第九話 孤児サーリム
妹が死んだ。
アーイシャはまだ、7歳の誕生日も迎えていなかったのに。
しかし、不思議と悲しいという感情は湧いてこなかった。
むしろ、これで「寒いよ。おなかへったよ。」と泣かれなくて済むのだと思うと、ほっとしていた。
かつて彼らを包み込む 暖かい家であったヴィジフォン・ステーションの外壁を見上げる10 歳の少年の瞳には、すぐに妹の後を追うであろう自分の運命が、はっきりと映っていた。
サーリム達の両親は、ヴィジフォン・ステーションの管理者すなわちこの街に唯一存在する事を許された技術奴隷であったが、ほんの一月前に疫病の流行で、驚くほどあっさりと、サーリムとアーイシャの兄妹を残して死んでしまった。
元々テクニとは現代の不可蝕賎民であり、誰も積極的に関係を持ちたくない存在である。
しかし、誰かがヴィジフォン網を維持しなければ困るので、 その特殊技能の価値のためにかろうじて『必要悪』としてその存在を認められている、というよりはむしろ大目に見られているだけなのだ。
したがって、特殊技能を習得する前に両親に先立たれこれを習得する機会を失った『テクニの子』達は、彼らを取り巻く社会から見ればテクニの穢れだけを背負った役に立たない存在であり、誰もその行方などには関心を抱かない。
そもそもヴィジフォン・ステーションは社会の公共財産であり 、テクニは(その家族も含めて)管理を仰せつかっている間だけ、社会の好意により間借りさせてもらっているだけの存在である。
従って、両親が死んで管理ができなくなるや否や、10歳と7歳前の兄妹はその家から追い出された。
かつて彼らの暖かい家であったこの建物は、今や幼い兄妹に冷たい外壁だけを見せて、次の管理者を待っている 。
そして、兄妹はかつての家の周りで野宿しながら、かろうじて一部の (主に主婦達の)好意により食を得ていたが、元々豊かとは言い難いこの街で、施しに頼って生きて行く事は難しかった。
衰弱して行く妹を見守る以外に、サーリムにできる事はなかった。
そして、アーイシャが動かなくなった時、サーリムは悲しむ代わりに心の中で、もうすぐお兄ちゃんもそっちに行くから先に行って待っててくれ、と語り掛けていた。
「きみ、この子はどうしたんだ。」
突然上から声を掛けられてサーリムの意識は、現実に引き戻された。
「死にました。」
そう答える少年の声には、 感情は全く含まれていなかった。
声の主は後ろを振り返ると、
「なぜ、埋葬されないんですか?」
と同行者達に尋ねた。
「これは、テクニの子ですからな。」
サーリムには聞き覚えのある声が答えた。
モスクの執事長だ。
サーリム達に家から出るように命じた時と同じ、事務的な調子である。
「親の職業は子供の責任ではないでしょう。第一、テクニだから骸を打ち捨てられて良いということは無いはずだ。」
今度の問には、明らかに彼らの態度を批難する響きがあった。
「そんなにその子が気になるなら、貴方が埋葬すれば良いじゃありませんか。」
執事長は、これで相手を言い負かしたつもりになっていた。
「なるほど、確かにそのとおりですな。」
その声には、ためらいは全くなかった。
男はそのまま少女の骸を抱き上げると、執事長に尋ねた。
「葬儀屋に連れて行ってもらえませんか?」
執事長は、虚を衝かれてうろたえた。
「ど、どうしてもというなら紹介しないでも無いが 、テクニの子の為に祈りを捧げる聖職者は居ませんぞ!」
その時、一行の中心から別の声が響いた。
「そのような事はそなたが心配する事ではない。私がこの幼子の為に祈ろう。」
「教主!」
執事長は狼狽した。
イマームは、その瞳に優しい笑みを湛えてサーリムの顔を覗き込んだ。
「 そなた、名は何と申したかの?」
サーリムは、事態の急展開が飲み込めず、
「サーリム、サーリム・ラティーフ・マンスールです。」
辛うじて それだけを答えた。
「そうか、サーリム。辛かったであろう。そなたらがこのように辛い目に遭ったのは、わし等が至らなかった所為じゃ、 許しておくれ。」
そう言ってイマームがサーリムの手を取った時、居並ぶ全員が息を呑んだ。
「イマーム、何をおっしゃるんですか!」
執事長が静止しようとした時、 イマームは毅然として答えた。
「今、アマギ殿がこの幼子の亡骸をためらうことなく抱き上げたのを見て、目が覚めたのじゃよ。わし等がアマギ殿に凹まされたのは当然の事じゃ。目の前の幼子にすら憐れみを抱かぬ我々には、如何にアッラーが慈悲深きお方でも、慈悲をお垂れ下さるはずがあるまい。」
イマームはケイに向き直ると、頭を下げた。
「貴方のおかげで、アッラーの御心に思い到る事ができました。改めて礼を申します。」
ケイは和やかな表情で
「とんでもない。こちらこそ差し出がましい事をしまして、失礼しました。」
と頭を下げた。
結局のところ、葬儀の一切は執事長が取り仕切る事になった。
執事長は、テクニの子であった少女に対してどういう感情を抱いていたにせよ、その感情を職務に反映させるような人物ではなかった。
葬儀は、簡素ながら荘重な雰囲気の中で執り行われた。
ケイは葬儀と埋葬が終わると、サーリムを一旦宿に連れ帰った。
まずは食事を取らせ、ゆっくりと休養させて落ち着かせた上で、今後の身の振り方を相談しようと考えたのだ。
ケイがサーリムを連れて食堂に入ってきた時、昼下がりで昼食を摂りに来た客も一段落し、女将が一人で厨房に立っていた。
ケイがサーリムを伴って入ってきたのを見た女将は、明らかに安堵の表情を浮かべた。
やはり幼い子供達の運命は、気になる物だ。
特に救いの手を差し伸べる事が、自分を含めた社会の同調圧力によって抑止されている相手であれば尚更である。
「とりあえず、この子に暖かい物を用意してあげて下さい。」
ケイがそう声を掛けると、女将は嬉しそうに手をエプロンで拭きながらキッチンストーブに向かった。
しばらくすると、湯気を立てる深皿一杯に盛られた具沢山のシチューが運ばれてきた。
「さあ、食べなさい。」
サーリムには、まだ一連の出来事が現実だとは思えなかった。
夢を見ているような感覚で薦められるままにスプーンを手に取り、湯気の立つジャガイモを掬い上げ口に運んだ。
ジャガイモが舌に触れた時、熱さで飛び上がりそうになった。
火傷の痛みが、サーリムにこれが現実である事を認識させた。
そしてその痛みは、アーイシャがもうこの痛みを感じる事はないのだと言うもう一つの現実をも思い出させた。
唐突にサーリムの視界が歪み、ケイの穏やかな笑顔も見えなくなった。
サーリムは突然の事で何が起こったのか解らず一瞬狼狽したが、頬を熱い物が伝わって行く感覚に気づいた事で、自分が泣いているのだ、と悟った。
「おやまあ、どうしたの?熱かった?」
女将は慌ててエプロンのポケットからハンカチを取出し、サーリムに駆け寄ろうとする。
ケイは穏やかに微笑んで、女将を制する。
サーリムはしゃくり上げ、鳴咽をもらし始めた。
ようやく、感情が涙に追いついてきた。
そうしてこの10歳の少年は、両親が死んでから初めて声を上げて泣いた。
熱い涙が流れて行く度に、サーリムの中の暗い絶望の数々が一つずつ事実を受け入れる諦念に変わって行った。
最低限の今の事態を心が受け入れるまでに長い時間が掛り、その間にリットル単位で計れるのではないかと思うほどの涙が流れた。
その間ケイは一言も発することなく、穏やかに微笑みながらサーリムを見守り続けていた。
ようやくサーリムが落ち着いた時には、もうシチューはすっかり冷めていた。
「済みませんが、温め直してもらえませんか?」
ケイがそう女将に声を掛けたときには、女将は既に湯気の立つ2杯目のシチューを深皿に注いでいるところだった。
女将は慈母の微笑みを浮かべながら、
「さあ、熱いから気を付けなさいね。」
と言い、皿を交換した。
サーリムががっつき始めたのを確認してから、ケイは女将の方を向いた 。
「私の部屋に、もう一つ寝床を用意して下さい。」
そう言われた女将は一瞬意外そうな表情を見せたが、うれしそうな声で
「かしこまりました!」
と言って、食堂から出て行った。
その夜、ケイはサーリムが寝床の中で啜り泣いている事に気づいたが、 あえてなにも言わず泣かせておいた。
翌朝、ケイはサーリムが自然に目覚めるまで、寝かせておいた。
目覚めた時には、もう太陽は高く上っており、穏やかな一日になりそうだった 。
ケイは、サーリムを伴い客のいない食堂に入ると、遅い朝食を摂った 。
サーリムはそれでも久しぶりに柔らかい寝床で寝られた事で、多少元気を取り戻していた。
「さて、サーリム君、君はこれからどうしたいのかな?」
ケイは、優しく語り掛けたが、サーリムは無言であった。
「今、君には2つの選択肢がある。このままここに残りたいなら、モスクに行ってそう話そう。とりあえずヴィジフォン・ステーションに戻してもらい、次の管理者が来たら弟子として雇ってもらうように、 私から話をしよう。但しこの場合でも、いずれ君は、独り立ちする時期にここを出て行く事になる。」
サーリムは無言のまま聞いている。
「今すぐにここを出ても良いなら、私がケンジントンに連絡して、子供のいない技術者で養子を求めている人物を探してもらう。話が折り合えば、そこが君の新しい家になる。」
ここでケイはもう一度言葉を切り、サーリムの表情を伺った。
少年は何か言いたげでは有るのだが、言葉にはしなかった。
「君はどうしたい?」
ケイは再び尋ねた。
「ぼ、ぼくは…」
ようやくそれだけ言うと、再び黙り込んだ。
「今のは、君の選択肢を説明しただけだ。今この場で決めろと言っている訳じゃない。」
ケイは重ねて言った。
「もう一日二日はここにいるから、その間に落ち着いて考えれば良い。」
そう言った時に、サーリムは顔を挙げた。
ようやく決心がついたという表情だ。
「僕は、貴方みたいになりたい!」
ケイはサーリムの意外な発言に驚いた。
「私みたいに、とは監査官になりたいという事かな?」
「そうです。」
サーリムはきっぱりと答えた。
「何故、そう思ったんだい?」
ケイが尋ねた。
「あの・・・、それは・・・」
サ ーリムは再び黙り込んだ。
ケイは、穏やかに笑いながら諭した。
「別に、動機が立派な物かどうかを問うている訳じゃない。監査官というのはこう見えて中々辛い仕事なんでね、だから別に高尚な動機は必要ないんだが、強い動機は必須なのさ。私は、君がどれくらい本気なのかが知りたい。」
「その・・・笑いませんか?」
サーリムは、媚びを含んだ表情でケイを見上げた。
「君の動機が何であったとしても、それを笑う資格のある人間は何処にもいない。大事なのは君が本気かどうかだ。だから、何であれ君が思った事を素直に言って欲しい。」
「執事長みたいに、威張りかえって僕らをまるでゴミか何かだと本気で 思っているような人達が、貴方の一言で飛び上がり走り回るのを見たからです。僕も、ゴミみたいなちっぽけな物ではない何かになりたいんです!」
ケイは目の前の少年に、かつてランドルフと出会った少年時代の自分の姿を重ねていた。
あのときジムは、どう言っただろうか?
ジムが自分を一人の人間として正当に扱ってくれたからこそ、今の自分がある。
今この少年を同じように扱う事は、監査官ではなく人間ケイ・アマギの義務である、そう確信した。
「君はゴミではないし、そもそもゴミのように扱われて良い人間なぞ存在しない。しかし、君がどう扱われてきたかを考えれば、君がそう考える事は充分に理解できる。動機としては充分だろう。」
それを聞いたサーリムの表情は、明るくなった。
「だがさっき言った様に、監査官と言うのは大変辛い仕事だ。それでも君が本気で監査官になりたいなら、現役の監査官に弟子入りしなければならない。連邦には、監査官を養成する機関は存在しないんだ。」
「どうやって、弟子入りするんですか?」
「私は、20歳で独立して5年になるが、まだ弟子を持った事が無い。つまり指導者としての私の能力は検証された事が無いわけだが 、同時に手が空いている、つまり弟子を取る事ができる、という事でもある。君がもし私が師匠で良いと言うなら、君を弟子としよう。 あるいは、私と一緒にケンジントンに行って、君を弟子にしても良いというベテランの監査官を探すか、だな。」
サーリムはきっぱりと言った。
「僕は、貴方の弟子になりたいと思っています。」
ケイは頷いた。
「解った。それでは ともかく君を弟子にしよう。ただし、それは全てが決まったという事ではなく、今後共に行動しながら君自身の考えが変わらないかどうかを見て行こう、という事だ。そして、その過程で不幸にして君の能力が監査官となるには不足だと私が判断すれば、その時は君の新しい人生について、再度相談する事になる。」
昼下がりに、イマーム達が尋ねてきた。
ケイがサーリムの意志を説明すると 、全員が喜んだ(執事長はどちらかと言うと安堵していた)。
「サーリムよ。そなたが広い世界を見てくるのは、本当に良い事じゃ。それにの、済まぬが、今のわしらにはそなたを暖かく見守るだけの心の準備が出来ておらぬ。じゃが、そなたが再びここに戻ってくる時には、そなたを温かく迎えられるようになっていよう。アマギ殿、この少年をよろしくお願いいたします。」
そう言って、イマームは深々と頭を下げた。
「どうぞ、お手をお挙げ下さい。サーリム君はお預かりします。」
そのとき、イマームのすぐ後ろに控えていた同年輩の老人が進み出て きた。
「それでは、餞に卦を立てて進ぜよう。」
そう言うと、懐から皮袋を取出した。
それを聞いたイマームは相好を崩して言った。
「マリクよ、それは何よりの餞じゃのう。サーリム、イマーム代行のマリク自ら卦を立てるなぞ、滅多にある事ではないぞ。」
マリクは、サーリムを呼んだ。
「さ、ここへ来て、両掌をこう広げなさい。」
そう言って、何かを掬い取るように両掌を揃えて広げてみせた。
サーリムは、言われるままにその真似をした。
マリクは、その広げられた小さな掌に皮袋の中身を空けた。
涼やかな音が響き、色とりどりの石が掌の上に小山を作った。
「さあ、そのままテーブルにひろげるが良い。」
サーリムは、そっと石をテーブルに広げた。
マリクがテーブル一面に広がった石を一瞥した時 、一瞬その目に険しい光が覗いた。
しかし、直ぐに満面の笑みを湛えて言った。
「これはこれは、この旅立ちは上々吉、平穏な旅路間違い無し、と出たぞ。」
そう言いながら、そそくさとテーブルに広がった石をかき集め、袋に仕舞った。
「それで、これからどうなさるのかな?」
イマームが尋ねる。
「これから サーリムの旅支度を整えて、明朝には次の街へむけて出発する予定です 。」
「そうですか。それでは執事長、お手伝いをして差し上げなさい。」
「 かしこまりました。」
感情を表に出す事の無い、丁寧な返事であった。
「それでは、まずは身の周りの物から揃えましょうか。」
執事長はそう言うと、二人を雑貨店に案内した。
手慣れた様子でショルダーバッグや服、下着を選んで行く。
特に彼が選んだショルダーバッグは、オイルレザーで重過ぎず防水性も考慮された実用的な物で、少々値段が張っても耐久性に優れている物が結局長い目で見れば得になるという、彼の合理的な性格を物語っていた。
一揃えの荷物をカウンターに置いてケイが財布を出そうとすると、 執事長は押し止めた。
「費用については、イマームから仰せつかっておりますので。」
そういって、店主に向かい
「モスクに付けておいて下さい。 」
と告げた。
「畏まりました。」
店主は愛想良く、頭を下げた。
「次は武器ですな。」
そう言って、武器屋に案内した。
店に入ると、右手の壁に並べてある銃を一瞥し、
「どのあたりにしますか?」とケイに尋ねた。
「まだ銃は早いでしょう。さし当たって必要なのはナイフですね。」
執事長は左手の壁に向かい、サーリムに向き直ると声を掛ける。
「どうだね?手にとってみたい物はあるかな?」
サーリムの視線は、しばらく壁に並んだナイフの上を行ったり来たりしていたが、そのうち一本のナイフの上に止まった。
上段に並ぶそれは、鹿角材のグリップに燻し銀の飾りがはめ込まれ、見るからに頼もしげなスタイルである。
「これかね?」
そう言いながら執事長は手を伸ばし、ナイフを取った。
厚みのある幅広の刃には、きれいな波紋が一面に広がっていた。
ダマスカス・ブレードと呼ばれる特殊な刃だ。
鋭い切れ味を実現する硬い鋼と 、無理な力が加わっても耐える粘り強いニッケル鉄合金を何層にも重ねて鍛え上げた事による、美しい波紋である。
薄いクリーム色と濃い飴色が複雑に入り交じった鹿角のグリップも、その中程に嵌め込まれた燻し銀の金具も、単に見栄えを良くするだけではなく、しっかりと保持する事を第一に考えた、地に足のついたデザインである。
「握ってみなさい。」
そういって、執事長はサーリムにナイフを渡した 。
恐る恐る受け取った少年は、右手で握り締めた。
執事長はグリップを包みきれていない少年の掌を拳の上から両手で包むようにして、サイズを確認した。
「これは、君にはまだ少々大きすぎるな。」
そう言って、もう一段下にある同じデザインで一回り小さいナイフを取った。
「こっちを握ってみなさい。」
渡されたナイフのグリップは、少年の手にぴったりと収まった。
「うむ、こちらの方が良いな。」
そう言うと初めて微笑んで、店主に向き直った。
「これに合うシース(鞘)をお願いします。」
「少々お待ちを。」
そう言って店主はカウンターの奥に廻り、しばらくゴソゴソと探っていたが、やがて見るからにしっかりと作られた皮製のシースを取出した。
「おいくらですか?」
「ナイフが320ドル、シースが15ドルです。」
造りが良いだけに結構な金額だなと、ケイは心の中で口笛を吹いた。
驚いた事に、執事長は自分の財布を取出した。
「その…失礼ですが、モスクの財政に不安があるようでしたら、それはSI局の予算で支払いますが?」
執事長は、今度ははっきりと微笑みを浮かべて言った。
「本当に失礼なお言葉ですな。決して豊かとは言えない我がモスクの財政ですが、この程度の事ではびくともしません。」
では、と言いたげなケイを制して、
「この子の妹に、何もしてやれなかった自分の不甲斐なさを思い返して見ると、身の置き所も無い心地がします。こんな事が罪滅ぼしになるとも思えませんが、せめてこれだけは私が出します。」
決然としてそう告げると、100ドル紙幣を4枚店主に渡した。
紙幣を受け取り、 再度カウンターに入った店主は、戻ってきて、紙幣を渡す。
「それでは 、こちらがお釣の80ドルです。」
今度は、執事長が怪訝そうな表情を浮かべた。
「この子達に心を痛めていたのは、貴方だけじゃないんですよ。」
そう言って店主も微笑んだが、その表情はバツが悪そうであった 。
その夜寝床に入ったサーリムには、マリクが一瞬だけ見せた眼差しが忘れられなかった。
少なくとも彼が説明したとおりの結果が出たわけではない、という事は確かだった。
そんなに悪い卦が出たんだろうか? そう考えると、これからの旅にも絶望的な想像しか沸いてこない。
それでも、このままここにいるよりはましだし、そもそもここにはもうい られないのだという事も良く判っていたのだ。
眠れないままにベッドの中で、転々と寝返りを打っていた。
ついに諦めて、少し風に当たろうと考え、そっとベッドを抜け出した。
もしかしたらあの人に会えるんじゃないか、特に根拠は無いがサーリムはそう感じていた。
軒先に出たとき、果してそこには月明かりに照らされたマリクがいた。
「ワシが来たのは意外ではないのか?」
「あの表情からすると、とてもあの場では言えないような卦が出たんでしょう。そんなに酷い結果だったんですか?」
マリクは目を細めて言った。
「やはり聡い子じゃのう。じゃが、酷い卦が出たわけではない。ただし、あの場で言うのは躊躇われる卦ではあったがの。イマームとも相談したが、そなたにだけは教えておくべきだと言う事になったのじゃ。」
「どんな卦だったんですか?」
マリクは黙って石を袋から取り出し、 テーブルに並べ始めた。
一通り並べ終わると顔を挙げた。
「あのときの配置は凡そこうじゃった。」
サーリムは驚いた。
「一回見ただけで、配置を全部覚えたんですか?」
老人は穏やかに笑い
「長年やっておるでな。第一、これを50年以上やって居るがあれほど変わった卦は見たことが無い。忘れようと思っても忘れられぬよ。」
そう言いながら、右上端に置かれた白い石を指した。
「これが『尋ねし者』すなわちそなたじゃ。」
続いてその横の深青石の石を指して
「そしてこれが『親しき者』つまりそなたの庇護者となるアマギ殿じゃな。」
と言った。
「 この2つは並んでおるが、それぞれ別の方向を指しておる。という事は、そなたとアマギ殿とは、全てが終わった後に別離が訪れるということじゃ。そして、」
左下端の暗紅色の石を指し
「これが『萌え出ずる大地』すなわちこの地じゃ。」
と言い、続けて左上端の浅紅色の石を指して
「これが『根を下ろす大地』つまり、この後そなたが生きて行く地じゃな。この二つが大きく離れているという事は、そなたはこの後故郷を遠く離りて生きてゆく運命じゃということじゃ。」
マリクは痛ましげな口ぶりでそう告げたが、サーリム自身はむしろここから離れられるという保証が与えられたと捉えて、安堵を感じていた。
「また、そなた達二人の石が、この二つの大地から大きくはなれておる、という事は、今後の二人の人生はほぼ旅に終始するであろう、ということじゃな。それから、」
そう言って中央の黄色い石を指した。
「これが『見出されし物』じゃ。これが中央にあるということは、そなたらは、旅の終わりに何かを見出すということじゃな。」
「何かって?」
黄色い石が触れている薄青の半透明な石を指した。
「これじゃな。これは『救済』じゃ。 」
サーリムには希望の光が見えたような気がした。
「じゃあ僕は、旅の 終わりに『救済』されるんですね!」
マリクは穏やかに笑うと言った。
「いやいや、さにあらず。『見出されし物』は『救済』の上に掛かっておる。つまり、そなたは救済されるのではなく、救済するのじゃ。」
「僕が救済するんですか?一体何を?」
「それは、この石が指しておる 。」
そういって指し示した黄色い石には、矢印を思わせるような角があった。
「この矢の先には、」
視線をそちらへ向けると、そこには残りのほぼ全ての石が集まっていた。
「普通なら、何か特定のものを指すはずなのじゃが、この有様では何を指しているとも言いがたい。強いて言えば森羅万象、または『世界』と呼んだ方が良いかのう。」
そう言って、マリクは一呼吸置いて続けた。
「つまり、ワシの立てた卦は、『そなたはアマギ殿と共に長い旅に出 て、その旅の果てに世界を救う。そしてその後二人には別離が訪れる』じゃな。」
サーリムは、マリクが彼を待っているのを見つけたとき、何か驚くような話を聞くことになるのではないかと感じてはいた。
しかし、この答えはあまりにも想像を絶する物であった。
「まさか。」
サーリムは、辛うじてそれだけを絞り出すように言った。
マリクは穏やかな声で告げた。
「信じるも信じないもそなた次第。ただ、安穏な生活はそなたらには許されておらぬようじゃな。」
その声には深い同情が込められていた。
「そこで、そなたに餞別をあげよう。」
そう言って、マリクは、懐から小さな革袋を取出し、サーリムに渡した。
「出して見なさい。」
そう促されて掌の上で袋を逆さにして軽く振ると、青と赤の澄んだ色の2つの石が転がり出た。
「この先、何かをやるべきか否かでどうしても決断がつかないときに、この石を取り出して投げなさい。二つの石が近ければその答えは『是』、離れていれば『否』じゃ。」
「近いってどれくらいですか?」
マリクは悪戯っぽく笑いながら、サーリムの顔の前に人差し指を立てて言った。
「占いと言う物はな、占おうとする人間にしか意味が無いのじゃ。じゃから本人自身のそのときの目で見て遠ければ、それは遠い。そのときの目で近ければそれは近いのじゃ。 」
「よくわかりません。」
サーリムはそう答えるしかなかった。
「そうじゃろう、そのときに、これは遠いか近いかを真剣に考えなさい。」
マリクはそう言って、注意を喚起するように人差し指を立てると続けて言った。
「ただし、この石がそなたに答を与えるのは2度だけじゃ。心して使うが良い。」
翌朝、日の出とともに、二人は旅立った。




