが鳴り始めた。

客席から大きなどよめきに続いて拍手が沸き起こる。

「お静かに願います!」

ウォンが叫ぶ様に制止する。

中が見えない以上、中の様子を知る手段は音しかないのだから、大きな音を立てられては困るのだ。

その一言で、観客は再び水を打った様に静まった。

実に良く訓練されているな、とケイは感心した。

ひとしきり、ウクレレをでたらめに掻き鳴らす音が響いた後、次はラッパが鳴り始めた。

これも特にメロディを奏でるのではなく、ただ音を立てているだけである。

ケイは耳を済ましたが、ウクレレの音は聞こえなかった。

どうやって鳴らしているにせよ、ウクレレとラッパの二つを同時に演奏する事は出来ない様だ。


続いて、その他の楽器類が(やはり一つづつ)一頻り響いた後、不意に音が止んだ。

突然の静寂の中で、中を伺う手立てが無いまま時間が過ぎて行く。

ケイ達二人は辛抱強く待っているが、静寂に観客達は耐えかねてあちこちで声を潜めて囁き始めたとき、中から声が響いた。

「開けて良いですよ。」

相変わらず余裕綽々の声である。

ドアを開けた瞬間、ダヴールを除く全員が絶句した。

ウクレレがダヴールの顔のすぐ前、つまり空中にあったのだ。

ケイ達の驚愕をよそに、ウクレレはゆっくりとスローモーションのように落下し、大きな音を立ててキャビネットの床で跳ね返った。

二人は落下音で我に返ると、直ぐにキャビネットの中に飛び込んだ。

キャビネット内部の隅々までランプで照らして確認するが、勿論誰も居ないし、砂粒一つ落ちていなかった。

観客は度肝を抜かれたまま、一言も発しようとはしない。

二人はダヴールを拘束するロープを解いた。

ダヴールは立ち上がると、ゆったりとした動作でステージに降り立つ。

客席から耳を聾せんばかりの歓声と拍手が沸き起こり、彼は拳を握ったままの両手を挙げて、それに応えた。

続いてキャビネットを出たケイは、彼に声を掛ける。

「ではダヴールさん、手を開いていただけますか?」

「これで宜しいですかな?」

そういって開かれた掌には、砂が入っていた。

念のために、掌に着いている粒も含めて全ての砂を集めて(このためにブラシまで用意していた)精密な天秤ばかりでその重量を慎重に量った。

観客達は、一連の検証作業を固唾を呑んで見守っている。

中には、息をするのも忘れている者もいるかもしれない。

計量の結果は、事前に量っておいた重量と殆ど差はなかった。

袋の中にいくらかは砂粒が残っているだろうと思えば僅かに重量が増えている事になるが、しっかりと握り締めていた事を考えれば、汗で重量が増えるのは不自然ではない。

結論としては、握らせた砂に変化はなかったと考えるべきであろう。

「どうですか?」

ダヴールが余裕たっぷりに尋ねた。

「特にこれといった変化は無さそうです。」

ケイは、そう認めざるを得なかった。

ホールは、耳を聾せんばかりの歓声と拍手に包まれた。


二人はホテルに帰ると、ウォンの部屋で話し合っていた。

「あれを見せられたら,さすがに認める他はあるまい。」

ウォンが呟く様に言った。

何か違和感を感じるケイは答えを留保して自室に戻ると、無意識の内にガンベルトを外してテーブルに置きそのまま椅子に座り込んだ。

銃の扱いに不得手なのもあり、ガンベルトを締めているとリラックス出来ないので自室では銃を外すのが癖になっているためだ。

何かが引っかかっている・・・

ケイは自身の違和感が何なのか判断がつかず、考え込んでいた。

顎に拳を当てて脚を組んだ姿勢でテーブルに向かい、身動ぎもせずに自分の心の中を懸命に探り続ける。

やがて筋肉の緊張が耐え難くなってきたので、無意識の内にテーブルの下で脚を組み替えようとした。

膝がテーブルの天板の裏に当り、軽いテーブルは押し上げられて傾いた。

ガンベルトが傾斜によって滑り出したのを見たケイは、慌てて右手を伸ばす。

「痛っ」

テーブルの手前が持ち上がっていたため目測を誤り、親指を天板の縁に突いてしまったのだ。

銃はベルトごと向こうに落ちたが、幸い暴発はしないで済んだ。

銃の扱いが不得手であることを自覚しているケイは、安全のために撃鉄を硬めに調整している(どうせ早打ちなんて芸当は出来ないのでそれで問題はない)のが幸いした様だ。

ずきずきと痛む親指をまじまじと見つめる。

どうやら、軽く突き指をしたようである。

民間療法ではこういうときは指を引っ張る物だが、突き指は靭帯の損傷である事を知っているケイはそんな事はしない。

それでは損傷を悪化させるだけである。

親指を注視している内に、漸く違和感の正体に気付いた。

ダヴールは、掌を握る際に親指を出していたのである。


ケイは、しばらく両手を握ったままで色々な動作をしてみた。

やがて納得がいったので、再びウォンの部屋を訪れた。

「何だ?」

ウォンはもう寝る所だったようで、上機嫌とは言いがたかった。

「認めても良いかなとは思うんですが、あと一点だけ引っ掛かる所があるんですよ。」

ウォンは興味を示したようで、身を乗り出して来た。

「ほう?一体どんな点だ?」

「それが、私自身もはっきりこうだとは言えない疑問なんで、説明し辛いんですが、もう一回だけ見せて貰えれば、解決するでしょう。」

ウォンはその奥歯に物が挟まった様な言い方にやや鼻白んだが、この弟弟子は完全に納得しない限り決して同意しない頑固者である事を知っているので、止むを得まいと溜め息を吐いた。

「判った。で、今度は何を準備するんだ?」

「特に準備する物はありません。握らせるのも小麦粉で大丈夫です。」

その答にウォンは意外そうな顔をした。


流石に二日目ともなると観客は減っていたが、それでも席の半分以上は埋まっている。

「それでは始めましょう。砂をどうぞ。」

ダヴールはこちらに向けて、手のひらを広げてみせる。

余裕綽々である 。

「いや、今回はいつも通り小麦粉で行きましょう」

また意外そうな表情に変わる。

「ただし、一つお願いがあるのですが。」

「何ですか?」

声の調子に警戒の色が出る。

「今のその状態で、親指を掌の内側に折り込んで下さい。」

その言葉に、表情は殆ど変わらなかったが、眉が微かに痙攣したのをケイは見逃さなかった。

「出来ませんか?」

ケイは、故意に挑発的な言い方をした。

「いや勿論そんな事はありませんよ。」

余裕のある表情を繕いながら、彼は指示に従う。

観客達は、やり取りの意味が判らず黙って見ているだけだ。

内側に折り込んだその親指の上から小麦粉を掛けた。

「それでは始めましょうか。」

ケイに促されて、ダヴールはキャビネットに入っていった。

続いて二人はキャビネットに入り、昨日と同様に中をざっとあらためると、黙って外に出た。

観客は違和感を覚えた様で、あちこちで控え目な囁きが起こった。

壇上ではしばし沈黙があり、ケイの方から声を掛けた。

「ドアを閉めましょうか?」

「え?あ、ああ、お願いします。」

表情を崩さないポーカーフェイスは大した物だが、動揺は隠しきれなかった。

ドアが閉まると、二人は昨日のポジションに陣取った。

それから二人は辛抱強く待ったが、観客の望む様な事態はいっこうに起こらず、物音一つしない。

やがて焦れ始めた観客の間から、不満を示す呟きが漏れ始めた。

「静粛に願います!」

ケイが制止すると一旦は静まるが、暫くすると、状況が変わらない事に焦れてまたざわめき始める。

一時間近くが経過し、ケイが4度目の制止を呼び掛ける頃には、もうその効果は無くなっていた。

観客の我慢が、限度に近づいている様だ。

そろそろ潮時と見て、再びケイが声を掛けた。

「そろそろ、終わりにしませんか?」

キャビネットからは、憔悴した様子の短い返事が帰ってきた。

「ええ。」

二人がドアを開けるとダヴールは、まるで頭から水を被ったかと思うほどに汗にまみれたまま座っていた。

せっかくの色男が台無しである。

縄をほどかれて舞台に降りたダヴールは、観客に向かって言い訳がましく言った。

「今日はどうも調子が悪いようです。」

少なくとも、その台詞に感銘を受けた観客は居なかった様だ。

短時間の間に疲れきった様子のダヴールにケイが声を掛けようとすると、その前に客席を覆う不穏な空気を一瞥してウォンが言った。

「取り合えず、今日はこれで引き上げよう。」


ホテルに引き上げると、ウォンが尋ねた。

「一体どういうことだ?」

「拳を握っていても、親指が自由なら結構色々な事が出来るんですよ。 ウクレレも鳴らせるし、緩めた結び目をずらして締める事も不可能じゃない。」

ケイの説明に、ウォンは納得しない。

「しかし、ウクレレが中に浮いていた事や、その後ゆっくりと落下した事はどうやって説明する?」

ケイは、答える代わりに反問した。

「本当に宙に浮いている所を見ましたか?」

「どういうことだ?」

意味を計りかねたウォンは、訊ねるしか無かった。

「目の錯覚ってやつですよ。扉が開いた瞬間に空中にあった事で驚いて意識を集中したために、ゆっくり落ちたように見えただけです。大体、 本当にゆっくりと落下したのなら、落ちたときにあんな大きな音を立てるはずがありません。あれ程大きな音を立てるほどの運動エネルギーを持っていたのなら、そんなに速度が遅いはずはない。」

「だが、落下したんだから宙に浮いていた事は認めるんだな?」

ウォンは、反論の緒を見つけて追究した。

「いいえ、あの時落下を始めた、というだけです」

ケイの微妙な言い回しに翻弄され、追究がかわされたウォンは、冷静さを失った。

「宙に浮いていたんじゃないとしたら、どこから落下したと言うんだ! 」

ケイは、事も無げに答える。

「勿論頭の上からですよ。ダヴールは頭の上にウクレレを載せて、バランスを取りながら親指でロープを締め上げたんです。まぁ、自慢するに足る特技である事は間違いありませんね。」


その夜、ホテルの食堂で、差し向かいになって食事をしている間中、ウォンは、何か考え込んでいる様子で、ケイが話し掛けても、返事は終始上の空であった。

食事が終わった時、ウォンは紙片にペンを走らせると、無言でこちらに示した。

『重要な話がある。ここでは誰かに聞かれるかもしれない。3時間後に街の西はずれの墓地まで来てくれ。誰にも見られないように。』

ケイは無言で頷く。


「どこにいるんですか?」

ランプをかざして辺りを見回しつつ、小さな声で呼びかけるが、返事は無かった。

月が雲に隠れており闇が深いため、ランプの光が届くごく近くより先は全く見えない。

その時後ろで気配がした。

ケイが振り向こうとした瞬間に、腕が首に巻き付けられた。

「お前が来たときに、いやな事になったと思ったんだ。もっと間抜けなやつが来ていれば、こんな真似をしなくて済んだんだがな。」

耳許で、ウォンの声がする。

今頃になって雲が切れ、月の光が辺りを照らし出した。

尊敬する兄弟子に裏切られた衝撃は大きく、買収されたんですか!と詰りたかったのだが、喉を扼されてその叫びは声にならなかった。

しかし勘の鋭いウォンは、ケイの言いたい事を読み取っていた。

「念のために言っておくが、俺はダヴールに買収されたわけじゃない。この件の背後には、お前さんには理解できない様な大きな意思が働いているのさ。」

ケイは、ウォンが喋る事で意識が反れた瞬間に右足を上げ、その踵をウォンの爪先に思い切り踏み下ろした。

その踵は、衝突相手の予想外の固さに悲鳴を上げた。

衝撃で右足全体に痺れが走る。

「悪いな。爪先には鉄板が入れてあるんだ。こうしておくと色々と便利なんだぜ。」

そう言いながら、頚に廻された腕に更に力が入る。

喉の正面を圧迫すれば気管が閉塞して窒息するが、窒息で意識を喪うまでには時間がかかるので、頸椎を一気に折る程に膂力に自信が無ければ賢明な選択とは言えない。

ウォンは、肘を曲げて喉の両脇を挟むように締め上げている。

こうする事で気管の両脇にある頸動脈を圧迫する事になり、脳への血流を閉塞して短時間に意識を奪う事ができるのだ。

「お前は見処のあるやつだったから、こういう細かい心得も追々に教えてやりたかったんだが、全く残念だな。」

もう過去形で話していやがる、とケイは心の中でぼやきながら、肘打ちを脇に入れてみたが、その程度の攻撃が予測出来ない相手ではなかった。

服の下にも何か固い物が入れてあるようで、腕が痺れただけであった。

今度は両手を上げて頚に廻された腕を掴もうとしたが、ついに限界が訪れ、急激に意識が混濁し始め力が抜けていった。


突然、頚に回された腕の力が抜けた。

訳がわからないまま、無我夢中で頸に廻された腕を振りほどき、前に飛び出す。

間合いを取ってから振り向きつつ身構えると、ウォンは驚愕の表情を貼り付けたまま前のめりに倒れ伏した。

その後頚部には、ナイフが深々と突き立てられている。

その後ろに立っていた小柄な人影は、ゆっくりと膝をつくとナイフを抜き取った。

「あんたか。」

月明かりで窺うが、その顔に相変わらず表情は無い。

「お前達は、背中が無防備すぎる。」

確かに、適切な指摘である。

両手を下ろして、話しかけた。

「ともかく、助かった。ありがとう。」

男は、全く感情を含まない声で言った。

「礼を言われる筋合いはない。猊下は『私に』お前を殺せとお命じになった。他の奴に殺されたのでは、猊下のご命令が果たせない。」

その言葉の含みは、直ぐに理解できた。

「なるほど、じゃあ今度はあんたとやらなきゃならんのか。」

とりあえず身構えてみるが、ウォンと違って不意を突かれなくても全く勝てそうな気がしない。

ところが、男はなんの気負いもなく意外な事を言った。

「まだだ。時が満ちておらん。」

「時が?」

思わず鸚鵡返しになる。

「そうだ、時が満ちるまではおまえを殺してはならない、と2世猊下のご下命があったのだ。」

その言葉には、思い当たる節が無いでもない。

「2世猊下?もしかしてメディアか?」

「控えろ!貴様ごときがその御名を口にして良いお方ではない!」

この男が付いて来るようになって1年以上になるが、感情を表すところは初めて見た。

それだけを吐き捨てる様に言うと、男は踵を返した。

然り気無く歩き出したその背中は、確かに隙が無かった。

今もし背後から襲い掛かっても、次の瞬間にはナイフがケイの心臓に突き立っているだろう。

ケイは男を黙って見送りながら、その心中には(故意に)忘却しようとして、果たせない名前とともに、複雑な感情のうねりが込み上げてきた。

この男が本気を出せば、まず歯が立つまい。

つまり、自分の命はメディアの気持ち1つということだ。

まあ、それも仕方があるまい。

それだけの事をメディアに対してしてしまったのだ。


宿に戻ると、ウォンの部屋に入りバックパックを持ち出した。

自分の部屋に戻り、逆さにして振ってみる。

バサバサと落ちて来た中身は、どれもごく当たり前の旅道具である。

監査官の仕事はその大半が旅なので、効率を良く考えた必要最小限の道具類が収納されている。

見馴れない物は、特に見当たらなかった。

それらを一つ一つ手に取り吟味したが、何も変わった所はない。

革の手帳を見つけたのでめくってみたが、ざっと見た限りでは通常の監査のメモ以上の記載は見当たらない。

どうしたものかとしばらく考え込んだが、ふと思い付いて空になったバックパックを取り上げると、口から順に摘んでみた。

底まで来た所で、何か固い感触があった。

口を大きく拡げて覗き込んだが、革の底板が見えるだけである。

右手を突っ込んで反対側から左手を底に当て、押し付けるように探った。

どうも、中央に固い板状の物があるようだ。

底板の縁を探って見ると、めくれそうである。

強めに引っ張ると、二重になっている底板の真中に、隠しポケットがあった。

ポケットに手を入れると、厚みのある長方形の板状の物が出てきた。

掌大のプラスティック製の板状の機械である。

片面はつややかな黒い平板になっている。

禁書館で見た事のある液晶ディスプレイに似ていた 。

裏面には、地球儀をバックにした船の浮き彫りが施されている。

その船の甲板は帆柱もブリッジも無く、長方形の強いて言えば箱としか表現のしようがない構造物が全体を覆っていた。

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