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第八話 預言者ディクソン 下

ケイが宿に戻ると、今まで嗅いだ事のない匂いが拡がっていた。

匂いの正体に関していやな予感はしたが、緊張の後で激しい空腹を覚えていたのでともかく夕食を済ませる事にした。

食堂に入るとこの時間だというのに昨日とはうって変わって閑散としており、5人の先客が入口のテーブルについているだけだった。

その中には先ほど会場で野次を飛ばしていた顔があった。

ケイが横を通り過ぎる時、男たちが慌てて目を反らしたので一瞬身構えかけたが、トラブルが起こる前にさっさと食事を済ませて部屋に戻るのが得策だろうと判断した。

ケイは男達からなるべく距離を取る様に一番奥の席に向かい、入り口の男達と視線を合わす事が無い様に、しかし男達の動きが常に視野の隅に入るような席についた。

女将がやって来て愛想笑いを浮かべながら言う。

「今日は日替わり定食しかありませんけど、アラブ風シチューですよ。」

「では、それをお願いします。」

ケイは女将とのやりとりに気を取られて、次に入ろうとしていた客を、入り口の男達がごく小さな仕種で追い返した事には、気付かなかった。

しばらくすると、湯気の立つ深皿とパンが運ばれて来た。

やはり匂いの元はシチューであった。

少なくとも、アラビアで食ったシチューはこんな匂いじゃなかった、と思いながらスプーンをシチューに入れる。

案の定、スープは思いつく限りのスパイスを適当に放り込んだような味であった。

工夫好きの女将なんだろうが、意余りて力足らずと言うやつだ。

こういう工夫が上手くいけば追々メニューに加わって行くのだろうが、この味ではそれは期待はできまい。

唐辛子やら胡椒やら、他にも得体の知れない刺激を舌に感じつつ、それでもパンとシチューを胃に収めて行った。

大急ぎで粗方食べ終わり、立ち上がった時異変が起こった。

ケイの視界がグニャリと歪み、足の力が一気に抜ける。

歪みながら薄れて行くケイの視界の中で、先ほどの男たちが妙にいびつな笑顔を浮かべながら近づいて来るのが見えた。

「おやおや、どうされましたかな?」

いやな含みのある声が、遠くから響いて来るように聞こえる。

ケイが男たちを振り払おうと上げた手は、力なく振られただけでそのまま両脇を抱え上げられてしまった。

「おい、女将。アマギさんは急に具合が悪くなったようだから、俺たちが部屋までお連れしよう。」

その声は、ケイにはほとんど聞き取れなかった。

意識を失うケイが最後に見たのは、重荷を下ろして安堵する女将の表情だった。


目覚めた時は、既に夜が明けていた。

激しい頭痛と全身を覆う倦怠感で身動きする気にもなれず、天井を見ながら考えていた。

どうも一服盛られた様だ。

スパイスの効かせ過ぎも、薬の味を誤魔化すためにわざとやっていたのだろう。

今後は辛い料理には気を付けよう、とケイは思った。

天井に見えるシミが昨日の朝見た物と同じなので、自分の部屋に寝かされているのは間違いないから、目的は誘拐ではないと判断した。

では、荷物を狙ったのか。

まだひどい倦怠感が続いているので起き上がりたくはないが、ともかく荷物は確認する必要がある。

上体を起こすためにベッドの中で両手を拡げた時、右手が何か冷たい物に当たった。

その冷ややかな手触りは、明らかに不吉な事態を示していた。

全身の力を振り絞って上体をおこし、恐る恐るベッドの右手を見る。

そこには、一昨日の夜に声を掛けてきた幼い娼婦が無残に服を破られて、半裸で横たわっていた。

脈を確認するまでもなく、蝋のような青白い顔を見るだけで、事切れていることは明らかだった。

仰け反るような姿勢で、むき出しになっている細く白い頸に残る両手の跡から、死因も明白だった。

遺体に向き直ると一礼してから、服の残骸を取除けた。

その紙のような白い肌には、真新しいみみず腫が幾条も走り、予想通り下半身に凌辱の跡があった。

ここまでやるのか!とケイは激しい怒りに我を忘れそうになったが、血液中を駆け巡るアドレナリンのお陰で、全身の倦怠感は一掃された。

この状況を見ればやつらの次の行動は容易に想像できるので、逃げ出す事を優先するべきだと判断した。

ベッドから降りて身支度を整えると、案の定、銃とナイフがなかった。

続いてバックパックを確認してみたが、特に無くなっている物はなかった。

他に盗られた物はないようなので、ここからどうやって出るかを考え始めた時、ドアを激しく叩く音に続いて、大声が響いた。

「保安官だ。開けろ!」

遺体も見ない内から騒ぎ出すところを見ると、保安官もグルだと考えて間違いないだろう。

「早く開けないか!」

ケイは怒鳴り声を無視してティーテーブルを横倒しにして、その足を椅子と絡ませてベッドとドアの間に押し込むと、ベッド・椅子・テーブルで丁度つっかえ棒になった。

窓際に立ち外を伺うと、ホテルの前の道路にライフルを構えて二階の窓を見上げている男たちが見えた。

窓から出れば、即座に蜂の巣であろう。

逃亡が無理なら事実をSI局に伝える努力だけでもしてみよう、そう判断して、バックパックから手帳とペンを取り出すと、状況を簡潔に記した。

手帳をバックパックにしまい、監査官の身分証明書だけを取りだして懐に入れる。

「開けないなら、ぶち破るぞ!」

そう言うが早いか、ドン!と部屋自体が震えた。

素早く部屋全体を見回すと、床の隅の破れ目に目を止めた。

繰り返し強い衝撃が加わり、ドアの蝶番が飛ぶ。

バックパックを出来るだけ細長く絞って、破れ目に押し込み始めた。

今やドアは只の板になり、テーブルと椅子のつっかえ棒が辛うじて支えているだけになっている。

隙間から中を覗こうとしている様だが、幸い今のケイの位置は死角になっている。

仮に自分が殺されても、局はバックパックが無い事に疑問を抱き、捜索するはずだ。

先にやつらに見つけられないで済むかどうかは、賭けるしかない。

悪戦苦闘の末に何とか押し込んだ後、部屋の中央に立ち床の破れ目に背を向ける。

とうとう華奢な椅子の足が乾いた音を立てて折れ、ドアとテーブルが一緒になって倒れた。

三人の男たちが押し入って来た。

当然、全員銃を構えている。

ケイはバックパックの状態を確認したい気持ちを押さえて、床の破れ目に背を向けたまま黙って両手を挙げた。

保安官は、部屋に入るや否や勝ち誇る様に宣言した。

「殺人の現行犯だ。逮捕する。」

ケイは皮肉な笑みを浮かべて尋ねた。

「まるで、彼女が死んでいるのを知ってるみたいな口振りだな。」

保安官は口元を歪めて笑いながら答えた。

「そうとも、知っているのさ。」

男たちは全く意図を隠す気はないらしい。

そうなるとケイを殺す気なのは確実だが 、その前に公の手続きを踏む積もりだろう。

連行してからこっそり殺すくらいなら、この場で抵抗された事にして射殺する方が簡単なはずだ。

あえてそうしないのは、公の手続きによってケイを合法的に殺す事ができるという自信があるからだろう。

それはつまり、この町で司法手続きに関わる人間が皆グルである、と言う事を示している。

銃を構える三人の男たちと向かい合い、窓の外にも同様の人間が待ち構えている状況で、丸腰で抵抗が可能かどうかを考えた。

ケイは、自分が銃弾より早く動けたり撃たれても「かすり傷さ」と笑って反撃できるパルプフィクション的ヒーロー体質の人間かもしれない、等という幻想を抱いた事はない。

ここで抵抗すれば、保安官たちは逮捕より射殺を選択するであろう事は容易に想像できるので、今は撃たれない事を優先して今後の事態の変化に期待する方がましであると判断した。

保安官は、銃を構えたまま命令した。

「縛り挙げろ。」

命じられた男たちは、ロープを拡げながらケイの背後に回ると、実に手慣れた様子で両腕をしっかりと縛り挙げて、ロープの端を保安官に渡した。

常に三人の内最低でも一人が銃を構えて監視しており、全く隙を伺う事ができないまま、一階に引き立てられた。


食堂入口には、既に野次馬がひしめき合って、これから始まる茶番劇を首を長くして待っていた。

保安官は野次馬をかき分けながら、ケイを引っ立てて中へ進む。

食堂は、中央にテーブルを一台、奥のカウンター前と左右の壁に椅子をそれぞれ一脚ずつ残してすっかり片付けられている。

そして奥のカウンター手前に置かれた椅子には、ベリアが黒い法服を纏ってふんぞり返っており、左側の椅子にはフォートが座り、右側の椅子は空席であった。

「さて判事殿。犯人を連行して参りましたぞ。」

そういう保安官の声には、誇らしさを隠そうとする努力は伺えなかった。

「こらこら、犯人かどうかはこれから当法廷が審理する事だ。まだ犯人と決まった訳じゃない。被告人と呼びたまえ。」

樟脳の臭いをプンプンさせるクローゼットの奥から引っ張り出したばかりと思われる法服を着込んだベリアのその声は、明らかにそう思ってはいない事を示していた。

保安官は、テーブルの手前で一旦立ち止まると、ロープの端を助手に渡して右側の椅子に座った。

「それでは、少女強姦殺人の審理を始める。」

ベリアは高らかに宣言した。

「こんな状態で、裁判をするんですか?」

ケイは、後ろに向かって顎をしゃくって見せる。

そこには保安官の助手がピストルを抜いて立っており、その銃口はケイの後頭部に押し付けられている。

「これが法に基づく正義の執行形態として妥当な状態と言い難い事は本職も認識しており、かつ残念な事だと感じている。だが、何しろ貴様の様な凶悪犯が相手では止むを得ないと言うしかないな。」

ベリアはそう答え、歯をむき出しにして下卑た笑いを浮かべた。

「被告人は、姓名及び年齢・職業を明らかにしなさい。」

「その前に、黙秘権は認められないのですか?」

ケイが問いかけると、ベリアは面倒臭そうに言った。

「被告人は質問に対して黙秘する権利がある。ただし、黙秘する事は被告人に不利に解釈される場合がある。これで文句は無いだろう。皆忙しいんだ。さあ名乗りなさい。」

「私の弁護人は、どこにいるんですか?」

「弁護人については、当法廷が責任を持って選任してある。弁護人、立ちなさい。」

その声に答えて、左側の椅子からフォートが立ち上がり、ケイの隣に立った。

「まずは、弁護人と話をしたいのですが?」

「弁護人、どうするかね?」

「えー、その・・・状況は明らかですから・・・その必要はないと考えます。」

フォートは、うつむいてぼそぼそと答えるとそのまま席に戻った。

「そういう事だ。」

判事がケイに向かって言う。

「ちょっと待って下さい。聞き取りなしで、弁護できる訳がないでしょう。」

「被告人には弁護人の判断に異を唱える権利は無い。指示に従わない場合は裁判の権利を拒否したと見なされるぞ。さあ、名乗りなさい。」

その声には隠す気の全くない苛立ちが含まれており、同時に銃口が後頭部に強く押し付けられるのを感じた。

ケイは、これ以上引き延ばす事は危険だと判断した。

「ケイ・アマギ、25歳、連邦SI局監査官。」

「よろしい。検察官、罪状陳述を。」

ケイを連行して来た保安官が、勿体ぶった調子で話し始めた。

「えー、被告人は、昨日19時すぎにホテルのダイナー、すなわち、現在臨時法廷が開催されておりますところのこの場所におきまして、女性支配人の諫止を無視して火酒を痛飲して泥酔状態に至り、女性支配人に対し聞くに耐えない猥雑な言辞を弄した後にホテルを出ました。そして、偶然に道を歩いていた被害者の少女を見いだして、銃で脅して部屋へと連れ帰り、その意思に反して性的虐待に及びました。行為が終わった時点で少女が泣いている事に気付き、犯罪事実の露呈を恐れて少女を素手で絞殺し遺体を隠匿しようとしているところを本官によって、発見・逮捕に至ったものであります。これが、脅迫に使用された凶器であります。」

そう言って、ケイのピストルとナイフをテーブルに置いた。

「弁護人、今の検察側の陳述に対して反論はあるかね?」

「全て事実であると認めます。」

フォートは立ち上がって、相変わらずやる気なさげにぼそぼそと話す。

「ちょっと待ってくれ!」

そう言った途端、後頭部に鈍い衝撃を受けてケイは呻き声を上げた。

どうやらピストルのグリップで殴られた様だ。

勿論、抗議は無視された。

「では、検察側証人。証言を。」

野次馬の中から、すらりとした長身の男が出てきた。

上から下まで見るからに金のかかっていそうな格好で、靴は天井が映りそうな程ピカピカに磨き上げられ、ご丁寧な事に首には鮮やかなブルーのネッカチーフまで巻いており、後は手にしている中折れ帽を被れば街一番の伊達男の出来上がり、という風情である。

「証人は、姓名と職業を名乗りなさい。」

「あたしは、ジョルジュ・ボナム、この街で主に紳士諸兄を対象としたリラクゼーション事業を経営しとります。また、被害者の親代わりでもあります。」

なるほど、こいつがあの娘を搾取していた女衒か、とケイは思った。

あの少女のみすぼらしい身なりと、ボナムの格好の金のかかり具合を見比べれば、あの少女や他の女たちがどれ程非道い搾取を受けているかが、一目で判る。

「あの娘は、あたしとは縁もゆかりもない娘でしたが、まだほんの小さな子どもだった頃に、貧しい両親の困窮を見かねてあたしが引き取りました。勿論、両親には生活の目処が立つ様に十分な金を与えてやりましたです。そうして、我が子同然に、大事に育てて参った訳でございます。」

嘘つけ、ケイは心中で毒づいた。

本当なのは、精々縁もゆかりもない事と、金(ほんの端金だろうが)を両親に渡した事くらいだろう。

「本当に可愛い子でございまして、街の誰からも愛されておりました。」

これは全くの嘘ではないだろうが、主に少女を『愛して』いたのは街の『紳士諸兄』だろう。

「それが、こんな事になるとは・・・」

まさか、大の大人が人前で泣き崩れる演技までするとは思わなかったケイは、呆然と見ているしかなかった。

自らの見え見えの演技に酔っているボナムを下がらせた後、判事は検察官に問いかけた。

「それで、検察側としてはこの被告人に対して、どの程度の刑が妥当と考えるのかな?」

保安官は立ち上がると、滔々とまくし立てた。

「被告人は、犯行の前日にも被害者に声を掛けて金を渡すところを目撃されており、少女性愛の常習的な性的倒錯者であることは明らかであります。従いまして、更正の余地のない危険人物であることは明白でありますから、極刑を持ってその犯罪歴に終止符を打つ事こそが、被告人自身に対しても慈悲となることでありましょう。」

そう言い切ってケイに向かい、満足げな笑みを見せて着席した。

「弁護人は、今の内容について何か言い分はあるかね?」

フォートは物憂げに立ち上がると、やる気なさげに紙を拡げてぼそぼそと読み上げた。

「えー、被告人は、我らが偉大なるジェイコブ・ディクソン大導師を陥れようという邪な意図を抱いて、そのぅ、当地を訪れました。そして、悪魔の如き狡知を絞り、ディクソン大導師の栄えある預言の恩恵があまねく世界に拡がる事を妨げるという邪悪なる所業を達成するに至ったのであります。誠に憎んでも余りある行いでありますが、被告人は、心の底まで汚れきっていなかったために己の所業の邪悪さに耐えきれず、精神の平衡を失してしまった事が、こういう形で噴出してしまったものであります。従いまして、本件は精神錯乱による偶発的な事件であり、被告人は心身喪失状態にあったため、責任能力がなかったと考えます。」

最後のセンテンスがなければ、検察側の論告にしか見えんな、とケイは内心面白がっていた。

「さて、それでは、陪審団は判事と共に別室に入って、審議を行う。」

判事はそう宣言すると立ち上がり、さっさとキッチンに入って行った。

野次馬の中から、陪審員らしき男女が、慌てて後を追った。

おいおい、お手軽にも程が有るだろう、とケイは呆れた。

僅か三分くらい低い話し声がしたかと思うと、彼等はもうぞろぞろ出てきた。

判事は着席すると、咳払いをしてから徐に宣言した。

「陪審団と慎重に協議を行った結果、被告人の犯罪は凶悪と言う他なく、また、明らかに性的倒錯癖に基づく常習的な物であると同時に、当法廷における再三に渡る反抗的態度は被告人がこの犯罪に対して、全く反省の意思を持たない事、従って更正の余地が全くない事を示すと共に、この憎むべき犯罪が錯乱による心身喪失状態ではなく、明確に邪悪な意思によって行われた事を示している、と判断する。この判断に基づき、当法廷は、被告人を絞首刑に処する。」

キッチンで行われたのが何事であったとしても、『慎重』に行われなかった事は確かであるし、恐らくは『審議』ですらなかったであろう事は容易に想像できた。

ケイは、大いなる再構築以前には、湯をかけると僅か三分で食べられるという魔法のような食べ物があり、インスタント食品と呼ばれていた、と読んだ事があるのを思い出した。

さしずめ、この魔法のような法廷はインスタント法廷という事になるんだろうなと考えていると、こめかみに青筋を立てた判事が怒鳴りつけた。

「被告人!何を笑っておるか!そういう態度を取るなら、法廷侮辱罪を適用するぞ!!」

「もう、裁判は終わりでしょう。これ以上何を裁くつもりなんですか?」

そう言った途端に判事が目配せをし、ケイの後頭部に再び衝撃が加えられた。

「何なら、今この場で、鉛弾で片付けても良いんだぞ。」

ケイは、この場で脳漿をぶちまけて死ぬのと、引っ立てられてロープで吊るされるのとどちらが楽かを考えたが、結論は出なかった。

少なくとも、逃げられそうにない事だけは確かであった。


大抵の街では、処刑台は街の入り口の広場に面して立てられる。

死体を腐って落ちるか次の処刑が行われるまで吊ったままにして、内外の見せしめにするためである。

ケイは縛られたまま、街外れまで引きずる様にして連行された。

広場に引き出されると、処刑台には既に新しいロープの輪がぶら下がっていた。

ロープは処刑台の横木に掛けられ、その先は後ろの街道へ伸びており、先端は馬の鞍に括り付けられていた。

輪を首に掛けてから馬に鞭を入れると、一気に吊り上げられて頚椎が折れるという寸法だ。

保安官とベリアは嫌らしい笑みを浮かべながら、処刑台の横の特等席に座った。

保安官助手の一人が、何処からか儀式用の虚仮脅しらしい、物々しい長剣を下げて出てきた。

男は芝居がかった仕草で剣を抜くと、ケイの背中に突き付けて、精一杯ドスを利かせて言う。

「さあ、登るんだ。」

ケイは諦めて、言われるままに階段を昇った。

もう一人の助手も、銃を腰に吊ったまま後から昇ってくる。

この二人が執行人らしい。

SI局の監査官は恨みを買うのも給料の内であり、それによって理不尽な死を迎える者も少なくないから、自然と自分の生命に関して恬淡とした姿勢が身に付いており、もう大人しく吊るされるつもりになっていた。

唯一の心残りは、あの男の手にかかってやれない事だが、この状況ではやむを得なかった。

壇上からあの見慣れた顔を探したが、見当たらない。

恐らく町中の人間が全員集合しているので、この人数の中から探し出すのは、無理なようであった。

保安官助手は剣を左手に持ち替えると、ロープの輪を右手で掴みケイの首に掛けながら耳許で囁いた。

「お前さんは勃たねえのか?あの娘は本当に具合が良かったんだぜ。ベリアさんと二人で痛め付けながらやったら、ぞくぞくする程良い声で哭いてたぜ。特にやりながら首を締めた時の具合の良さは、堪えられなかったぞ。」

それを聞いた瞬間、ケイは全身の血が逆流する気がした。

後ろ手に縛られたまま、怒りに任せて男に体当たりする。

虚を突かれた男が剣を取り落としてよろめき、ロープが首から外れた。

もう一人の助手が慌てて銃を抜こうとしたとき、群衆の中から悲鳴が上がった。

「火事だぁ!見ろ、煙が!」

一斉に振り向いた先では、家が盛大に煙を上げていた。

群衆は火元に向かって走り出そうとして、互いにぶつかり押し退けあって、広場は大混乱に陥った。

元々が処刑に対する期待で潜在的興奮状態であった上に、緊急事態でそれぞれが自分の思う方向に進もうともがき始めたために至るところで衝突が起き、群衆の密度は感覚的には一気に倍増した。

そのためパニックは一気に広場全体に拡散した。

そして、全員が広場の出口に向かって進もうとした事で、出口近くの者達が強く圧縮されたために、命の危険を感じて全力で押し返す。

前進を阻まれた者達は、その事を消火活動に対する妨害と受け取って、怒りに任せて更に押し込む。

その怒りは瞬く間に広場全体に伝わり、随所で殴り合いが発生した。

最早、広場全体が興奮と暴力の坩堝と化していた。

執行人たちは状況を理解する事が出来ず、そのまま立ち尽くしていた。

その時、腰の銃に手を掛けたまま固まっていた執行人が、大きな呻き声を上げた。

ケイともう一人の執行人が振り向くと、男は愕然とした表情で、自分の腹から突き出した、血が滴る鈍く光る剣の切っ先を凝視していた。

男が背中を蹴飛ばされ、剣が引き抜かれて前のめりに倒れ込むと、その後ろには懐かしいあの小男が長剣を手にして立っていた。

小男は、表情を変えずもう一人の男の腹に剣を突き立てる。

残る一人の執行人は、何が起こったのか全く理解できないままに、立ち竦んでいた。

相変わらず無表情のまま小男は、ケイを縛り上げているロープを剣で切り落とした。

ケイの手が自由になると、その掌に剣を押し付けて低い声で短く言った。

「ついて来い。」

そうして男は懐から自分のナイフを抜くと、広場に背を向けて壇上から飛び降りた。

ケイが慌てて後に続く。

ベリアが我に帰って立ちはだかり銃を抜こうとしたが、それよりも男が逆手に構えたナイフでその手首を切り裂く方が速かった。

胸が悪くなるような悲鳴を上げて、ベリアは噴水の様に鮮血を吹き上げる右手首を左手で押さえながら踞る。

二人がその横を駆け抜けると、保安官が健気にもなけなしの勇気を振り絞って、ケイに掴み掛かろうとした。

ケイが躊躇う事なく剣を振り上げると、保安官は跳ぶ様に後退りながら腰を抜かしてそのまま尻餅を付いた。

これで保安官の勇気は品切れになった様だ。

男は処刑用の馬に走り寄ると、流れる様な全く無駄の無い動作で身を屈めて横に置いてある鞭を拾い上げたあと伸び上がり、鞍に固定されていたロープを切り捨てつつふわりと浮き上がった。

次の瞬間にはもう鞍の上で手綱を握っている。

「早く乗れ」

それだけを言って手を差し出す。

ケイがその手を掴むと、この小さな体の何処にあるのかと驚く程の力で、そのまま一気に引っ張り上げられた。

ケイが鞍に座って自分の胴にしっかりと手を廻したのを確かめると、男は馬に鞭を入れた。

混乱する群衆を背に、二人は一目散に走り出した。


馬はそのまま飛ぶ様に街道を疾走し、ケイは振り落とされない様にしがみつくだけで精一杯で周りの様子を窺う余裕は無かった。

やがて馬が歩を緩め、ようやくケイに辺りを窺う余裕が出てきた。

その時馬は唐突に右へ逸れ、脇道に入って行った。

その先は登り坂になっており、丘の頂上へ向かう道の様だ。

ケイは男の意図を訝しんだが、敢えて理由を訊ねる事はしなかった。

道を登りきると、そこは放牧場らしく見晴らしの良い草原になっていた。

地面は街に向かって緩やかに傾斜しており、街並みが遠くに望まれる。

煙は街の至るところから上がり大きく広がっており、消火活動が十分な効果を上げていない事が見て取れる。

いつの間にあれほどの広範囲に火を着けて廻ったものかと、ケイは男の端倪すべからざる能力に改めて感心した。

今頃、あの下では全住民が大わらわで走り回っているのだろう。

男は無言のまま馬を降りた。

ケイも続いて鞍から降りると、男に向き直った。

「ありがとう、本当に助かった。」

男は無表情のまま、無言でナイフを構えた。

それを見て、ケイは悟った。

「時が満ちたのか。」

男は無表情に頷く。

脇道に入った時点で予感はしていたので、驚きはしなかった。

回避不能な死を目前にしている点では先程と変わりが無いが、今は諦めではなく寧ろ安堵を覚えていた。

「それじゃあ、帰ったらメディアにも感謝していると伝えてくれ。」

そう告げると、男の表情に変化が現れた。

「貴様如きが、その御名を軽々しく口にするな!」

「これは失礼、二世猊下だったな。ともかく、感謝の意は伝えておいてくれよ。」

信じられない事だが、男の表情は何故か泣き出しそうに見えた。

「これは、三世猊下の思し召しだ。」

男は吐き捨てる様に言う。

予想外の返事に、ケイは問い返す。

「おい、どういう事だ!メディアはどうなった!」

ケイの叫びに、男は苦悩に満ちた表情で答える。

「二世猊下はお隠れになられた。詳しい事は知らんし知りたいとも思わん!」

そう言う男の声は、それが本心ではない事を示していた。

男は、自分が神々にも疑される上つ方々の争いに翻弄される無力な存在でしかない事を認識しており、その中で自分自身の気持ちを扱いかねている様だった。

その男の様子を見ている内に、ケイは気が変わった。

この男には命を助けられており勿論恩義も感じているが、メディアが居なくなったとなると話は別だ。

メディアが望むなら、罪滅ぼしの意味も込めて命を差し出しても良いが、この男の手柄のために死んでやる程の義理は無い。

実はその感情の半分は、今更ながら理不尽その物の茶番で吊るされそうになった事を思い返して、その理不尽さを唯々諾々と受け入れて従順に死に就こうとしていた自分の不甲斐なさに対する怒りでもあった。

ケイは、今度こそ出来る限り運命に抗って見せる事にした。

勿論、怒りに任せて闇雲に斬りかかってなんとかなる相手ではないのは明らかなので、自身に落ち着けと言い聞かせて、改めて自分の置かれている状況を見直す。

木がまばらに生えているだけの野原で一対一で対峙しており、しかも逃げられればこちらの勝ちである。

圧倒的に有利な筈だが、全く勝てる気がしなかった。

振り向いて逃げようにも明らかに男の方が足が速いし、そもそも背中を見せた途端にナイフが突き立てられるだろう。

では、男の横をすり抜けて彼が振り返る一瞬の遅れの間に距離を稼ぐのはどうか?

そのためには、先程ベリア相手に見せたあの素早いナイフ捌きをかわす必要があるが、そんな芸当はとても無理だ。

どう見ても、この男を何とかしない限り安全にこの場を立ち去る事は出来そうに無い。

男は、無言のままナイフを掌の中でくるりと回し、順手に持ち変えて間合いを詰めてくる。

逆手に持つより動作は遅くなるが、その分リーチが伸びる。

ケイは剣の長さの分だけリーチが長く取れるので、それに対処するためだ。

互いの実力差を考えれば明らかにそんな配慮は不要なのだが、敢えてセオリーに従おうとする所を見ると、ケイを確実に仕留めるつもりなのだろう。

次の瞬間、男が一気に踏み込んで来た。

激しく金属がぶつかり合う音が響く。

男が、ナイフの峰で剣先を払ったのだ。

軽く振った様に見えたが、剣を握る右手が痺れ剣先は大きく右に逸れた。

凄まじい膂力である。

ケイは慌てて後退りながら、剣の柄を両手で握りしめ真正面に構えた。

本来なら片手で扱う方が動作の自由度が大きく、相手の動きに対応しやすいのだが、それでは切っ先を払われた時に剣が大きく動揺して正面ががら空きになる。

ケイが有利な点は剣の長さのみなので、それを失わない事を優先したのだ。

再び衝撃が起こり剣先を払った勢いに乗って男が踏み込んで来たが、両手で握りしめていた分だけ今度は剣の動揺は小さかった。

しかし、男はその小さな動揺を掻い潜り、ナイフを鋭く突きだす。

ケイは咄嗟に後ろに飛んで、辛うじてナイフの切っ先を避けた。

剣を両手で握りしめていてこれなら、片手では大きく払われて男は殆んど直線的に踏み込めるので、とても避ける暇はなかったろう。

退がるだけでは状況は悪化する一方なので、何とか反撃の糸口を掴みたかった。

ナイフを持たない左手側に回り込めば、隙を狙えるかも知れないと考えた。

しかし、ナイフで闘う時の基本は相手を利き手の逆側に位置取らせない事であることが、男にわからない筈がなかった。

右足を踏み出した途端に一気に間合いを詰められ、右頬目掛けてナイフが伸びてくる。

仰け反る様に切っ先をかわしながら、左後方に退がるしかなかった。

その後、何度も剣先を払われては飛びずさって、辛うじて切っ先をかわす動作を繰り返した。

元々この男と、正面から命のやり取りをして勝てるとは全く思っていない。

互いに激しく動きながら避け続ければ、その内に男が躓くか何かでバランスを崩し、逃げ出すチャンスが訪れるかも知れない、という万に一つの幸運が廻って来る事を期待していたのだ。

しかし、後ろも見ずに飛び退き続けるしかない現状では、どう見ても先に躓くのはケイの方であった。

もう何度目か判らなくなった跳躍で突きを避けた瞬間に、右の踵が掬われる様な感覚があり、ケイの体は仰向けに傾いた。

予想外の背丈の叢があり、跳躍の際にブーツの踵を取られたらしい。

ここで転倒すれば、もうおしまいである。

慌てて左足を大きく後ろへ踏み出し、転倒を避けつつ小走りに下がる。

辛うじて転倒は免れたが、跳躍する程のスピードで後退する事は出来なかった。

すかさず男は突きを繰り出すが、その切っ先は僅かにケイの顎に届かなかった。

しかしその突きは、普段のケイなら判らなかったろうが、今までの物と比べて僅かに遅かった。

血中を駆け巡るアドレナリンが、ケイの判断力を鋭く研ぎ澄ましていたのだ。

なるほど鼠をいたぶる猫の様に俺を散々あしらってから仕留める気かと思ったが、同時にそれを認識する事で必然的に訪れると予想していた絶望が襲って来ない事に、自分自身が驚いた。

ケイの中の冷静なもう一つの自我は、この一連の理不尽な事態に対する怒りがその絶望感を押さえ込む程に大きかったのか、と他人事の様に分析していた。

ケイはいつの間にか肩で息をしていたが、それは極度の緊張状態でダッシュと静止を繰り返す事による精神的・肉体的な疲労によるだった。

それに対して、ケイが横方向に逃げるのを牽制するために素早くジグザグに動いているので遥かに運動量が多い筈の男は、特に息が上がる様子も無く、先程の感情も何処かへ消えて全く機械のような冷静さで攻撃を繰り出してくる。

疲労で足許も覚束なくなったケイは、再び突き出されたナイフに反応して、最早何も考える余裕も無いままに反射的に後ろへ跳躍したが、その時背中が激しく何かにぶつかった。

衝撃で枝が動揺して、葉が擦れ合う音がする。

立木の下に追い詰められたようだ。

どうやら今までの攻撃はケイをいたぶるのが目的ではなく、ここに追い詰める事で確実に仕留めようという意図に基づく物だった様である。

幹をかわして退がるには横にステップする必要があるが、その瞬間に間合いを詰められたら跳躍が間に合わないだろう。

退がれなければ前に出るしかない、とケイは腹を括った。

男は、ケイが進退窮まった事を見定めてゆっくりと間合いを取直すと、ナイフを構えて滑る様に突進してきた。

ケイは一旦剣を軽く引くと、男に向かって力一杯突き出した。

鈍い衝撃が両手に伝わり、続いて男が左肩から体当たりしてきたが、その勢いは驚くほど弱かった。

胸か腹に焼け付く様な痛みが襲ってくるかと身構えたが、何も感じない。

その時、足許でナイフが落ちる軽い音が響いた。

ケイが胸に凭れかかる男の背中を見下ろすと、そこには剣の切っ先が突き出ていた。

何が起こったのか全く理解できないままにケイが茫然としていると、男が絞り出す様な声で言った。

「手間を掛けさせてすまなかったな。護教戦士は御教みおしえの敵の手に掛からぬ限り天国へは行けぬのだ。」

「何だと!お前、わざと・・・」

男は、意外なほど安らかな表情で、囁く様に話し続ける。

「三世猊下は何としても・・・貴様を生かしては置けぬとの仰せだが、二世猊下は、それをお望みでは・・・なかった。三世猊下のご下命があった以上貴様を・・・滅ぼさぬ限り儂に安住の地は無いが、それでは二世猊下の・・・お心を踏みにじる事になる。」

その言葉の意味が腑に落ちた時、ケイは思わず叫んでいた。

「馬鹿な!何でわざわざ恋敵のために命を棄てる?」

その問い掛けに男の顔がカッと紅潮し、か細いながらも声を荒げる。

「恋だと!畏れ多くも二世猊下に対してそのような不埒な思いなぞ・・・」

そう言いかけて、ふと表情を弛めた。

「貴様の言う通りかも・・・知れぬな。だがな、儂は貴様より先に猊下の御許に参るのだ・・・貴様が来る頃には・・・猊下のお側に貴様の居場所は無いと知れ!」

絞り出す様に叫ぶその声は、激情というよりはもっと陽性の感情を含んでいた。

「もう会う事はないから安心しろ。俺の行く先は地獄だ。とにかく、メディアには感謝していると伝えてくれ。」

男が心から嬉しそうに笑ったのを見て、こんな表情もできるのかとケイは内心驚いた。

男は苦しそうな声で言った。

「手間ついでにもう一つ頼む。この剣を抜いてくれ。」

ケイは剣を引っ張ったが、筋肉が巻き付いて動かない。

「済まない。」

そう言いながら男の腹を足蹴にして力一杯引っ張ると、胸が悪くなるような音がして剣が抜けた。

男は仰向けにどっと倒れると、ケイの顔を見上げて囁く様な声で言った。

「護教剣はあるか?」

ケイは膝をつくと、足元のナイフを拾い上げて男に握らせようとした。

男は力なく手を振った。

「最早・・・儂には無用の物だ。剣を抜いてくれた・・・礼に取っておけ・・・いつか役に立つ事もあろう。この後も必ず次の・・・護教戦士が送られて来るだろう・・・油断するなよ。」

そう言うと、男は満足げな表情で目を閉じた。


ケイは綿の様に疲れ切っており、出来れば自分も地面に横たわりたかった。

しかし、街を見下ろすと煙はかなり薄くなっており、消火が進んでいる事が伺える。

消火が一段落すれば、山狩りが始まるのは間違いない。

何とかして、捕まる前に隣の街まで逃げなくてはならない。

見回すと、先程の馬は所在無げに草を食んでいる。

残りの力を振り絞って、その鞍によじ登った。

ケイの長い1日は、まだ当分終わりそうもなかった。

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