女神の人形
とある時代の、とある場所
貴族のお屋敷がありました。
そのお屋敷には、父親、母親、そしてその息子と、娘、小さな息子の5人の家族が住んでいました。
父親も母親も、子供達を心から愛し慈しみ、子供達も両親を尊敬し愛している、とても幸せな家族でした。
中でも娘は、濃紺の髪に銀の瞳、夜の月を思わせる色を持ち、月の女神のようだと、大変に可愛がられていました。
両親は娘が赤ん坊の頃、娘と同じ色の人形を作らせて、娘に贈りました。
人形は、少女と同じ夜空を思わせる濃紺の髪に、浮かぶ月と同じ銀の石を使った瞳。
瞳の銀の石は、月の女神の石と呼ばれ、月の女神の加護があるという、とても貴重な石でした。
娘は、自分と同じ色を持つこの人形をとても気に入り、大切にしてきました。
人形も、いつも自分に話しかけてくれる小さな主人を愛し、見守ってきました。
月の女神は、自分の力を分け与えた人形の瞳を通して、娘を見ていました。
赤ん坊であった娘が、人形と遊ぶ様。
人形遊びをしなくなってからも、小さな愚痴、嬉しかったこと、毎日の出来事を友達に話すように、くるくる変わる表情で人形に報告する娘。
それを見ている内に、女神は、人形と娘を、愛おしく思うようになっていきました。
女神と人形は、人には聞こえない声で、こっそりと話します。
人形の瞳の力で、女神と人形は話をする事ができるのです。
今日のあの子は、楽しい事があったので、笑顔が輝くようだ。
今日は叱られてしょんぼりしていた。
今日は、可愛らしい頬がバラ色に上気している。
今日は…今日は……
人形と女神は、いつも娘を見守っていました。
人形は、勿論、表情を変えることも、指一本動かすことも自分の意志ではできません。
それでも娘が嬉しい時は共に喜び、悲しい時には心配し、一緒に怒り、笑います。
それだけで、人形はとても幸せに感じていました。
その日は、娘の誕生日祝いでした。
いつも仕事で忙しい父親も早くに帰り、みんなで食卓を囲みます。
娘は人形にも祝ってもらいたくて、食堂にある棚の上に人形を乗せました。
団欒がよく見える位置です。
楽しく、楽しく晩餐は続きました。
誰もが娘の成長を祝い、慈しみ、娘は喜び感謝しました。
自分が生まれて来た事が、なんて幸せな事だろうと、月の女神に感謝を捧げました。
人形と共に晩餐を見ていた女神に、その思いは届きます。
女神はとても嬉しく思い、ますます娘が愛おしく思えました。
晩餐も終わりに近づき、既に娘の弟は船を漕いでいます。
最後にみんなから、おめでとうのキスが送られてお開きになる、その時……
突然の乱入者によって、その幸せな、幸せな団欒は壊されてしまったのです。
突然入って来たのは、薄汚れた防具に身を包んだ男達でした。
兵士の鎧でもなく、形も揃っておらず、唯一共通するのは、肩に刻まれた特徴的な紋だけです。
父親は何者か誰何しましたが、答えはありません。
この家を警護している兵士達がいるはずですが、駆けつけてくる様子もありません。
よく見れば、男達の防具を汚しているものは、赤黒い血でした。
警備の者たちのものでしょう。
それでは、ここに助けに来る者はすでに……
男達の内の1人が、下卑た笑いを浮かべて家族に近寄って来ます。
父親は、家族を自分の背後に庇いながら、身構えます。
団欒の最中です。武器になるようなものなど、せいぜいが先程まで使っていたナイフとフォークぐらいなものです。
あっという間に男達に取り押さえられ、地面に押さえ付けられてしまいます。
娘の兄は、父を助けようと、家族を守ろうと、果敢にも男達に飛びかかっていきます。
しかし、やはり父と同じようにすぐに取り押さえられてしまいます。
父と兄は男達に殴られ、蹴られ、斬りつけられ、血に染まっていきました。
そしてついに、男達の手は、叫び声を上げる娘へと伸ばされました。
髪を掴まれ、地面に押し付けられ、衣服に手がかけられます。
男達の荒い息が、娘の首元にかかります。
――助けて!この汚らわしい男達の手から、私を助けて下さい!
娘は、月の女神に祈ります。
――あの子を助けて!私はどうなっても良い、あの子を助けて下さい!
指一本動かすことも出来ず、ただ見ていることしか出来ない人形も、月の女神に祈ります。
月の女神は、娘も人形も愛していたので、二人の願いを叶えたいと思いました。
しかし、月の女神には、男達を退ける力はありません。
太陽神であれば、男達を焼き尽くすことも出来たでしょう。
風神であれば、風の刃で斬りつけることも出来たでしょう。
しかし、月の女神は、ただ優しい光で夜を照らし、人々を見守る事しか出来ません。
――どうか!どうか!
二人の強い祈りに、月の女神は自分の持てる全ての力を使って、二人の願いを叶えようとします。
そして、願いは叶えられました。
人形の魂は、娘の中へ。
娘の魂は、人形の中へと入れ替わったのです。
娘の体は、男達に蹂躙され、殺されてしまいます。
人形は、こんな酷いことを娘がされることなく、自分が替われた事に安心し、女神に感謝して逝きました。
娘は、人形の体で、動くことも出来ずに、全てを見ていました。
幼い弟が、少しずつ削ぎ落とされていく様を。
兄の体中の骨が砕かれていくのを。
母と自分の体が、男達の手にかかり、縊られていくのを。
そして最後に、父親の首が落ちるのを……
――どうして、こんな酷いものを見なければいけないの!
とある時代の、とある場所
朽ち果てたお屋敷があります
月の輝く夜には、月の女神への呪詛が響き渡るのです