第十三話 女錬金術師ブロヴスキー
「まず始めに申し上げておきますが、本当に重要なのはこの札の内22枚なのです。」
そう言って女は、手に持ったカードの束を伏せた状態で無造作にテーブル一面に拡げて見せた。
更に何をしたいのか、手早くかき混ぜ始めた。
女は真っ赤なレンズという余り見お目にかかれない様な眼鏡を掛けているが、そのレンズを通して目をつむっているのが辛うじて見えた。
どうやら、カードの並びに作為が無い事を示そうとしている様だ。
今上を向いているカードの背面には、目が痛いほどの鮮烈な赤を基調とした複雑な模様が描かれている。
鮮やかな赤の染料を安価に合成する技術はもう無いし、天然染料でこんなに鮮やかな赤い色を出せる物は極めて希少なので恐ろしく高くつく。
だから、連邦ではわざわざ崇高賢者の儀礼用ガウンに使用している程である。
その希少性が地位の象徴となるのだ。
つまり、今ここに拡げられているカードは、相当高価な代物であろうと思われるのである。
そして女は拡げて見せたカードの中から、無造作に1枚を裏返して見せた。
そのカードには、派手な服を着て先端に荷物を括った杖を担いだ男が描かれており、その絵の上部にはアラビア数字の0が、下部には『THE FOOL』という文字が書かれていた。
続いて、特に見定める風もなくカードを次々と裏返して行く。
それらには、裸の男女や骸骨といった絵が描かれている。
また2枚目以降のカードの上部には、アラビア数字ではなくローマ数字が書かれていた。
サーリムは、なぜ二枚目以降はローマ数字なのかと心中で頸を捻ったが、すぐにその理由に気付いた。
二枚目以降をわざわざローマ数字にしているのではなく、一枚目をローマ数字にする事が出来ないのだ。
ローマ数字に0の概念は無いのである。
ならば全てアラビア数字で表現すれば良さそうなものだが、統一性を捨ててでもローマ数字が使いたいのであろう。
その理由も簡単に想像がつく。
ローマ数字はアラビア数字よりも意味ありげに見える、つまり『見映えが良い』のだ。
サーリムはそんな事を考えながら、女がカードを次々と裏返して行くのを見ていたが、やがてカードがその数字の順に開かれている事に気付いた。
明らかに女は伏せたままのカードの種類が判っている。
XXIのカードを裏返した所で女は言った。
「これらを大アルカナと呼びます。そして・・・」
続いて彼女は、残りのカードを裏返し始めた。
それらには全て、全体で一つの絵ではなく杯や棍棒といったシンボル的な絵が並べて描かれている。
「こちらは小アルカナと呼ばれるカードで数字を示しており、4種類の各スーツ14枚づつで全部で56枚あります。それは単独では意味を持たず、大アルカナの示す内容を補足する存在です。」
そして、全てのカードを表にしおえると顔を上げた。
「大アルカナは、最も偉大なるお方のお示しになられた古の叡智、エメラルド・タブローの秘密を図示したものであり、然るべき知恵と謙虚さを備えた者がこれを注意深く検討する事で、その秘密は明らかになります。」
勿論その『然るべき知恵と謙虚さを備えた者』とは彼女自身の事であろう。
どうも『然るべき知恵』はともかく『謙虚さ』を備えているとは言い難い物言いではある。
「最も偉大なるお方とは?」
ケイが尋ねると、これまた謙虚さとは無縁そうな見下した調子の答が返ってきた。
「ああ、これは失礼。タローの秘技について学んだ事の無い方はご存知無いでしょうね。そのお方の名は、ヘルメス・トリスメギストス。三重に偉大なるヘルメスと呼ばれるお方です。」
タローとは、先程女が説明した通り様々な象徴を表す22枚の大アルカナと4種類のマークでそれぞれ1~14の数字を表す56枚の小アルカナの計78枚で占いやゲームに使用されるカードの事である。
一部の国では誤ってタロットと呼ばれているが、発音としてはタローが正しい。
「そのお方は神話上の架空の存在ではなく、全ての神秘を解き明かす叡智が凝縮した霊として時の生ずる以前から存在して居られました。そして、その叡智で蒙昧な人間を救うために、幾度も受肉して現実世界にそのお姿をお現しになりました。その結果、ギリシアではヘルメスと呼ばれ、エジプトではトートと呼ばれて、それぞれの神話に取り込まれたのです。」
そう言って一旦言葉を切ると、まるで二人の無知を憐れむ様な笑みを浮かべて尋ねた。
「貴殿方は、あらゆる神話体系に共通して叡智を象徴する存在が居る事に疑問を抱かれた事は無いのでしょうね?」
口調こそ穏やかではあるが、傲慢その物な言い様ではある。
「それはつまり、知恵の神とはそのヘルメス・トリスメギストスが全ての神話の創成期にその文化圏に居て、人々を指導した名残だと仰るのでしょうか?例えばケツァルコアトルもそうですか?」
女は、ケイがその主張に同意したと見て、満足げに頷いた。
「お判りになった様ですね。」
女の早呑み込みな思い込みを一顧だにせず、ケイは更に尋ねる。
「それでは、アプロディテーとフレイヤは誰だったのですか?あるいは、アレスやインドラそれにウィツロポチトリは?」
女はケイの質問の意味が理解しかねた様子で反問した。
「どういうお話しでしょうか?」
「いえ、私は母性の象徴や武力の象徴が存在しない神話体系について寡聞にして存じませんので、貴女の論法からすればそれぞれについてもその原型となった共通する存在が居なければならない筈ですが、その点についてはどうお考えでしょうか?」
女は、侮蔑も顕に答えた。
「そんな物は存じませんわ。おおかた人の考える事にはそう違いはない、というだけの事ではなくて?」
自分がさっき言った事と矛盾する事を平然と言い棄てる強心臓ぶりには、恐れ入る他はない。
これではいくら矛盾を突いても、その都度違う返事が返ってくるだけで何も得る所は無いであろう。
これ以上やくたいもないタローの迷信に関する通俗的な議論をしても仕方がない。
「それではブロヴスキーさん。そろそろ本題に入りましょう。申請の内容を確認させて頂いて宜しいですか?」
「勿論結構ですわ。」
ケイは足許のバックパックを取り上げると、申請書類を取り出して再度目を通した。
「タローカードの神秘に関する学術的研究とありますが、それによって何が可能になるんですか?」
彼女は呆れ返ったという表情を作って、言った。
「何がって、決まってるじゃありませんか。全てですよ。」
「申し訳ありませんが、それでは何も言っていないも同然です。もう少し具体的に表現していただけませんか。」
ブロヴスキーは、憐れむ様な表情で言った。
「それは小神秘術から始まり大神秘術に到るまでの秘技を明らかにする事であり、世界の全ての秘密を解き明かす事なのです。」
ケイは辛抱強く繰り返した。
「もう少し具体的に、何ができるのかをご説明頂けませんか?」
ブロヴスキーはやれやれと言わんばかりに頸を振った。
「宜しい。貴方がたにも理解できる様な即物的な説明を致しましょう。小神秘術とは卑金属から銀を生成する秘術であり、大神秘術とは黄金を生成する秘術です。これは欲望の充足を目的とする野卑な技術ではなく、あらゆる物を進化させ完成に導く触媒であるユニバーサル・アクセラレーター、貴殿方がご存知の表現にすれば賢者の石ですわね、これを見出だす崇高な技術であり、それは同時にあらゆる病を癒す万能薬パナケイアでもあります。」
「つまり、錬金術だという事ですね。」
その言葉に彼女は、蟇か何かを見る様な侮蔑を含んだ視線を投げ掛けた。
「物質に囚われている貴殿方の目から見れば、そういう表現になるのでしょうね。しかし、黄金の錬成はその最もよ・・・理解しやすい表現の一端に過ぎません。」
今の口ぶりからすると、言い掛けて呑み込んだ言葉は『幼稚な』であろう。
「その本質は、全宇宙の神秘を解き明かす事で進化の途上にあるあらゆる物質を完成に導き、病める物全てを癒して世界を完成させる偉大なる技術なのです。」
「それが、タローとどう関係するのでしょうか?」
「タローとは古代エジプトの、いや全世界の叡智を糾合した知恵の都アレクサンドリアにおいて、最も偉大なるお方がその神秘を解き明かしお纏めになられたエメラルド・タブローをより理解しやすい形に編纂なさった物です。その知恵は、ジプシー達によって出エジプトの際に持ち出されました。ジプシーとは『エジプト人』という意味である事はご存知でしょうか?」
余りにも辻褄の合わない、端的に言えばぶっ飛んだ話なので、ケイは軽く驚いた。
「それを、貴殿方の様な真理を理解する能力の無い者達が、理解不能と見なした深遠なるエッセンスの象徴である大アルカナを除外してそれ自体では意味を持たない小アルカナのみを取り上げ、ただのゲーム用のカードに矮小化してしまったのが、プレイングカード(トランプ)なのです。」
それにしても、出エジプトとは恐れ入った。
出エジプトは、正確な時期には諸説あるとはいえ第19王朝つまり概ね紀元前13世紀の話であり、アレクサンドリアが建設されたのはプトレマイオス朝の直前つまり紀元前4世紀の事である。
基本的な時系列すら理解できていない様だ。
それに、『ジプシー』という呼び名の語源がエジプト人であるというのは有力な説の一つではあるが、同時にいわゆるジプシーと呼ばれる人々とエジプトとは歴史的な繋がりが無い事は、ほぼ定説である。
ケイは、隣で聴いている弟子の様子をそっと伺った。
少年は、興味深げに聞き入っている。
こりゃ駄目だ、もう少し教育してやらんと、と思わず渋面を作って頸を振った。
ケイの渋面をどう解釈したのか、ブロヴスキーは言った。
「今の貴方の様な不遜な態度について、かつて碩学エリアス・アシュモールは貴殿方にでも判る様に絵の形で警告されました。そちらの絵をご覧なさい。」
彼女が指し示した壁には、一枚の絵が掛かっている。
元は印刷だった様で、白黒の線画だ。
一本の巨木の根本に一匹のもぐらが顔を出している。
「偉大なる生命の樹の足許に居ながら、もぐらの様に知恵の光に盲いているためにその偉大さも重要さも理解できず、ただ闇雲にその根を食い荒らす有害な存在となっている事に気付きその姿勢を改めなければ、貴殿方は救われる事は無いのですよ。」
あくまでも、高い視点から諭す様なポーズで非難している。
「なるほど。なかなかユニークな解釈ですね。」
余りにも見下す様な態度が目に余るので、そろそろ反撃しても罰は当たるまい。
「私の解釈が間違っている、と仰るんですか?」
その声には、微かに苛立ちが含まれていた。
「あの樹が何だかご存知ですか?」
ケイの質問に、今度ははっきりと不快な感情を示して答えた。
「だから、生命の樹だと言ったではありませんか。」
生命の樹とは、カバラと呼ばれるユダヤの神秘学における世界の叡智を象徴する図形の事である。
「いえ、そういう象徴的な意味では無く、植物としての名前です。」
その質問は予想していなかった様で、ぶっきらぼうに答えた。
「存じません。」
「あれはトネリコ(アッシュ)です。」
ブロヴスキーは、そんな事に興味は無い事を示す明瞭な態度で答えた。
「ふーん、よくご存知なのね。で、それがどうかしましたか?」
「お判りになりませんか?」
ケイは、一呼吸置いてヒントを大盤振る舞いした。
「あの絵では、トネリコ(アッシュ)の下にもぐら(モール)が居るんですよ。」
彼女は苛立ちも露に
「だから!それが一体何だと・・・」
と言い掛けた所でようやくその意味に気付き、絶句した。
「お気付きになった様ですね。あの絵はアシュモールが著書『英国の科学劇場』を出版する際に扉絵として付けた物で、署名代わりに描いた駄洒落です。」
「そ、それが正しい解釈だという証拠が何処にあるの!大体あの樹が本当にトネリコだかどうだか判りゃしないじゃない!」
激しく狼狽しながら、それでも破れかぶれで反撃を試みる。
「その点に関しては、アシュモール自身が世間の勝手な解釈についてぼやいたという友人の手記が残っています。」
どうやら彼女は、通俗的な解説書の類いを読むだけで、原典に当たるとか自説に対して否定的な書籍を調べるという検証作業は行っていないらしく、反論不能となった様で黙り込んだ。
気まずい沈黙がしばらく続いたが、やがて彼女は話を反らす様に気を取り直した表情で言った。
「ところで貴殿方は、先程私が大アルカナを『愚者』から順番に裏返していったのにお気付きになりましたか?」
こちらがそれについて何も言わないので、しびれを切らして自分から言い出した。
「ええ、そうでしたね。」
ケイは同意する。
「何故それが可能だったのか、お分かりになりますか?」
彼女は挑むような調子で尋ねる。
「背面を見れば、区別が付くからでしょう。」
ケイは、わざと曖昧な言い方をした。
「その通り。その背面からは、それぞれ特有の神秘的なオーラが立ち上っているからです。」
「そうですか。」
ケイが素っ気なく言うと、ブロヴスキーはここぞとばかりに声を張上げた。
「大アルカナは、最も偉大なるお方の神秘の力を現代に伝える物であり、だからこそ例え複製であっても、その力を示す荘厳なオーラを纏っているのです!」
「私には、そんな物は見えませんでしたが?」
ケイの言い様はあくまでも素っ気ない
「それはそうでしょう。神秘の力とは、これを正しく解釈し運用出来る人間にしか見えないし、判りません。」
彼女の形而上学的な長口説に付き合う気は無いので、形而下的な、言い方を変えれば事実に即した話に切り換える事にする。
「では、もう一度同じ事が可能ですか?」
「お安いご用ですわ。」
彼女はそう言って、再びタローをテーブルの上に伏せて拡げ、混ぜ始めた。
「あ、その眼鏡を外しても出来ますか?」
タローを混ぜる手が止まる。
「私なら、多分その眼鏡無しでも出来ますよ。」
ケイの挑発的な物言いに、ブロヴスキーは眉を吊り上げた。
「良いでしょう。これで宜しくって?」
そう言いながら、眼鏡を外して脇に置く。
「はい、結構です。お願いします。」
彼女は不審な物を見る様に目を細めて、カードの背を睨む。
やがて、一枚のカードを摘まみ上げると、二人に見せた。
「これが『愚者』です。どう?」
ケイは頷いた。
ブロヴスキーが次のカードに手を出そうとすると、それより早く同じ様に目を細めたケイが、一枚のカードをつまみ上げた。
「これは多分『塔』でしょう。」
彼女が青ざめた表情で黙り混む。
ケイはそのカードを裏返して、確認する。
「先程申し上げた通り、私には貴女の仰るオーラは見えませんが・・・」
そう言って、そのカードを再び伏せる。
「ここに略号が書いてあるのは見えます。」
そう言ってケイが指した箇所を注視したが、サーリムにはそれらしい物は何も見えない。
「判らないか?」
ケイは、サーリムの不審そうな表情を見て、軽く笑って文字をなぞる様に指を動かした。
「これが『T』、これが『W』、で、これが『R』だ。」
ようやく判った。
指差されなければ気付かない程に薄い水色で大きく滲んでおり、一見すると染みの様に見える幅広に書かれた文字の上から、どぎつい赤を基調とした格子状の模様が印刷されているので、その模様の背景に溶け込んでしまっている上に、文字が上書きされた模様のせいで途切れ途切れになっている事と合間って、本当に注意して見ないと読み取れない。
「その眼鏡を掛ければ上の赤い模様が消えるし、青い文字は灰色に浮かび上がるので、簡単に読み取れるでしょうね。」
ブロヴスキーは、狼狽しながら言った。
「な、何の事ですか?それはただの染みでしょう。」
ケイは、別のカードを指して言った。
「では、このカードの染みが『LVS』と読めるのも偶然ですか?」
そう言って裏返すと、裸の男女が並んでいる図が出てきた。
「LVSですから、ラヴァーズ(恋人達)の略ですね。」
言い終わるかどうかのところで、彼女は被せぎみに叫んだ。
「何と仰ろうと、私はそんな物は存じません!私にはオーラが見えるのです!」
ケイは、冷やかに言った。
「このトリックを貴女が実際に使用したかどうかは関係ありません。トリックの可能性が排除出来ない限り、貴女の申し立ては証明されないというだけの事です。」
ブロヴスキーは、唇を噛んでケイを睨み付けながら、しばらく反論の緒を探している様だった。
重苦しい沈黙の後、急にその表情を和らげて言った。
「取り合えず、この問題についての議論は次の機会に譲りましょう。」
どうやら、形勢不利と見て転身を図ろうという事らしい。
「今度は、誰の目にも明らかな方法で証明してご覧に入れましょう。」
そう言って、彼女は立ち上がる。
「こちらへどうぞ。」
そう言いながら、次の部屋へのドアを開けた。
ケイとサーリムは、促されるままに彼女に従って隣室に移った。
「大神秘術を実際にご覧に入れますわ。」
その部屋では、正面の壁は中央に何やら祭壇めいた物が設えられて銀色の小箱が安置されており、その左右には多数の引き出しのある薬種箪笥が並んでいる。
そして左の壁際には小さなテーブルが置かれ、反対側の壁には高さ1メートル弱の炉が築かれており、痛い程の熱気を放っていた。
その手前の壁には、何やら複雑な模様が一面に繍されたガウンと三角帽子が掛かっている。
テーブルの上には五徳や坩堝、アルコールランプといった実験器具らしき物が雑然と並べられている。
「ここで、鉛を黄金に変成する大神秘術を執り行います。それでは、始めましょうか。」
そう言って彼女が壁のガウンに手を伸ばそうとした時、ケイはテーブルに向かって歩み寄ると尋ねた。
「このテーブルの上にある道具が使用器具の全てですか?」
出鼻を挫かれたブロヴスキーは、やや鼻白んだ様子で答えた。
「ええ、そうですわ。あとは、そちらの炉です。」
その返事の不機嫌そうな調子を無視してケイはバックパックを下ろし、中から巻き尺と手帳を取り出した。
「失礼して、記録用の測定をさせて頂きます。」
「何なんですか!」
その抗議に、ケイは有無を言わせぬ態度で説明する。
「報告書に正確な記載をしないといけませんので、各道具の寸法を測る必要があります。ご協力願います。」
そう言って、サーリムに手帳を差し出した。
「測定結果を記入しろ。」
サーリムは、ケイが実際に寸法まで測るのは珍しいので、何か考えがあるのだろうと判断して指示に従った。
「アルコールランプ。高さ173ミリ。」
ケイは巻き尺の目盛を読み上げ、サーリムが書き留めるのを見てから、ブロヴスキーに確認する。
「間違いありませんね?」
彼女は、ケイの高圧的な態度に不快そうな表情となったが、それでも言われる通り目盛を確認して頷いた。
そうして、ケイは手早くテーブル上の道具類を計測してはその都度目盛の数字を彼女に確認して行く。
ブロヴスキーは煩わしそうな態度を露にしたが、ケイは彼女がきちんと数字を見るまで執拗に確認を求めるので、嫌々ながら応じていた。
五徳、坩堝、何に使うのか判らないが強いて言えばマドラーの様な鉄製とおぼしき(表面が煤で覆われているので良く判らないが所々に錆が出ているので概ね想像がつく)棒、陶製の匙、長い柄のやっとこ、表面にスポンジの様な細かい穴が沢山空いた皿・・・。
皿は多孔質で見るからに脆そうであったが、サーリムは、ケイがその縁に指を掛けた時にさりげなく力を入れたのを見逃さなかった。
「おっと、失礼。縁が欠けてしまいました。」
そう言いながら、壊さない様にそっと持ち上げると、ブロヴスキーの鼻先に突き出す。
「この皿も使うのですか?」
彼女は、不機嫌そうに無言で頷いた。
「この損傷が、実験を行う上で障害にならなければ良いのですが・・・」
ブロヴスキーは、縁のほんの一部が欠けただけである事を確認してから、不機嫌そうに言った。
「問題無いでしょう。ですが、みんな大切な道具です。大事に扱って頂かないと困りますわ。」
「そうですね、注意します。それと、弁済については後程手続きを説明させて頂きます。」
彼女は、恩着せがましく言った。
「この皿は使いきりの物ですから、弁償して頂かなくても結構ですわ。」
その言葉に、ケイは改めて手の中の皿を確認する。
「ふむ、この皿は骨灰製ですね。これが使いきりで、なおかつこれと炉を使うという事は、灰吹方ですか?」
ブロヴスキーは再度頷く。
灰吹方とは、鉱石を精錬して貴金属を取り出す手法の一つである。
貴金属を含む鉱石を細かく砕いて、熔解した鉛の入った坩堝に投入し撹拌すると、融点に達していない貴金属が鉛に溶け出て合金を形成する。
貴金属の融点に達する程に加熱すると、鉱石から他の成分も熔け出して混入してしまうため、色々具合が悪いのだ。
その熔けたままの合金を多孔質の皿に流し込むと、金属は概ね熔解した状態では大きな表面張力を示すので、皿の上で粒状に纏まる。
その合金を大量の空気に触れさせながら強く加熱すると、貴金属は酸化しにくい(酸化して美しい輝きが喪われる事が無いので『貴』金属なのである)ので、鉛だけが酸化する。
そして、酸化鉛は熔解した状態では表面張力が大変小さいので、多孔質の皿に吸収されてしまい、表面張力の高い貴金属だけが皿の上に残るのだ。
「精錬が必要だという事はつまり、全ての鉛が金に換わるわけではないという事ですね。」
その質問は予想していなかった様で、彼女は生返事で肯定した。
それを見て、ケイは無言でサーリムの方に手を出した。
その意を覚ったサーリムは、手帳とペンを差し出す。
ケイは、それをブロヴスキーに差し出して言った。
「お手数ですが、監査手続きの一環としてこの記録に間違いない事を確認した印に、こちらへ署名願えませんか?」
彼女は手帳を渋々受け取ると、そのページの下部にサインした。
「お待たせしました。これで監査の準備は整いましたので、始めて下さい。」
そう言いながらケイは、巻き尺をポケットにしまった。
ブロヴスキーは気を取り直して壁に掛かっていた三角帽子とガウンを取ると、身に纏ってから胸を張り厳かな調子で言った。
「ここからは、近付いて観察するのは良いですが、手を触れてはいけません。また、精神集中の妨げになるので、声も出さない様に。」
二人は無言で頷いた。
ブロヴスキーは坩堝と匙を持つと壁の引き出しの一つを開け、中から鈍い色の粉末を掬い上げて坩堝に流し込んだ。
そのまま坩堝を二人の前に差し出し、匙でかき混ぜて見せる。
「ご覧の通り、ただの鉛の粉です。」
続いて坩堝を五徳に載せるとアルコールランプの蓋を取り、やっとこで炉の空気穴から燃え盛る炭を取り出して点火した。
火種を炉に戻すとそのままランプを五徳の下に押し込み、坩堝を下から加熱する。
やがて粉末は熔け、鈍い銀色の液体となった。
彼女はおもむろに祭壇に歩み寄り、銀色の小箱(光り具合からすると本当に銀製かもしれない)を両手で捧げ持つ様に取り上げ、胸の前に捧げたままテーブルに戻った。
そっと大事そうにテーブルに安置して、蓋を開ける。
中身は鮮やかな緋色の粉末であった。
次に彼女は、テーブルの匙を取り上げ粉末を軽く一掬いした。
それを坩堝の銀色に波打つ液体に振り掛けながら、厳かに呪文を唱え始めた。
「最も偉大なるお方、三重に褒め称えられし叡智の源、ヘルメス・トリスメギストスよ。我が実験室に到りて貴方の弟子にして最高の後継者たるこの妾にその崇高なる力を貸せよかし。」
そう言いながら振り掛け終わると、次は鉄棒を取り上げて坩堝を撹拌し始めた。
どうやら、本当にマドラーだった様だ。
その仕種の最中も、同じ調子で呪文を唱え続ける。
しばらくそうして撹拌を続けていたが、やがてその手を止めてマドラーをテーブル上に置くと、やっとこを取り上げて坩堝を挟み、そっと持ち上げると骨灰皿に注意深く流し入れた。
最後の一滴まで流し終えると坩堝を五徳に戻し、今度はやっとこで皿を持ち上げた。
再び呪文を唱えながらゆっくりと振り向き、溢さない様に注意しながら壁の炉に向かった。
横の壁に掛かっている石綿製らしき布を左手に取ると、そのまま布越しに炉の扉の取っ手を掴んで開ける。
中は、目映いばかりのオレンジ色の光で満たされていた。
彼女は、右手のやっとこで支えている皿を、炉に差し入れていった。
炉の中に皿を安置すると、左手で扉を閉める。
次に炉の前で膝をつき、横に設置されているふいごから突き出ているハンドルを握った。
再び呪文を唱えながら、懸命にふいごを操作する。
ハンドルを押し込む度に、空気穴から炎の舌が伸びる。
ブロヴスキーの顔の汗がオレンジ色の炎に照らされて、流れ落ちていく。
炎の舌は、その先端から微細な火の粉を飛ばしてくる。
どうやら、彼女のガウンは断熱と防火を兼ねている様である。
かなり長い時間作業を続けた後、扉を開いてやっとこを差し込んだ。
慎重に皿を取り出して二人の前に差し出すと、その中央にはオレンジ色に輝く小さな粒が載っていた。
「これで終わりました。」
そう言いながら彼女は石綿の布をテーブルの上に拡げ、その上に皿を置く。
その粒のオレンジ色の光は段々と薄れてゆき、やがて金色になった。
彼女は、その粒の上に掌を翳して熱の冷め具合を確認していたが、ゆっくりと手を下ろし、親指と人指し指でそっとつまみ上げた。
「どうぞ。」
そう言いながら差し出された手の下に、ケイが掌を開いた。
大きさからすれば意外なほどの手応えを与えて、粒が掌に落ちた。
それは、マッチの頭程の大きさしか無かったが、それでも確かに黄金の輝きを放っていた。
「差し上げます。お持ち帰りになって分析してみてください。本当はもう何回か精錬を繰り返さなければいけないのでまだ鉛が残っていますが、概ね金になっています。」
ケイは、それを掌で転がして再度手応えを量ってから尋ねた。
「先程の鉛の量からすると、この粒は随分小さい様ですが、何故この量なんですか?」
少し機嫌を損ねた様で、彼女は不服そうに言った。
「量にご不満でも?」
「いえ、どの要因がこの量を決めるのかを尋ねているだけです。賢者の石の量ですか?」
「え、ええ。まあそんな所ですわ。」
「では、今度はその坩堝一杯に作ってみて貰えませんか。」
その言葉に、彼女は眉を逆立てた。
「貴方は、あれがどれ程貴重な物なのかご存知ないから、そんな不躾な事が言えるんです!」
ケイはその剣幕を一雇だにせず、平然と続けた。
「費用の問題でしたら、連邦政府が全て負担します。不安でしたらここの自治政府に代理で先払いして貰えるように掛け合っても良いですが?」
「そういう問題ではありません!」
ブロヴスキーは、被せぎみに怒鳴りつけた。
激しい怒りを見せる事で、提案を自発的に取り下げさせようという意図らしい。
本人は冷静な計算に基づく演技をした積りだった様だが、声を荒げる事による感情の昂りは抑えきれず、つい失言をしてしまった事に気付いていなかった。
「そうですか。」
穏やかなケイの答えで、退き下がったと判断したブロヴスキーは、難局を回避したと思い込み肩の力を抜いた。
すかさずケイは斬り込んだ。
「では、どういう『問題』なのでしょうか?」
彼女は絶句した。
ケイは平然とした表情で返事を待つ。
嫌な沈黙が続き、そ知らぬ顔のケイ以外は気まずそうに視線を足許に落とした。
やがて、堪えられなくなったブロヴスキーは、場を取り繕う様に言った。
「と、とにかく、今回はこれ以上の実験は出来ません!大量の金を生成するためには、事前に入念な準備をしなければなりません!」
彼女が事実上の敗北宣言を叫ぶように吐き出した時、ケイは穏やかに言った。
「そうですか。それは残念ですね。」
追撃が無かった事で、彼女は無意識に額の汗を拭いながら、安堵の溜め息を漏らした。
その時、ケイはポケットから巻き尺を取り出してテーブルに向かう。
ブロヴスキーは、それを見て軽く飛び上がった。
「な、何をなさるんですか!」
その問い掛けを無視してマドラーを取り上げると、巻き尺を当てる。
「213ミリ。」
そう言ってサーリムに向き直る。
「さっきの長さは?」
サーリムは、慌てて手帳を捲る。
「えーと、237ミリです。」
ブロヴスキーは蒼白になって口を開閉させているが、言葉にはならなかった。
「24ミリ減っていますね。」
そしてマドラーをテーブルに置き、その先端に続ける様に先程の金を並べた。
「ざっと見て、減少分の半分強といった所でしょうか。」
そう言ってケイは、ブロヴスキーに向き直った。
「この事実について、ご説明頂けますね?」
「大方、最初の時の測り間違いですわ。」
視線を反らしたまま吐き捨てる様に言った。
「実験開始前の測定値については、ご確認頂いている筈ですが?」
ブロヴスキーは視線を合わせないまま、不貞腐れた風に言う。
「とにかく、そんな差が出た理由については存じません!」
「そうですか。取り合えずこの差の合理的な説明としては、元々このマドラーの先端に金と鉛の合金が継いであって、それが坩堝を撹拌した際に熔け落ちたという事が考えられますね。」
彼女は、憤然と肩をそびやかして言った。
「そんな事するわけが無いじゃない!そんな事をしたっていう証拠はあるの?」
ケイは、肩を竦めて頸を横に振る。
「いえ、そういう説明が可能だと言うだけの事です。」
彼女は、嵩に掛かって決め付ける様に言った。
「ほらご覧なさい。何の証拠もなしに悪意で言い立てているだけじゃないの!今すぐ取消して謝罪しなさい。さもないと、この件を然るべき筋に訴え出るわよ!」
「仕方がありません。」
ケイがそう言いかけたのを降参宣言と見なして、ブロヴスキーは謝罪を促した。
「さあ、謝りなさい。今なら不問にしてあげましょう。」
「どうも、誤解がある様ですね。私が申し上げたのは、貴女が『然るべき筋』に訴えるのを止める事は出来ない、という意味です。」
期待を裏切る回答に、彼女は言葉に詰まった。
「不正の疑いが排除できない以上、監査は失格とする他はありません。監査とはそういう物です。」
ケイの丁寧だが妥協の余地の無い態度に、彼女は言いかけた言葉を呑み込んだ。
「疑いが僅かでもある限り、監査官は必ずそれを指摘します。そして監査の枠組みの中では、その指摘が失当である事を立証する責任は被監査者にあります。そうでなければ監査の意味がありません。ですから不正の疑いについての指摘に対して訴えるのは自由ですが、貴女がその指摘の不当性を立証しない限り、恐らくその訴え自体が連邦の監査体制に対する挑戦と見なされるでしょう。」
ケイの説明に、彼女は青ざめた。
「その・・・では、どうすれば・・・その・・・疑いが晴れるのでしょうか?」
彼女は一転して、下手に出る。
「先程その方法について提案しましたが、出来ないという回答でありまた代案の提示もありませんでしたので、今回の監査は失格となります。今回の指摘に対する改善案を講じた上で、再度監査申請をお願いします。」
「そんな・・・」
ブロヴスキーはすがる様に手を伸ばして来たが、ケイは身を交わすと事務的な口調で言った。
「それでは、本日の監査はこれまでとします。ご協力ありがとうございました。」
そして呆然と立ち竦むブロヴスキーに目もくれず、身を翻すとそのまま部屋を出る。
サーリムは、慌てて後を追った。
「ねえ、ケイ。」
ペンを置くのを見て、サーリムが声を掛けた。
「ん、何だ?」
ケイは宿のテーブルに着いて報告書の下書きに余念が無かったが、一段落した所だったので顔を上げた。
「今回、マドラーの寸法を予め測ったのは、あの時点でトリックが判っていたって事?」
ケイは苦笑した。
「本当にそうなら、こんな楽な仕事は無いんだがな。」
その答えに、サーリムは少し頸を捻ってから再度尋ねた。
「じゃあ、寸法を記録するっていうのは、道具を調べる口実だった?」
ケイは頷いた。
「マドラーのトリックも候補の一つだったが、他にもトリックは考えられた。坩堝が二重底になっているとか、炉の中で皿をすり替えるとかだな。」
その言葉に、納得がいった表情になったサーリムは言った。
「やっぱりあれは、皿に印を付けるためにわざとやったんだ。」
ケイは、興味深げな表情を見せた。
「故意に縁を欠いたのに気付いたか。」
「うん。」
ケイは、探る様な表情で尋ねた。
「ただし、マドラーのトリックは初めから有力な候補だった。何故か判るか?」
「うーん。」
サーリムは顎に手を当てて少し考えた。
「マドラー全体が煤で汚れてたから、かなぁ?」
「ほう、何故だ?」
ケイの表情から、自分の推理が間違っていないという手応えを得たので、自信を持って言った。
「手で握る所まで煤で覆われているのは不自然だから、でしょ。先端に金と鉛の合金を継いでおいた場合、色目の違いで不審を抱かれるんで、煤で隠して判らなくしてあったんだけど、今度は先端だけが煤で汚れているのも不自然だと思って、全体を黒くしたんじゃないかな。でもその場合、手が触れる場所なら一旦煤がついても使えば剥がれる筈だから、煤が着きっぱなしって事は、煤で汚れてから触っていない事になる。これは、故意に煤をつけた場合でなければあり得ない・・・でどう?」
推理としては文句がないが、この自慢顔は問題だ。
天狗の鼻は早めに折っておかないと、いずれ脚を掬われる元になる。
「観察眼と推理は誉めてやっても良い。」
ケイがそう言って一旦言葉を切ると、サーリムは叱責の気配を察して身構えた。
「だが、監査官としての基礎知識が決定的に足らん。」
その言葉に少年は、もうしゅんとして俯いた。
「ブロヴスキーの御託のどこがおかしいのか、その場で判らなきゃダメだ。」
その言葉に、サーリムは宙を見上げて考え始めた。
ブロヴスキーの台詞を頭の中で反芻している様だ。
切換の早さは、潜在的な頭の回転の早さと相関があるので良い傾向である。
「帰ったら取り合えず、タローとプレイングカードの関係について、きちんと調べた上で報告しろ。」
「というわけなんだよ。」
「ふーん。」
サーリムの説明に、マーガレットは軽く相槌を打った。
「で、どこから手を着けたもんかとマイクに相談したら、占いならマギーの方が詳しい、って言われたんだ。」
真っ先に自分に相談しに来なかったのは少々面白くないが、それでも助けを乞いに来ているのだから良しとしてやろうと思った。
「でも、細かい年代はともかく、タローとプレイングカードの関係については、概ねそのおばさん・・・ブロヴスキーだっけ、の言った通りよ。」
その言葉に、サーリムは頸を捻った。
「本当にそうなら、なんでケイは調べろって言ったんだろう?」
「ケイの本当の考えは判らないけど、ちょっとからかってみたかったんじゃない?」
サーリムは頸を振る。
「ケイは、少なくとも事実に関して嘘は吐かない。」
それは抗議する様な言い方ではなく、ごく当たり前の事実として述べただけだった。
「随分ケイの事を信用してるのね。」
「いや、信じてるわけじゃなくて、事実なんだよ。」
それが『信じている』って事なのよ、と思うと可笑しかったが、指摘するのは止めておいた。
そう言い切れる程の精神的紐帯が二人の間にある、という事なのであろうと感じたからだが、何故かその発見はちくりと心の奥を刺激した。
ともあれ、サーリムとしても『マギーからの聞き取りに寄れば』と報告するわけにもいかないので、取り合えず調べてみる事にした。
マーガレットは禁書館で育っただけあって、通俗的な解説書だけでなく原典(とはいえさすがに原語ではなく英訳だが)にまで当たっていた。
たちまち机一杯に本の山が出来る。
勿論全てを読んでいる暇は無いので、タローの来歴に関する箇所だけを確認していった。
二人の作業は朝食後に始められたが、昼食を挟んで日が傾くまで続いた。
結局の所、それはマーガレットの説明を裏付ける作業となった。
「ほらご覧なさい。やっぱり言った通りだったでしょ。」
食後のコーヒーを前に置いて、中央広場の樹々の青葉に夕日が照り映えているのを見ながら、マーガレットは言った。
一通りの確認作業が終ったところで、本の山を片付ける前に夕食を取ろうと、一旦禁書館を出たのだ。
店はマーガレットのリクエストで選んだ。
丸一日付き合わせたのだから、彼女は好きな物を食べる権利がある。
勿論、サーリムの支払である。
いかにもくたびれたという風に言いながらもマーガレットは、徒労に終った事に対する失望感よりもサーリムに講義しながらの調査の過程で感じた何か説明し難い楽しさが勝っている事を内心認めざるを得なかった。
「そうだね。でも、何だかスッキリしないんだ。」
サーリムは、浮かない顔で言う。
「何が?」
「何か足らない気がする。」
「何かって何よ?」
「うーん。」
サーリムは考え込んでいたが、やがて言った。
「何て言うか・・・『古くから知られている通り』とか、『過去の記録によれば』とか、みんな伝聞や評価ばかりで事実が無いんだよね。」
マーガレットは、頸を捻った。
「これ以外にどんな記述があれば満足なわけ?」
サーリムは少し考えていたが、説明し始めた。
「まず、歴史を分析する際には『事実』と『評価』を分けて考えなきゃならないんだよね。」
「どういう事?」
マーガレットは尋ねる。
「そうだなあ・・・例えば、かつて全米を支配したニューヨーク帝国って国があったとして、その首都は勿論ニューヨークだけど、この帝国が太平洋側からの侵略と戦った記録を読んでると仮定しよう。あ、この記録はニューヨーク帝国側が書いた物だとする。」
いきなり例え話が始まったが、サーリムがわざわざ言う以上それは説明する上で必要な話なのだろうと思い、先を促す。
「それで?」
「まず、記録にはロサンゼルスで上陸軍を散々に撃ち破ったと書いてある。」
彼女は、取り合えず頷いた。
「その次の記録は、ソルトレイクで侵略軍に大打撃を与えた。それから、ダラスで壊滅的な損害を与え、ついにトレントンで神のご加護により決定的な勝利を収めた所で記録は終っている。勿論、その全てで味方の損害は軽微だったと太文字で書いてある。さて、この戦争はどっちが勝ったんだろう?」
例え話で持ってくるからには見た目とは違う結論が出るのだろうが、取り合えず理由が判らない以上先回りするのは止めておいた。
「その記録に嘘がないなら、ニューヨーク帝国の勝ちでしょ?」
サーリムは、ここが重点だとばかりに、指を立てて見せた。
「ここで、さっきの『事実』と『評価』を分けて考えてみるんだよ。『事実』としては、ロサンゼルス→ソルトレイク→ダラス→トレントンと戦場が移動したという事だよね。」
ここまでは、特に驚く様な話ではない。
「まあ、そうでしょうね。」
「それに対して、大打撃を与えたとか決定的な勝利を収めたとかが『評価』になる。」
そろそろ結論に持っていって欲しいので急かしてみた。
「で、それが何だって言うの?」
「事実だけを見れば、戦場はニューヨークに向かってどんどん後退しているって事が判る。」
「あ、」
その点は気付かなかった。
「つまり、『評価』がどうであれ『事実』を見る限りニューヨーク帝国は退却し続けているわけだから、恐らくこの戦争は帝国側の敗けだ。」
「でも、事実と評価が矛盾するとしても、だから評価が間違ってるとは限らないんじゃない?評価が正しくて、事実が間違ってるのかも知れないでしょ。」
サーリムは穏やかに言った。
「評価は事実に基づいて行われる物なんだから、事実が間違っていたらその時点でその評価に検討する価値は無いよ。」
この指摘にはぐうの音も出なかった。
この年下の少年にはずっと姉の様な気持ちで接して来ていたつもりだが、その見方を改めざるを得ないのではないかと感じた。
その認識は、彼女のプライドを少々傷付ける物だったので、じゃあこの先はこいつに考えさせてやろう、と少し意地悪な気分で尋ねた。
「それで、これ以外にどんな記述があれば満足するの?まさか『予ヘルメス・トリスメギストスが紀元前300年にタローを作った時に・・・』なんて記述を期待してるわけじゃ無いでしょうね?」
サーリムは、その質問の刺には気付かぬ振りで考え込んでいたが、しばらくして顔を上げた。
「取り合えず、今までの調査から確実に言える事実に絞ってもう一度調べ直してみるよ。今日はありがとう。」
少年の訳知り顔を見ていると、もう少し意地悪してみたくなった。
「あらぁ?さっきは『伝聞や評価ばかりで事実が無い』とか何とか仰ってませんでしたかぁ?」
わざとからかう様に言う。
「うん。調べた『文章の中』には、事実は無かったよね。」
彼女は意味がわからず、きょとんとした表情で尋ねた。
「じゃあ、なに、『文章の外』に事実があるって事?」
「そう。正確に言えば本の中の情報だから『文章の中』なのかも知れないけど、さっき調べた箇所の外にある情報を探そう。」
マーガレットは頸を捻った。
「何を言ってるのか、さっぱり判らないんですけどぉ。」
サーリムが一人合点しているのが面白くないので、拗ねた様な口調で言ってみる。
「ええとね、タローとプレイングカードのそれぞれに関する記述が、いつまで遡れるかを調べてみようと思うんだ。タローの初出がプレイングカードの初出よりも古ければ、あれだけ形が似てるんだから、タローからプレイングカードが作られた可能性が高い。でも、もし逆ならその可能性は大きく減少する。」
なるほど、筋は通っている。
「さあ、それじゃもう一度調べ直してみましょう。」
そう言って、彼女は立ち上がる。
「後は自分でやるよ。」
サーリムがそう言うと、マーガレットはやれやれという風を作って言った。
「何言ってるの。私が居ないと何処に何が書いてあるかも判らない癖に。」
そう言って彼女は、店を出る。
サーリムは慌てて支払を済ませると、その後を追った。
二人は、再度本の山を崩し始めた。
再確認作業は深夜まで続いたが、その結果、面白い事が判った。
プレイングカードがタロー以前から見られる(初出が古いという事だが、どの本もこれをもってプレイングカードがタローより古いという結論に持っていこうとはしていない)とする本は三冊だけで、それ以外は全てタローの方が古いというかプレイングカードはタローを簡略化した物だと書いている。
一見すれば後者が多数決で勝っている様に思えるが、前者は全て(微妙に年代のずれはあるものの)タローの最初の記録は15世紀であるのに対して、プレイングカードは14世紀にはヨーロッパに広まっていた事を、具体的な事例に基づいて提示している。
これに対し後者では、全てタローがプレイングカードより古い事は自明の事として扱われ、プレイングカード以前からタローが存在する事を示す事例は、全く挙げられていない。
つまり、後者に関しては事実の提示が無いのである。
「タローとプレイングカードの類似を見れば、この二つの間に関係がある事はほぼ事実と考えて良いんだろうけど、こうやって見ると、タローを簡略化してプレイングカードが出来たというよりは、プレイングカードを複雑化した物がタローだと考える方が、辻褄が合いそうだね。」
どうやら、この少年は自分より広い視野で物事を見ていると、認めざるを得ない様だ。
一抹の淋しさを感じつつ、マーガレットは同意した。




