第十話 研究者ブロンロ
汽車から降りるとケイが言った。
「ここが、ケンジントンの中央部だ。」
そして、目の前のフェンスと入出ゲートを指さす。
「あのゲートの向こうが中央地区だ。連邦の政府機構のほとんどはあそこに置かれている。見た通り、周りは全てフェンスで囲まれ、出入りは、この北ゲートを含めた5箇所のゲートからしかできない。」
フェンスの外側にも、3~5階建ての建物がずらりと並んでいる。
これが世界政府の首都だとはとても思えない、百年前ならちょっとした地方都市程度の規模だが、それでも、サーリムにとっては見た事もない大都市であった。
ゲートには、白い制服を着た三人の男がいた。
男達は、ゲート入場待ちの列を、愛想良く捌いている。
二人は列の後ろに付いた。
二人の番が回って来た時、ケイの顔を見た職員の表情から、愛想が消える。
ケイは、バックパックから身分証を取り出して見せた。
「SI局のケイ・アマギ。こっちは監査官見習いのサーリム・マンスール。」
いつもの愛想の良さが嘘のようなぶっきらぼうな口調に、サーリムは違和感を覚えた。
制服の男はケイの身分証を一瞥すると、事務的な口調でサーリムに言う。
「身分証をどうぞ。」
「いや、こいつはまだ手続きが済んでいないんで、身分証は持って無い。」
ケイが代わりに答えると、ガーディアンが言った。
「それでは、武器をこちらへ。」
サーリムがケイを窺うと、ケイは無言で頷いた。
ベルトからナイフを鞘ごと外して渡すと、男は無表情に二枚の書類を書き、その内一枚をサーリムに渡す。
「センター地区内での武器の携帯は認められませんので、退場までこちらで保管します。これが預り証です。」
言葉使いこそ丁寧だが、全く感情のこもらない声であった。
二人は、急き立てられる様にゲートを抜けた。
「今のは、保安局の職員だ。あの制服を着て警備に携わる職員は、ガーディアンと呼ばれている。ケンジントンの警備は全て保安局が担当しているんだ。」
ケイは、ここで声を低くした。
「何であんなにぞんざいな扱い方をされたかと言うとな、SI局と保安局の間には、長年の対立関係があるからなんだよ。」
ケイは歩きながら話し続ける。
「そもそもここには大賢人会議があって、これが連邦憲章上は最高決議機関と規程されており、また、その頂点に立つ議長は最高賢者と称され連邦のトップつまり連邦政府代表になる。しかし、連邦政府の運営に関する事項を一々全て大賢人会議で決定する訳にもいかないんで、大賢人会議で選ばれた崇高賢者達が、最高賢者と共に崇高賢人会議を構成して、政府を運営している。これが内閣に当たる訳だ。」
サーリムは突然始まった政治システムの講義に面食らいつつも、必死についていこうとした。
「で、その内閣の中で各大臣に相当する崇高賢者は、それぞれ担当局を持っている。例えばSI局は最高賢者の担当になっている。監査官は大賢人会議の調査権を代行する建前になっているんで、大賢人会議の代表である最高賢者でなければ、管理できないからな。そして、財務局を担当する崇高賢者がNo.2で、保安局担当賢者がNo.3と見なされている。いつの時代でも、力と言えばまずカネでその次が武力だからな。」
サーリムはよくわからないが、それでも頷いた。
「だからこの二つは、最高賢者が兼務する事はできないという不文律がある。そうでないと最高賢者の権力が大きくなりすぎるという訳だ。そして、本来なら保安局がケンジントンでの武力を独占するはずだったんだよ。しかしもう五十年くらい前の話だが、監査で失格させた相手に怨みを買った監査官がこのケンジントンで殺されたんだ。しかもその実行犯は買収された保安局の職員だった。当然SI局は、大賢人会議で大々的に保安局の非を鳴らした。その結果監査官は、ケンジントン中央地区まで含めた完全武装権を獲得したわけだ。この決定に際して保安局は勿論反対できなかった。」
サーリムは話がどこへ繋がるか判らないまま、取り合えずここまでは付いて来れている事を示すために、相槌を打った。
「そうでしょうね。」
「これだけの話なら対立という程の状況にはならなかったかもしれないが、その次の最高賢者がこの武装権に目を付けたんだよ。」
ようやくテーマにたどり着いた様だ。
「と言うと?」
「SI局内にケンジントン支局を立ち上げて、これに崇高賢者の身辺警護を担当させたんだ。個々の監査官が武装するのは、保安局としても面白くはないだろうがまだ諦めも着く。しかし、十人から居る崇高賢者の身辺警護を行う部局となれば立派な武装集団だし、第一、保安局の職務に対する侵害だからな。しかし大失態の余波の残る保安局は、この決定に逆らう事ができなかった。そしてケンジントン支局は、最高賢者の手持ちの武力となったわけだ。」
「でも、どう見ても、SI局が身辺警護って変じゃないですか?」
ケイは、子供らしい素直な見方だと微笑ましく感じた。
「明らかに変則的だが、過去にもこんな例は沢山ある。例えばかつてアメリカ合衆国で大統領をはじめとする要人の警護を担当していたのはシークレット・サービスという組織だが、この組織は政府全体の大規模な再編が行われるまで、百年以上も財務省に所属していた。元々偽造紙幣の摘発を目的に財務省内に武装組織を立ち上げたのが始まりで、その後の禁酒法時代に密造酒を扱うマフィアとの抗争のために武装が大幅に強化された。そして、その武力に目を付けた大統領が身辺警護を担当させ、禁酒法の廃止によって、そっちが本業になった。」
「そのケンジントン支部って言うのは、保安局が恐がるくらい、強いんですか?」
ケイは、サーリムの子供ならではの着眼点の面白さに興味を覚えた。
「勿論、保安局対ケンジントン支部で全面戦争なんて事態になれば、ケンジントン支部に勝ち目は無い。人数が全然違うからな。だが、それでもそれなりにまとまった数の武装集団がケンジントンの、それも中央地区に存在するのは治安を預かる保安局から見れば面白い話じゃないし、最高賢者の指示で警察の真似事にまで手を出している様だから、ますます保安局の不満はつのる。それに文句を言おうにも、最高賢者の権威を盾にされたらどうにも手が出せないんで、それこそ癪の種というやつだ。」
「でも、それじゃSI局にも得にならないんじゃないですか?」
子供だと思っていたサーリムの意外なほどの読みの深さに、ケイは内心で舌を巻いた。
「そういう事だな。SI局から見れば、本来の職務に関係無い仕事を引き受けさせられた上にその事で保安局から無用の怨みを買い、しかもケンジントン支局は、そんな思惑で結成された上に、形の上ではSI局長の下に居るが実際上は最高賢者の直接の指示で動くから、局長の言う事も聞かない。そういう特殊事情もあって、組織自体が政治的風読みに長けているので信用ならない。だから、SI局自体にとっては何のメリットも無い。ただし、SI局自体がごくこじんまりした物なんで、人数的にはケンジントン支局員が半数を占めているから、寧ろ多数決的に言えばケンジントン支局の意志がSI局の意志だと言った方が良いのかも知れん。とはいえ、歴代の局長にとっては、頭痛の種なのは間違いない。今のケンジントン支局長のバースは、珍しく支局の利益を越えた広い視野を持っているし人間的にも信用できるから局長も安心していられるが、支局長代理のセジャンズは全く逆だ。支局の利益のためなら最高賢者でも裏切りかねない。」
「そんなに不味いんなら、そのセジャンズって人を辞めさせたらいいんじゃないですか?」
ケイは苦笑いした。
「局長は口には出さないが、できるものなら今すぐにでも辞めさせたいだろうな。だが実際のところは、馘どころかセジャンズが次の支局長に就任するのを阻止する事もできない。支局の人事権は最高賢者が直接握っている。支局は実質的には最高賢者の私兵なんだから当たり前の事だ。それに最高賢者のセジャンズに対する評価は、どうも俺達とは違う様だ。むしろ視野が広くて誠実な人柄のバースの方が、諫言が多いんで最高賢者の受けが良くない。このままだとバースが引退に追い込まれてセジャンズが支局長になるのは時間の問題だろうな。」
そう言いながら、二人は連邦政府庁舎に入った。
SI局の監査官室に荷物を置くと、その足で局長室に向かった。
「やあ、ケイ。元気だった?」
入り口のデスクに座っている若い女性が、声をかける。
「やあ、ジェーン。おかげさまで何とかやってるよ。こいつは、俺の弟子のサーリムだ。サーリム、この美女は局長秘書のジェーンだ。」
「相変わらずお上手ね。サーリム君、初めまして。ジェーン・デイフィールドです。」
そう言いながら右手を差し出した。
「初めまして。サーリム・ラティーフ・マンスールです。」
サーリムはこんな大人の雰囲気を纏った女性と会話するのは初めてだったので、どぎまぎしながら握手した。
「大将は居るかい?」
「ええ、居るわ。」
ケイは軽くノックすると、返事も待たずに入った。
デスクの向こうには、がっしりとした体格で堅い信念を窺わせる厳しい顔つきの中年の男が座っている。
男は顔を上げると、二人を見て相好を崩した。
「よう、ケイ。元気そうだな。その子がサーリム君か。」
「はい。サーリム、この人が局長だ。」
男は立ち上がると、デスクを回って出て来た。
「私は局長のジェームズ・ランドルフだ。よろしく頼む。」
「は、初めまして。サーリム・ラティーフ・マンスールです。」
ランドルフの差し出した手を握り返すサーリムの手は、強張って震えていた。
「ははは、そんなに固くなることはない。君の師匠のケイは私の弟子だったんだ。だから君は私の孫弟子という事になる。もっと肩の力を抜きなさい。」
と、ランドルフは優しく笑った。
「ケイ、何か緊急の用事はあるのか?」
「いえ、報告書とかの書類仕事だけです。」
「そうか、じゃあ報告書は明日で良いから、今日はサーリム君にケンジントンの案内をしてあげなさい。」
二人は、橋を目の前にしていた。
「この橋はセンターブリッジと言って、ハドソン川を跨いで、政府庁舎街と中央広場を繋いでいる。 それから、」
と言って、ケイは川の中洲に立つ城壁に囲まれた建物を指す。
「そこの建物が禁書館だ。」
「禁書館って何ですか?」
「所有が禁じられた知識が含まれる本やその他の物のリストである禁書目録を編纂する施設だ。あそこは、禁書目録の印刷所とその編纂のための知識を集積する場所になっている。本以外にも大いなる再編成以前の『呪われた』情報を含む文物がぎっしりと詰まっているんだ。そして現在最もその知識を利用しているのが、我々監査官なんだよ。この仕事は禁書館無しでは成り立たない。俺が見習いになったとき師匠から最初に言われた事は、暇があれば禁書館に行って、読める限りの本を読み見られる限りの物を見ろ、禁書館がお前の本当の師匠だ、だった。その言葉は正しかったと今でも確信している。だから、お前にも同じ事を言う。」
そう言いながら、二人は橋を渡り始めた。
橋は、中央で禁書館のある中洲に向かって直角に分岐しており、その分岐点にコンクリート製のアーチが掛けられていた。
「これがブリッジゲートだ。禁書館に行くには、ここ以外に道はない。」
そう言って、禁書館の方に折れた。
「今のところ、禁書館を担当する正式な部署は無く、従って禁書館を管轄する崇高賢者も居ない。運営費用は連邦政府予算の雑費で処理されているが、正規の規定に従って管理されているわけじゃ無いから、その予算は常に不足している。だから、予算に不足が出る度にSI局がその穴埋めをしている。SI局と禁書館は、正に持ちつ持たれつなんだよ。」
二人は、中世の城塞を思わせる厳めしい構えの門にたどり着いた。
門は開いており、明るい中庭の向こうに建っている禁書館が見える。
サーリムは、目前の門やその両サイドに延びる城壁の厳めしさと、中庭の先に建つ禁書館の明るい解放感の落差に戸惑いを感じて、何度も見比べた。
ケイは笑いながら言った。
「初めて見ると、誰でもこの落差に驚くんだ。この建物は元々ケンジントン中央図書館と科学博物館だったから、誰でも自由に入れる開放的な建物として設計されている。それを大いなる再構築の後で禁書館として使用するに当たって、大賢人会議が禁じられた知識を隔離するために、城壁で囲んだんだよ。と言っても、実際には見た通り、門は夜間以外は開かれているから、本当の意味で隔離されている訳じゃない。むしろこの厳めしい外観が、中にある知識が呪われた物である事を誇示するためのデモンストレーションになっているのさ。」
明るい中庭を抜けて玄関を入ると、開放的なロビーで三人の少年に囲まれた少女がコーヒーを飲みながら談笑していた。
「やあマギー。元気か?」
ケイが声をかけると少女は顔を上げ、輝くような笑顔を見せた。
「ケイ、いつ帰って来たの?」
そう言いながら走り寄って来た。
「今朝帰った所だ。マギー、この子は俺の弟子になったサーリム・マンスールだ。サーリム、このご令嬢はマギー・クラーク。ここの館長のお嬢さんだ。」
「初めまして。マーガレット・クラークです。マギーって呼んでね。」
「初めましてサーリム・ラティーフ・マンスールです。」
同年代の女の子と会うのは久し振りだったサーリムは、握手しながら少しほっとしていた。
少女を持って行かれた形になった少年達は、マーガレットが戻って来そうに無いので、渋々こちらにやって来た。
「久し振りだな。この子は君達と同じ監査官見習いになった、サーリム・マンスールだ。よろしく頼む。」
すると、一番年かさの少年が進み出た。
「僕はトーマス・フィン。こっちはムガベ・ニポウとタオリン・チャンだ。よろしく。」
サーリムは三人と順番に握手していったが、チャンはニヤリとして、右手に力を込めた。
サーリムは思わず声を上げそうになったが、マーガレットの前で情けない姿を晒したくはないので必死に耐えた。
「マギー、館長は居るかい?」
マーガレットは、何か言いたげな様子でケイを見上げる。
「そうそう、忘れてたよ。」
そう言いながらケイは、バックパックをおろし、中をかき回すと折り畳んだ布を取り出した。
マーガレットが拡げて見ると、中東風のアラベスク模様が染め上げられたスカーフだった。
「まあ、素敵!」
「お気に召したようで何よりだね。」
ケイがいたずらっぽく笑うと、マーガレットが言った。
「父さんは、収蔵庫の整理をするって言ってたわ。」
「ありがとう。」
すると、マーガレットは少年達の方に振いた。
「トム、ムガベ、タオリン、また後でね。」
そう言って、少女は先導する様に歩き始めた。
その言葉に、三人の少年達はつまらなそうな表情になったが、黙って見送った。
三人は廊下を奥の方に向かって歩いて行く。
マーガレットははしゃいで、しきりにケイに話しかける。
ケイは穏やかに笑いながら、今回の出張先の風景や食べ物に付いて話した。
談笑しながら廊下の突き当たりの古びたドアの前で立ち止まると、ノブを引いた。
「このドアは元々はどちらにでも開くんだが、入る時は押してはいけない。必ず外に引くんだ。」
その理由は、部屋を覗くと一目で判った。
中は沢山の物がうず高く積み上げられており、全く視界が利かない。
その山はドアの直近まで迫っており、内側に開けようとすると、ドアがぶつかってしまう。
それらの物の大半は何かの機械のようだが、サーリムには全く用途が見当も着かない物ばかりだった。
「父さん!ケイが来たわ。」
マーガレットが声を張り上げると、奥の方から返事がした。
「ここだ。」
三人はマーガレットを先頭に、一列になって声のした方へ機械の山をすり抜けながら進んで行く。
最後尾のサーリムは、不意に上衣の裾を引っ張られた。
驚いて振り返った拍子に、左手の甲を突き出した金属片に引っ掻けた。
「痛っ!」
その声に二人も振り返る。
「ちょっと、気をつけなさいよ。」
そう言いながらマーガレットはケイの脇をすり抜けて、左手を押さえるサーリムに歩み寄る。
サーリムの左手の甲には、赤い筋が付いていた。
その筋はみるみるうちに血の滴が盛上り、流れ始めた。
マーガレットはハンカチを取り出すと、傷口に当てようとした。
「汚れちゃうよ。」
サーリムが止めようとするのを無視して、ハンカチを傷の上に被せ、掌側で縛る。
「注意しないと、山が崩れてきたら、引っ掻き傷じゃ済まないんだからね。」
そう言って、サーリムの上衣の裾に引っ掛かった針金をそっと外した。
三人は再び歩き出し、悪戦苦闘の末に声の出元にたどり着いた。
そこには、温厚そうな中年の男が立っていた。
「やあ、ケイ。その子が君の初めての弟子か。」
「ええ、サーリム・マンスールです。禁書館を見せるために連れて来ました。」
「禁書館長のサミュエル・クラークだ。よろしく。」
そう言って差し出された右手は、学者のような細身の外観にも関わらず、大きく温かかった。
「ところで、ケイ。丁度良かった。君の意見を聞きたいと思っていたところなんだ。」
ケイはサーリムにちらりと視線を投げる。
それを見た館長は言った。
「マギー、サーリム君に館内をご案内して差し上げなさい。」
マーガレットは未練を含んだ視線でケイを一瞥したが、ケイに目配せされると明るく頷いた。
「ええ、サーリム。行きましょう。」
「貴方は、アラブの方から来たんですってね。」
歩きながら、マーガレットが話す。
「はい。」
サーリムは少し緊張気味で、返事に余裕がない。
「私は、アラブの方と会うのは初めてなんで、良く分からないんだけど、サーリムが名前で、ラティーフがミドルネームで、マンスールが名字で良いのかな?」
サーリムは少し考え込んだ。
「えー、どう言ったら良いのかな。アラブには名字は無いんです。僕の名前は正確には、サーリム・イブン・ラティーフ・イブン・マンスールと言います。」
ようやく話の継ぎ穂が見つかったサーリムは、緊張の反動で饒舌気味になっていた。
「イブンって言うのは、息子という意味です。本当の名前は、マンスールの後にもイブン何とかがずーっと続いて、最後はイブナダムつまりアダムの子で終わります。だけど、普通はお祖父さんの名前までしか使わないしイブンも省略するんで、アラブの外ではお祖父さんの名前が名字代わりになるみたいです。」
「へー、イブン・シーナーとかイブン・バトゥータとかのイブンてそういう意味だったの?」
マーガレットは、子供らしい対抗意識から少し知識自慢をした。
「ええ、そうです。」
「ところで、貴方は、幾つなの?」
「10歳です。マーガレットさんは幾つなんですか?」
「マギーで良いわよ。私は12歳。私の方がお姉さんね。」
そう言ってマーガレットは冗談めかして胸を張って見せた。
「ここが第一書庫よ。この館内では一番沢山本が入っているわ。」
そう言って、ドアを開けた。
霞んで見える程の奥までズラリと書架が並んでおり、見える限りの書架には、上から下まで本がぎっしりと詰まっている。
更に書架と書架の間のスペースにも所々に本の山が積み上げられている。
「監査官見習いの人達は、大抵歴史の勉強から始めるの。」
そう言いながら、マーガレットは別の列に移動する。
「ここがそう。他のジャンルの場所は追々覚えて行けば良いから、まずここを見れば良いわ。」
そう言って、本の山をすり抜けるように書架の列の間に入って行くと、そこには先客がいた。
「あら、マイク。何してるの?」
「見た通りさ。本の整理だよ。」
彼は、実際にはハイティーンだったが、サーリムには立派な大人に見えた。
「これは兄のマイクよ。マイク。この子は、ケイの弟子になったサーリム君。」
「初めまして。マイケル・クラークです。」
「初めまして。サーリム・ラティーフ・マンスールです。」
「丁度良かったわ、マイク。サーリム君にどの辺の本から手を着けたら良いか、教えてあげて。」
マイケルは快く応じて、サーリムに説明しながら、本の山をひっくり返して行った。
全部で30冊程の本を挙げて一通りの説明を終えると、付け加えた。
「残念だけど、禁書館から本を持ち出す事は禁じられているんだ。ここにある本は全て禁書なんだから当たり前だけどね。だから、本は読書室で読まなきゃいけない。とりあえず今言った本の名前をメモっておいて、順番に読んでいくと良い。マギー、読書室は教えてあげたのか?」
「まだよ。他にも案内する所は一杯あるから、行きましょうか?」
マイケルは、わざと早口で本の説明を並べ立てる事でサーリムの値踏みをしようとしていた。
いつ話を遮ってメモを取り出すかで、判断力が判ると思ったからである。
だがサーリムは最後までメモを取り出す事無く黙って聞いているばかりだったので、咄嗟の判断力には少々難あり、と評価した。
しかし二人が振り返ると、サーリムは手帳に本の名前を思い出しながら懸命に書き付けている所だった。
手帳を覗き込むと、先程挙げた名前はほぼ書き終わっており、マイケルの加えた簡単な説明まで付記されていた。
「サーリム君。今の本の説明を全部覚えたのか?」
「ええ。だけどすぐに忘れちゃうから、書き留めておかないと。」
さらりと答えたサーリムの様子を見ると、本人はこれが特別な能力だとは全く思っていない様である。
ヴィジフォン・ステーションの子供は、メッセンジャーのアルバイトをするのが普通なので、短時間に大量の情報を記憶するスキルは、当たり前の能力なのだ。
マイケルは少年の記憶力に内心舌を巻いた。
ケイは部屋に入る時から、ピクニック前日の子供のように期待に浮かれていた。
荷物を下ろし上着を脱ぐと、サーリムに言った。
「どうする?先に浴びるか?」
サーリムは、苦笑しながら答えた。
「後で良いです。お先にどうぞ。」
「そうか、じゃ悪いが先に浴びさせてもらおう。」
そう言うが早いか、ベルトをはずし始めた。
ケイと同行するようになってそろそろ3ヶ月が経ち、ケイという人物が少しは判ってきたつもりだが、このシャワー好きというか入浴好きは、どうしても理解できない。
一週間体を洗えないと、目に見えて機嫌が悪くなる。
この前2週間洗えなかった時など、とうとうまだ肌寒い早春だというのに、川に入って水浴びを始めたくらいである。
シャワーですら滅多にお目にかかれず(サーリムの記憶が正しければ、前回シャワーを浴びたのは一週間以上前である)、個室毎にシャワーがついて順番待ちの列を気にする事なく浴びられる部屋となれば、奇跡の様な物だ。
しかも、フロントで聞いたことが嘘でなければ、ここは湯が出るそうである。
とは言っても当然湯の量には限界があるから、早くしないと使い切られてしまう恐れは充分にある。
ケイのテンションは、いやが上にも高まっていた。
ケイは、全て脱ぎ捨てて浴室に入ると、シャワーの真下を避けて立ち、祈るような気持ちでそっとペダルを踏んだ。
湯を期待していて一気に冷水を浴びるのは心臓に悪いし、ごく稀だが沸かした直後の熱湯が出ることもある。
弱々しく滴り落ちる水滴を、恐る恐る手で掬って見る。
何と、少々ぬるめではあるが、まともな湯が出てきた。
一瞬バスタブに目をやったが、この湯の勢いでは溜まる頃には水になっているだろう。
贅沢を言えばきりがない、温かいシャワーが浴びられるだけでも充分だと思い直して、シャワーの下に立った。
シャワーのぬるい湯を浴びながら、ケイは故郷を思い出していた。
あそこでは、今でも毎日水を汲み薪を焚いて、風呂に入っているのだろう。
青々と茂る森と、小川のせせらぎが目に浮かぶ。
ケイ自身は自分の入浴好きを、子供時代の習慣というより民族のDNAに刻まれた物だと信じていた。
浴室から漏れてくる鼻歌を聞きながら、サーリムはケイが脱ぎ捨てた服を拾い集めていた。
ベルトにピストルのホルスターと並んで鞘に入ったナイフが付けられているのが目に入った。
奇妙に捻れたグリップに、複雑な模様が隙間なく刻まれている。
模様は単純な幾何学的な物と、何かのシンボルを思わせる物が複雑に入り雑じっており、全体として何かを表しているようでもある。
サーリムはナイフを抜くと、握って見た。
グリップはサーリムの手には少し大きかったが、それでも指の位置がぴたりと決まり、握りやすくできている。
久しぶりの温かいシャワーを堪能し上機嫌で浴室を出たケイは、サーリムが護教剣を握っているのを見て、思わず鼻歌が止まった。
内心の焦りを必死に隠して、気軽な調子で声をかける。
「サーリム、シャワーを浴びたらどうだ?」
その声にサーリムは顔を上げる。
「シャワーはどうでした?」
ケイの声には、隠し切れない緊張が滲んでいた。
「あ、ああ、最高だったよ。そんな物騒な物はテーブルに置いてお前も浴びて来い。」
その言葉に違和感を感じたサーリムは、とりあえずナイフをテーブルに置いた。
その途端に、ケイが安堵の溜め息を漏らす。
その時サーリムは、ようやくケイが緊張していた事に気付いたが、その理由となると見当も付かなかった。
サーリムの表情から不審の念を読み取ったケイは、宥める様に言った。
「そのナイフは、護教剣と言ってだいぶ前に命の恩人に貰った物なんだ。見た目では判らんがとても変わった仕掛がしてあって、かなり物騒な代物なんだよ。うっかり触ると大怪我しかねないから、気をつけてくれ。」
その声の調子から、ケイは怒っているのではなく純粋に心配していた事を理解したサーリムは、素直に謝った。
「わかりました。勝手に触ってごめんなさい。」
「いや、注意してくれればそれで良いんだ。冷や汗をかいたんで、流して来る。」
そう言って、ケイはもう一度浴室に入って行った。
ノックすると扉が開き、くたびれた白衣をまとった貧相な出で立ちの初老の男が顔を出した。
全く油気が無く、絡み合ってまるで鳥の巣のようになっている灰色の頭髪には、年単位で鋏が入っていない様に見える。
その他の容姿についても全く気を遣っていない事は明らかだが、瓶底を思わせる分厚い眼鏡の奥の目には、風采の上がらないその姿には不釣り合いな程に、確固たる信念を抱く者特有の力強い光が宿っていた。
「どうぞお入りください。」
男の穏やかな声に促され、二人は中へ入った。
部屋の中は、何に使うのか想像もつかない器具で足の踏み場もない有り様だった。
「はじめまして、ブロンロさん。SI局のケイ・アマギです。ケイと呼んでください。こちらは助手のサーリム・マンスールです。」
そう言いながら右手を差し出すと、男はその手をしっかりと握り返しながら、嬉しそうな表情で答えた。
「ジェラール・ブロンロです。ようこそいらっしゃいました。」
二人はブロンロの案内で、雑多な器具の林の中を身をねじるようにかわしながら部屋の奥へ進んで行った。
ようやく擦りきれたソファにたどり着くと、ブロンロは座るように促し二人はブロンロと向き合って腰かけた。
ケイはバックパックからブロンロの申請書類を取り出すと、話しかけた。
「ご申請の要件は『恩寵の光の光学的性質についての研究』でしたね。」
「左様です。」
ブロンロは頷くと、その風采からは想像もつかないような情熱を込めて、滔々と語り始めた。
「そもそも主の恩寵は、何ゆえ「光」に例えられるのか。恩寵の光を見たと称する者は古より枚挙に暇が有りませぬが、その一方で、大部分の人間はその光を見る事も感じる事もできませぬ。そこで、本当に恩寵が光と同じ性質を持っている事を証明出来ればそれだけ神の実在に近づく事が・・・」
演説が始まりそうな気配を察したケイは、片手をあげて穏やかに遮った。
「お話は、申請書で拝読しております。大変興味深い内容でした。」
ブロンロは、顔をほころばせた。
「おお、それはそれは。して、監査はどのように進めますかな?」
ケイは、ブロンロを率直な性格の人物と判断したので、駆引きを省略して監査を進める事にした。
「申請書に記載されている実験ですが、今ここで再現できますか?」
ブロンロは胸を張って言った。
「お安いご用意ですな。」
そして机に歩み寄ると引き出しから鍵を取り出し、後ろの大きな金庫に向かった。
耳障りな軋みを上げて扉が開くと、そこには麗々しく彫刻を施された象牙製らしい箱と純白のシルクの手袋が並んでいた。
ブロンロはそれらを両手で捧げ持つ様にして取り出して、テーブルにそっと置く。
更にポケットから別の鍵を取り出すと、その箱の蓋を開けて見せた。
その中には、鮮やかな緋色のシルクのクッションの中央に、親指の先程の茶色くすすけた物体が置かれている。
「これは聖遺物、聖マルケルスの遺骨です。教会から拝借いたしました。これが恩寵の光の光原となります。」
聖遺物と言えば、教会の権威の源であり巡礼者を引寄せる謂わば収入源でもある。
教会の起源は、原始キリスト教時代に殉教した聖者の遺徳を偲んでその墓所に人々が集った事だとされている。
この点が後に拡大解釈されて、聖者の遺骨や遺品である聖遺物を安置する建物が教会となった。
例えば、カペラ(聖堂)とは、元々フランク王が聖マルティヌスの遺品である外套を安置するために建てたカペルレ(外套安置所)がその始まりであり、これが一般名詞化した物である。
余談ながら聖堂でミサを執り行う際に、聖歌を詠唱するにあたり娯楽としての歌と厳密に区別するため楽器による伴奏を禁止していた時期があった。
この事から、伴奏なしで歌う事をア・カペラ(聖堂風)と呼ぶ。
それはともかく、こういった経緯によって、聖遺物を所有する事が教会の正統性の重要な根拠となる。
従って、霊験あらたかな聖遺物は文字どおり奪い合いの対象となる。
ここで、詐術を用いて聖遺物を奪い取る事は、神聖盗略と呼ばれ、通常の窃盗とは一線を画す行為と見なされる。
聖者が不正を許す筈はないので、略取が成功したというその事実自体が聖者自身が移動を望んだ証拠とされ、正当化されるのだ。
だから、フルタ・サクラによって得られた聖遺物は、その来歴を隠されたりはしない。
例えば、相手の教会に修道士として入り込み、10年以上も掛けて信頼を得た後に『動座』願った物である、といった具合に、堂々と胸を張って語られるのだ。
従ってどこの教会でも略取を恐れて聖遺物は厳重に管理され、教会から出る事は滅多にない。
何しろ聖遺物を盗られる事は、その教会が聖者に見放された事を意味するのである。
それを貸し出されるのだから、ブロンロがどれくらい教会から信用され、またその研究が期待を寄せられているかが判る。
ブロンロはシルクの手袋をはめて遺骨に一礼すると、そっとつまみ上げてそのまま部屋の窓際に向かった。
そこには、テーブルと二台の金属製のスタンドが、窓に平行に一列に並んでいる。
彼は、遺骨を最も奥にある1メートル程の高さのスタンドの上に、傷つけない様に慎重な手付きで、クリップで固定した。
そして手袋を外してポケットにしまうと、1メートル程手前の次のスタンドに歩み寄った。
その上には、縦長でくすんだ色の摩りきれたプラスチックの板が立てられている。
おそらく、かつては鮮やかなオレンジ色だったのだろう。
「これは遮蔽板です。大いなる再構築以前に作られたプラスチック板ですな。ご存知の通り、呪われた科学技術の産物であるプラスチックは、神の恩寵にあずかる事はできませぬ。したがって、このパネルを通して恩寵が働く事はない訳です。」
プラスチックが恩寵に対して不透過である事が、既知の事象として扱われている事も気になったが、それ以上に『科学技術』という発音に含まれる微かな嫌悪感が、ケイの意識に引っ掛かった。
ブロンロはケイの表情の変化を意にも止めず、更にその1メートル程手前にあるテーブルの上に置かれた一見するとがらくたとしか見えない装置に説明を移した。
「こちらは生命シミュレーターです。この装置は火花を発生します。炎とは最も単純にして純粋なる生命の雛型ですから、その子供である火花が、生命のシミュレーションとなる訳です。」
そう言って指し示した装置は、木製の筒に銅線を巻き付けたコイルと、何かの機械から取って来たと思われる所々錆びの浮いたスプリングと、銀色の小さな円盤を組み合わせてハンドルを着けた装置だった。
そしてその装置からは、横向きに嘴の様な二本の金属棒が突き出ている。
ブロンロは銀色の小さな円盤を指差して言った。
「このマグネットが装置の核となります。」
続いて、装置のハンドルに手を掛けながら説明する。
「このハンドルを回せば、コイルの中のマグネットに固定されているスプリングが、このように圧縮されます。」
そう言いながらハンドルをゆっくりと回すと、スプリングが圧縮され、マグネットがコイルを通り抜けて引き上げられた。
「そのまま回し続けると、ここでロックが外れて・・・」
硬い金属音がして、マグネットが一気に元の位置に戻ると同時に、嘴の先端で火花が飛んだ。
「マグネットがスプリングの力でコイルの中を高速で移動する事により、瞬間的に高電圧の電流が発生して火花が飛びます。」
「そのマグネットは、ネオジムですか?」
「良くお分かりですな。」
ネオジムとはレアアースの一種で、これを適量含む合金は極めて強力な磁石となる。
勿論その技術も、大いなる再構築で失われた。
ブロンロは再び遮蔽板のスタンドに向き直ると、パネルを固定する台座の下から水平に伸びている腕を指した。
その腕は50センチ程水平に伸びて、その先は上に向かって直角に曲がっており、その先端のクリップには小さなプリズムが立てられている。
「これが今回の実験の中核となる光学偏向装置です。この側腕に支えられたプリズムは、今は光源から見て遮蔽板の陰にありますが、こうしてレバーを引けば」
そう言いながらレバーを引くと、軽く乾いた音がして腕が水平に90度回転し、プリズムが遮蔽板の横に並んだ。
「この位置にくる事で、恩寵の光を屈折させ、生命シミユレーターに届くようになります。これによって、恩寵の光があたっている時とそうでない時の生命活動の違いを確かめられる訳です。」
ケイは実験に先だって、条件を明確化しておく事にした。
「いくつか確認したい事があります。まず、この実験で言うところの生命活動の違いは、どのような基準で確認するのですか?」
ブロンロは、学生に講義をする様に淀み無く答える。
「この生命シミュレータが発生する火花の状態の違いです。恩寵の光の祝福を蒙る時火花は大きく力強い物となりますが、そうでない時はか細く弱々しい物でしかありません。またその色合いも異なります。恩寵の光を浴びた火花は健康な黄色ですが、そうでない火花は赤みがかった不健康な色となります。」
ケイは、率直に疑問点をぶつけてみた。
「そうですか。ところで、プラスチックの遮蔽板も、そのコイル発電機の核となるネオジム磁石も、大いなる再構築以前の科学技術に依るものという点は共通している筈ですが、何故その火花は恩寵に与る事ができるんですか?」
ブロンロは一瞬言葉に詰まったが、直ぐに反論した。
「そ、それは、この装置は科学技術に依るものかもしれませんが、産み出される火花はそれとは関係のない生命の雛型ですから。全ての生命は等しく恩寵に与る事ができるのです。」
ケイにはまだ疑問があったが、とりあえず実験を見る事にした。
ブロンロは火花発生機の横に立つと、実験の開始を宣言した。
「火花の変化を見る為に部屋を暗くします。」
その言葉に、ケイは立ち上がると言った。
「私が閉めましょう。」
ケイが分厚いビロードのカーテンを閉じると、部屋は何も見えなくなった。
その闇の中で突然大きな金属音が響き渡った。
「失礼しました。遮蔽板のスタンドに躓いてしまいました。」
ケイが謝った。
「お怪我はありませんか?」
ブロンロの気遣う声に、ケイは明るく答える。
「大丈夫です。どうぞ始めて下さい。」
暗闇の中でレバーを操作する微かな音がした。
「それでは、まず、恩寵の光が遮蔽されている状態です。」
そう言うと、ブロンロの傍で小さな火花が飛んだ。
「もう一度お見せしましょう。」
暗闇の中で、再び火花が飛んだ。
「この火花の、大きさと色合いを覚えておいて下さい。では今度は、」
再びレバーの操作音がした。
「光を屈折させます。さぁ、良くご覧下さい!」
ブロンロの力強い声に、サーリムは暗闇の中で目を凝らした。
「あっ。」
サーリムが短く声を上げた。
今度の火花は、それほど大きく明るく見えた。
「いかがですかな?」
ブロンロの声には、自信が現れていた。
その後ブロンロは、数回に渡ってレバーを切り替えながら実験を繰り返して見せた。
「これくらいで十分でしょう。」
そう言ってブロンロは、カーテンを開けた。
部屋中に眩しい程の光が満ち、三人は思わず目を細めた。
ブロンロは自信たっぷりの態度で振り返り、装置を掌で示しながら話し始めた。
「今ご覧になった通り、恩寵の光はこのプリズムで屈折を示し・・・」
そこまで言いかけて、ブロンロは絶句した。
その手が指し示したクリップの先には、何も無かった。
「こ、これは一体・・・」
絶句するブロンロを制してケイは遮蔽板のスタンドに歩み寄ると上体を折り曲げながら床に手を伸ばしてプリズムを拾い上げた。
「大変申し訳ありません。先程スタンドにぶつかった時に衝撃で外れたようですね。」
そう言いながらプリズムをクリップに戻しつつ、それとなくブロンロの様子を窺う。
ケイは、ブロンロの反応が狼狽か怒りかのいずれかであろうと予想し、どちらの反応を示すかでブロンロが自身の研究に対するスタンス(有り体に言えば『判っていて』騙そうとしているのか、本気で信じているのか)を測る事が出来ると思っていたのだが、ブロンロの反応はそのどちらでもなかった。
彼は顎に拳を当てて俯き、難しい表情で考え込んだ。
その意外な反応にケイは、軽い当惑を覚えつつその沈黙を見守っていた。
しばらくして再び顔を上げたブロンロは、意外な程にさばさばした表情で言った。
「どうやら、まだ見落としていた事が色々有るようです。理論をじっくりと練り直した上で再度申請させて頂く事としたいのですが、よろしいですかな?」
その意外な言葉に、むしろケイが狼狽気味に訊ねた。
「え、ええとそれは、申請の取り下げという事でしょうか?」
申請を取り下げれば、推薦人となった大賢者の顔に泥を塗る事になりかねない。
そうなれば、その大賢者の率いる団体との関係が悪化する恐れは十分にあり得る。
だから、追い詰められてやむを得ずという状況以外で、自発的に取り下げる例は見た事が無いので、ケイは念を押したのだ。
「勿論その通りです。」
きっぱりと宣言するその口調からは、自らの理論に重大な誤りがある事は理解している筈であるが、その声には失望の響きはなく、むしろ知的な喜びが感じられた。
「了解しました。再度ご申請頂ければ、我々はいつでも参ります。」
そう言うケイの声も、心なしか嬉しそうに感じられた。
そうして二人はブロンロの元を辞去した。
宿に戻ると、サーリムは尋ねた。
「あれはつまり、火花の大きさとプリズムの位置は、関係無いってことですか?」
その率直な問に、ケイは短く答えた。
「そう言う事だな。」
サーリムは、頸を捻りながら更に訊ねる。
「じゃあ、何で火花の大きさが変わったんです?」
サーリムの質問に、ケイはいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「さあ、『本当に』大きくなったか?」
質問の意図が判らないサーリムは、反射的に答えた。
「え?そりゃ、なったでしょ。」
ケイは、更に追及した。
「何倍になった?」
サーリムは自信無さげに答える。
「何倍って・・・そんな数字は良くわかりませんけど・・・」
ケイは、その回答の曖昧さを明確に指摘した。
「つまり客観的な尺度はなく、『大きくなったという印象』を受けただけだな。」
その指摘にサーリムが、納得がいかない表情で黙り込んだのを見たケイは説明する。
「暗闇の中で、比較対象物の無い一瞬の火花を目視するわけだから、火花の大きさは印象で判断するしかない。そして、暗闇の中にいる事で虹彩は大きく開くわけだが、期待を持って注視すれば虹彩は更に大きく開くから、そうでない時より光をより強く大きく感じるのが当然だ。」
サーリムは、まだ要領を得ない顔付きで反問する。
「それじゃ、火花の色はどうなんです?」
こいつはなかなか見所がありそうだ、とケイは再認識した。
何を言われてもそう簡単に納得しない疑り深さは、この商売では最も基本的なスキルなのである。
「一瞬の火花の色合いなんぞは、それこそ印象そのものだ。本当に客観的に測定するなら、写真分光機でも使わなければどうしようもない。要するに、客観性を保証する観測手段が、全く取られていなかったんだよ。」
その説明に、サーリムはひとしきり考え込んだが、やがて、顔を上げて言った。
「つまり、ブロンロさんはわざと声を張り上げて意識を集中させて、僕らに火花が大きくなったと思い込ませようとしたって事ですか?」
ケイは、思わず満足の笑みを溢しそうになったが、表情を抑えて説明を続ける。
「中々良い読みだ。だが、最初から騙す積もりなら、あの場を取り繕う方法はいくらでもあっただろう。しかし、ブロンロはそうしなかった。」
サーリムは、再び考え込んだ。
「じゃぁ、ブロンロさんは、自分で自分を騙してたって事でしょうか?」
ケイは、ようやく笑みを浮かべて答を告げた。
「そう言う事だ。ブロンロの科学的アプローチを目指す姿勢自体は素晴らしいんだが、科学的アプローチは客観的な観測手段に依らなければ成立しない事を理解していなかったわけだ。ブロンロのように悪意も無く真摯な姿勢を持っていても、科学的に適切な手法が理解出来ていないと、誤った思い込みから逃れる事はできない。」
そう説明するケイの声は、この幼い弟子の理解力に満足げであった。
その時、サーリムは遠慮がちに尋ねた。
「ところで、ケイさんは『本当に』スタンドに躓いたんですか?」
途端に先程の笑みが嘘の様に消え失せ、ケイの表情が険しくなった。
「お前は、師匠を疑うのか。」
ケイの声の冷ややかな響きに、サーリムは思わず椅子の上で身を引いた。
「いやしくも師匠たるものを疑うからには、まさか『そんな気がする』なんていい加減な話じゃ有るまいな?」
少年は、師匠の剣幕に気圧されて口ごもる。
「きちんとした根拠があるなら、言ってみろ。」
ケイは強い口調で詰め寄る。
「そ、それは・・・」
サーリムは俯いてしばらく躊躇っていたが、やがて意を決して顔を上げた。
「ガラスで出来ていてエッジの立ってるプリズムが、硬い床に落ちたのに角が欠けた跡がないのは、不自然だと思ったからです。」
なおも険しい口調で、ケイが言う。
「それじゃ、『プリズムに指紋がつかないようにハンカチで包んでそっと外して床に置いてから、スタンドを足で蹴って音を立てる』なんて事を、俺がしたと言うのか。」
そう言いながらケイは、必死でしかつめらしい表情を保とうとしていたが、とうとう我慢しきれなくなって、言い終わる前に吹き出した。
「よし、合格だ。」
その言葉にサーリムは脱力し、安堵の吐息を漏らした。