醜い心の僕と恋心
ーーーああ、僕は君が好きだったのか。
二度と笑うことのない、棺に入った冷たい君の姿を見て、そんなことを思う。
笑った顔が眩しかった君。怒った顔は見たことはなかったけれど、僕みたいな人間からしてみると、そんな顔も眩しく見えたんだろうと思う。
梅雨が明け、期末テストも終わり夏休みも後半に入ったというのに雨が降っている外を眺める。
そして思い出すんだ、初めて君と出会って覚えたあの奇妙な感覚を。
♢
君と出会ったのは高校二年の春。新しい教室に新しいクラスメイト。その新しいクラスメイトの中に君はいた。
けれどまずは、僕のことを話そう。僕がどんな人間でどれだけ醜い人間なのかを。
僕には中学二年生の時と三年生の時、彼女がいた。
当然ながら二年生と三年生では別の人だ。さすがに浮気だの二股だのは気が進まないし、なによりそんなことをして目立つのは嫌だった。
中学二年生の冬だったか、僕は初めての彼女に告白をした。なんてことはない、普通の告白だ。けれど好きだったからではない。僕は知りたかったのだ。恋愛感情、というものを。
結果は先述した通りだった。「初めての彼女」というくらいだから僕にもそれなりの…いや、大きな緊張感はあった。なんせ右も左もわからないのに、感情すら理解できていないというのに、先に結果を出そうとしてしまったのだから。
「初めての彼女」とは色々あった。僕が不安定になることもあったし、彼女が不安定になることもあった。
二人で遊びに行ったりもした。
けれど結局のところ、つまるところ僕の中にあったのは好奇心だった。
『好奇心』
人によっては身を滅ぼすであろうこの言葉。これがあるから人間は人間なのだと思ったりもする。
そして僕の場合はまさにそれだった。
好奇心は身を滅ぼすのだ。ただ、僕の場合は身ではなく精神だったが。
「初めての彼女」と僕は他人から見たら良好な関係を築いていたのだと思う。けれど、僕が彼女に抱いた最初の感情、つまり告白するに至った原点は恋などではない。ここで「初めての彼女」と僕との間にズレが生じるのだ。
僕は恋が理解できない。だから知りたいと思い、選んだ。
簡単に付き合えそうで、さして感情を移入することもなく、容姿も普通の女の子を。
「初めての彼女」は実によく僕の疑問に答えてくれていたように思う。今となっては遠い…いや、三年ほど前の過去の話だ。
「好きだ。」この一言で彼女は喜んだ。だから僕は簡単にこの言葉を与えた。何回も、何回も。
そして付き合って二週間で、僕と「初めての彼女」はキスをした。
唇と唇を合わせる。接吻。僕に忌避感なんてものはなく、彼女にもなかった。当然だ、そんな風になるように僕は彼女にとって喜ばしい言葉を、態度を取り続けていたのだから。
付き合い始めて四ヶ月ほどだったか、僕はだんだんと面倒に感じるようになった。
『どうしてメールしてくれないの?』
『電話しようよ』
『会いたい』
これらは僕にとってどうも苦痛になりつつあった。始めは微笑ましいといった様子で返すことができていたが、僕は優しい人間ではなかったのだ。
だんだんと対応がおざなりになっていく。
なぜなら僕の好奇心はこの四ヶ月程でほとんど満たされていた。
僕は思春期に考えがちなことのほとんどを彼女にし、彼女はそれを喜び受け入れたのだ。
キスをするたびに意味がわからなくなる。この行為になんの意味があるのだろうか。どうしてこれで愛情が表現できるのだろうか。
彼女の発展途上の胸を触り、喘ぐ声を聞く。これになんの意味があるのだろうか。
彼女の秘所を愛撫する。再び彼女の嬌声を聞く。
彼女と遊びに出かけ、お互いに笑いあう。
彼女にプレゼントを渡す。
これらにどれだけの意味があるのだろう。
「初めての彼女」との四ヶ月はその時までの僕にとって、未知との遭遇ばかりだった。
僕は男だから、女の子についてはほとんど何も知らなかった。
けれどもう十分だった。簡単に言ってしまえば、彼女はもう必要なかったのだ。邪魔になっていた。障害の一つでしかなかった。
そして二ヶ月後、僕は彼女に別れを切り出したのだ。
彼女は渋ったが、僕の意思は変わらなかった。
それどころか、今までにないほどの言葉の刃を彼女に突き立てた。
これが僕の本性だとばかりに。
「初めての彼女」との関係が終わったのは夏だった。夏休みに入っていたかもしれない、そうでなかったかもしれない。だが、夏だった。例年通りの暑く、熱く、僕にとってはつらい夏だった。彼女との六ヶ月はそこで終わりを告げたのだ。
そして中学三年生になっていた僕は、当然のごとくすでに部活を引退していた。周りは受験ムードの中、僕はいつも通りの日常を送っていた。読書をし、ゲームをし、学校へ行けば友達と馬鹿騒ぎ。先生に怒られたり怒られなかったり。授業を受けたり寝ていたり。そんな日々だ。
そんな日常を過ごしていた僕の次の転機は十月だった。
新しい彼女ができたのだ。ここでは、「猫目の彼女」としておこう。
「猫目の彼女」とは小さい頃から学校が同じだった。同じクラスになったりそうでなかったりしたが、話したことはほとんどなかった。
けれどたまたま通っていた塾が同じで、たまに一緒に帰ったりしていた。
それは僕が「猫目の彼女」を狙っていた、好いていただなんていう理由ではなかった。
もともと僕の性格で、僕は一人が好きだった。だから一人で塾へ行き、誰と話すこともなく授業を受け、一人で帰っていた。
「猫目の彼女」も多分一人で夜遅くに帰っていたのだ。僕と同じように。
けれど、たまたま、偶然にもその事実を母が知ってしまった。
母は僕に、
「女の子を夜に一人で返すなんて男じゃない。送って来なさい。」
そう言ったのだった。
僕は意味がわからなかった。一人で帰りたければそうすればいいじゃないか、そう思っていた。
だから当然僕は母の言葉には従うことなく、変わらず一人で帰っていたのだ。母に聞かれても嘘の言葉を返しつつ。
けれどそんな日々もすぐに終わりを迎えたのだ。
運が悪いとしか言いようがない。
ある日の帰り道、確か九月でまだ寒くはなかった。僕は塾で調子が良くて勉強にのめりこんでしまい、何時もよりさらに帰るのが遅くなってしまった。思えばこれが無ければ「猫目の彼女」とはいわゆる恋人の関係にはならなかったのだと思う。
僕はイヤホンを耳に着け、夜の道を歩いていた。
少し前、だいたい二十メートルほど先に、彼女の後ろ姿が見えた。
僕は興味もなく、ただイヤホンから流れる歌に耳を傾けていた。
が、耳に騒音が入ってきた。それは決してイヤホンの品質の問題でも、曲の音量の問題でもなく、外界にいる人の問題だった。
不快に感じ、イヤホンを外して仕舞い、前を見ると、彼女が怪しげな男に詰め寄られていた。
当たり前だが、僕は関係ないとばかりに道を曲がろうと考えていた。
けれど不幸なことに、僕にとっては不運なばかりに、そして彼女にとっては幸運なことに、僕と彼女は目が合ってしまった。
当然伝わってくる感情は、恐怖だった。加えて、助けてほしいとばかりに涙を流す。
なまじ彼女は客観的に見て可愛い部類に入っていたから、僕は『ここは漫画の世界か何かなのだろうか』そう思った。
そんな彼女の様子を見た謎の男。今まで忘れ去られていたこの男は気分を良くし、さらに彼女に詰め寄っていた。
どこかの悪役のように、手をいやらしく蠢かせながら。
ここまで来てしまったら流石に僕も見逃し、逃げるわけにはいかないと感じ、声をかけてしまう。
「そういうのって、犯罪って言うんじゃないんですか?」
僕の声に驚いた男はこちらを見て、短く、押し殺したかのような悲鳴をあげると一目散に去っていった。
僕としては、殴り合っても良かったのだけれど。それは僕が強いからという自慢ではなく、ポケットの中にカッターナイフが入っていたからだ。これは僕がおかしい人間だから、というのではなく、ただ単に放課後、木を削っていたのをそのまま持ってきてしまっていただけだ。
僕には自傷する癖があるわけではない。
まあ、そんなところで、僕は彼女を見やると、彼女は安心した様子で地面に座り込んでしまっていた。
足腰が立たなくなる、というやつだ。
「【猫目】さん、大丈夫?」
放っておくのも気分が悪いので、とりあえず声をかけておく。
彼女は僕を見上げ、少し青ざめた顔で礼を言う。
「ありがとう、助けてくれて」
僕に助けただなんて尊大な気持ちはないけれど、むしろ無視するつもりでそんな言葉をかけられる資格はないけれど、そんな気持ちを隠す。
「たまたまだよ。それに僕も怖かった。歩けそう?送ろうか?」
僕の言葉に彼女は立とうとするが上手く足に力が入らないらしい。
バッグを落としているあたり、もしかしたら手にも力が入らないのかもしれない。
そんな彼女は黙って首を振る。
「そっか」
僕は一言口にして彼女のバッグを拾い彼女に背を向ける。
「乗りなよ」
この時の僕には断じていかがわしい気持ちは無かったと断言できる。
僕にだって他人に対する優しさくらいはあるのだ。例えそれが他人から見たらわかりにくいものだったとしても。
「え、でも…」
「早く乗らないと僕は帰る。こんな日に読み返したい本があるんだ」
僕が帰ると言った言葉に少なからず驚いたのか、おずおずといった様子で僕の背中に暖かな体温が触れる。
先ほどまで襲われかけていたからなのか、手は少し震えて冷たかったが。
僕は黙って彼女を背負い歩き出す。幸いなことに彼女の家の場所を僕は知っていた。決して近くはないが、遠くもないという微妙な距離だ。普通なら十分も歩けば着くだろう。
彼女の暖かな体温を感じながら、そしてこんな経験をしたことのない僕は少しの緊張を抱きながら、彼女と夜道を歩いた。
何かを話すこともなく、ただ歩いていた。もともと僕は自分から何か話題を振る方ではないし、彼女は先ほどのことで上手く話すこともできなかったからだと思う。
けれど、僕の常識的な部分が、先ほどの出来事を思い出し言わずにはいられなかった。
「さっきのことだけど、」
「うん」
彼女は消え入りそうな声で答える。
まだ声に震えが残っている。当たり前だ、見ず知らずの大人の男が自分を襲おうとすり寄ってきていたのだから。
「親…とか、警察とかに言った方がいいのかな。よく学校で言う変質者が出ました、ってやつ」
「…うん」
「でも、僕としては言わなくてもいいと思うんだよね」
「…ん」
彼女はただ相づちを打つだけだったが、僕の中で既に答えは出ていた。
先ほどの出来事を他人に、ましてや親になんて言うつもりは欠片もない。
もしそんなことをしたら僕にだって余計な噂がたつだろうし、彼女はもっと容赦のない奇異の目にさらされるはずだ。それは彼女を傷つけるものだろう。別に彼女を守ろうとかそういうつもりはさらさらないが、せっかく助けたというのにまた勝手に傷つかれては気分が良くない。
そこまで考えていると、彼女が急に僕の背中に顔を埋めてくる。
僕は驚いた。女の子がこんなに軽いものだったのかと思った先ほどよりも大きな衝撃を受けた。
彼女は実は中学三年の今、同じクラスで過ごしているが、こんなことをするような子ではないと僕は感じていたから。
硬くなった僕に、彼女はかすかに笑う。
僕は笑わない。彼女がそうした理由が容易に想像できたから。
「【猫目】さん、そういうのはもっとちゃんと取っておくべきだと思うよ。例えば彼氏とかね」
冗談のように僕は抗議をする。もちろん、嫌なわけではないけれど。
「そうだね、私もそう思う。でも、今はちょっと無理かな」
そう言って肩においていた手を僕の前に回してくる。それはつまり、身体がさらに密着するというわけで、さらに距離が縮むということだ。
彼女の柔らかな部分に動揺を覚える。
『こんな生ぬるいのが現実で良いのか』
ふと、同じようなことがよぎる。
現実はもっと厳しく、凄惨で、難しくあるべきだ。僕たちは物語の主人公でも、ヒロインでもないのだから。
「そんなことをしていると、軽い女だと思われるよ、【猫目】さん」
「誰にでもこんなことはしないし、君なら大丈夫でしょ?」
僕はその言葉に納得してしまった。
彼女に恋愛感情はない。というか、恋愛感情なんて未だにわかっていない。
そして軽い女、物理的に軽い彼女は世間一般で言われるような軽い女などではないことも僕は理解していた。むしろもっと常識を持っている。
「違いない」
そう言って笑う僕の言葉に彼女はどんな顔をしていたのだろう。黙って今度は肩らへんに顔を押し付ける。まるで猫のように。少しかかる息がくすぐったい。
こんな現実的でない経験もたまには悪くないと思っていたら、彼女の家が見えてくる。
腕時計を確認すると午後十時過ぎ。
中学生が過ごすには少し遅い時間だろう。いつもであったら僕は九時過ぎには帰っているから、母は心配しているだろう。いや、あの母は心配よりも先にご飯を食べるかどうかを気にしているだろうか。
しかし問題は僕ではなく、彼女だった。多少放任気味な僕の家とは違うだろう。性別の違いだってある。
男の僕よりも女の彼女の方が心配されるのは当然だ。それはあの出来事でよくわかった。
「【猫目】さん、着いたよ」
「……」
「【猫目】さん?」
返事もない彼女を肩越しに見ると、彼女は眠っていた。
他人の背中でよく寝れるな、と思ったが口には出さない。
疲れた時は、特に精神的に疲労を感じているときは眠った方がいいというのは僕にもよくわかる。
しかしあれだ、先ほどから耳にかかる息に背中が震える。
「【猫目】さん、起きて、着いた」
多少揺らしてみるが反応がない。
相当なストレスだったのだろうか。
それとも僕がいるから安心しているのだろうか。…いや、それはない。それはただの驕りだ。調子に乗っている。
仕方なく、【猫目】さんの家のインターフォンを押す。ああ、親が出たらなんて説明したらいいのか、はたから見たら実は僕が犯罪者なのではないだろうか。
『どちらさまですか?』
女性の声だ。【猫目】さんに似ている。母だろうか。
「【救世主(笑)】です。申し訳ありませんが、御宅のお嬢さんを引き取っていただいてもよろしいでしょうか?」
『…少々お待ちください』
プツリと切れた音を聞いて緊張する。もうすぐ出てくるのだ。
どう対応したら良いのだろう。というか、彼女はなぜ起きないんだろうか。
「【同級生】くん、こんばんは」
ガチャ、と開いたドアからはいつかの授業参観で見た時より少しばかりしわの増えた女性だった。女性に対しては失礼だとは思うがこればかりは仕方のないことだ。
「【猫目さんのお母さん】、こんばんは。ええっと…受け取ってもらって良いですか?」
苦笑しながら【猫目】さんを指す。
お母さんは少し目を開いて驚いてこちらへ駆けてくる。自分の娘が見ず知らず…とまではいかないが、まあ、男に背負われていたら色々思うこともあるのだろう。
「えっと、どうして…?」
【猫目】さんを引き渡すと、お母さんは僕に聞いてくる。やはり気になるところなのだろう。だが、僕は先ほどの出来事を他人に吹聴する気はないのだ。
「【猫目】さんが起きたら聞いてください。それと、どうかしっかりと話を聞いてあげてください。決して怒ったりはしないでください。彼女の話を聞いたら怒るなんてことはしないとは思いますけど」
「それはどういう…?」
眉を寄せ、怪訝な表情で僕を見る。
娘に何かがあったことはわかったが、詳細は言えないと言う僕を怪しむのは無理もないことだ。
「詳しくは【猫目】さんに聞いてください。それじゃ、僕はこれで失礼します」
「【同級生】くん、えっと、よくわからないけれど、ありがとう」
「……いえ、それでは」
僕は二人に軽く頭を下げ、バッグを背負い直す。
先ほどまでずっと手で持っていたからか、手は真っ赤だ。赤い、僕は間違いなく、疑いようもなく、現実で生きているのだと実感した。
そして、背に感じていた体温がなくなったことに安堵し、少しばかり名残惜しく思ったのだ。
それは決して恋心などではなく、歪んだ僕に残る正常な感情だろう。
『一人になりたくない』
一人が好きな僕が感じた矛盾だった。僕は自分で自分を嘲笑い、自分の家へと帰ったのだった。
ちなみに、夕飯はカップラーメンだった。母はなんだかんだ怒っていたのだ。兄や母の夕飯はカップラーメンなどではなく、豚の生姜焼きだというのに、僕は黙って麺を啜って、たった五分ほどの食事を終えた。
こればかりはどうしようもないことだろう。
そして十月に入った。僕の人生で二人目の彼女ができた月。
あの後の僕と【猫目】さんとの関係は特に何も変わったことはなかった。
学校では僕は本を読んだり他の男子と遊んでいたりしていたし、彼女は彼女で他の女子と仲よさげにしていた。
ただ、一つ変わったことがあった。
塾の帰りだ。僕がどれだけ不定期に帰ろうと彼女とは一緒に帰った。
僕は彼女が嫌いではなかったし、そのうち飽きるだろうと思っていた。
家に送ったのはあの日の一回きりで、それからは途中で別れていた。
十月の中旬だったか、僕たちのクラスでは九月の終わりに行われた体育祭の打ち上げをすることになっていた。
多くのクラスメイトが塾を休む口実に喜ぶ中、僕は仲の良かった男子が誘ってきたけれど、断った。僕には僕の世界があるのだ。
まあ、塾と打ち上げを天秤にかけ、塾を取ったというだけなのだが。
勉強が好きなわけではない。むしろ嫌いな部類だ。けれど、お金を払ってもらって通わせてもらってる以上、最低限の義務は果たさなければいけないと思っていた。
なんのことはない、ただ僕が打ち上げに価値を見出せなかったのだ。
打ち上げの前日、珍しくメールが来ていたことに気づいた。
僕は基本的にメールのやりとりをしない。というより、「初めての彼女」以来、煩わしく感じていた。
僕はゲームや読書を好む、他人から見たらオタクと言われるような人間だった。けれど、運動ができないというわけではない。むしろ上位の方だ。スポーツテストでも上位十人の中には入っている。
メールを開いた僕は顔をしかめた。誰もいない自室だからこそできる顔だろう。
『明日の打ち上げ、【同級生】くんは来る?』
メールにはそう書かれていた。差出人は言わずもがな、【猫目】さんである。
「来る?」と聞いてくるあたり彼女は行くのだろう。そうでなければ、「行く?」と聞くところだろう。
結論から言うと、僕はそのメールを見なかったことにした。
僕の予定に彼女が合わせる必要はないし、彼女の予定に僕が合わせる意味もない。
僕は黙って液晶を閉じ、本棚にある本を一冊抜き取る。
いつも適当に取って一冊読んでいる僕は今日ばかりは自分の運を恨んだ。
取った本は男女の恋愛を描いたものだった。もちろん、大衆受けするような学園が舞台の青春ラブストーリー。
息を吐き出して、僕は椅子に座り本を開く。取ったからには読む。それが僕が決めたことなのだ。家限定だが。
翌日。学校も終わり、部活もない僕は一人で家に帰る。けれども、基本的に授業や評価に関係のない提出物を出さない僕はその日、先生に呼び出されていたのだけど。
彼女と話すことはなかった。いつものことだ。いつも通りつまらない日常だ。
「なあ【生徒】、お前の学力だったら志望校くらいは簡単だろうが、いかんせんやる気がない。どうにかならないのか?」
「いやあ、なんかめんどくさくって。この時期になってくると気になるのは評価だけで何て言うんでしょう……そうですね、道徳とか総合とかの提出物ってどうでもよくなってくるんですよね」
僕の言葉に呆れてため息をつく先生。
今、僕が注意を受けているのは新聞作成についてだ。生徒一人一人が、自分の小さい頃についての新聞を作り、卒業式に親に渡すのだそうだ。
くだらないことこの上ないが、先生の手前そんなことを口にしたりはしない。ニュアンスでは伝わっているのだろうけど。
ーーーーーーー
「…しっかり仕上げてくるんだぞ?」
「まあ、はい」
(やらないですけどね)
十五分ほど説教を受け、解放される。
ああ、帰ったら軽くゲームしてから塾に行かなくてはいけない。
面倒だが仕方がないのだ。そう、仕方がない。
学校から出るべく、下駄箱にて靴を履き替え、さあ出ようと昇降口の階段の下の方を見ると、【猫目】さんがいた。
それだけだったらいい、誰かと待ち合わせしているのだろうと思い無視して帰ることができる。
そうだといいな、と願って僕は黙って彼女を見ずに通り過ぎようとする。
しかし彼女はそれを許してはくれなかった。手を掴まれ、声をかけられる。彼女の顔は少し赤く、恥ずかしそうだ。だったらやらなければいい、目にそんな思いを込めて彼女を見る。
「あの、さ。今日の打ち上げ、来ないの?」
言いづらそうに言う彼女。周りをなんとなく見ると、茂みの辺りに三人ほど隠れている人が見える。言ってはなんだが、バレバレである。
「行かないつもりだけど、どうして知ってんの?」
「えっと、円ちゃんがそう言ってたのを聞いて…」
円ちゃん、というのはおそらく彼女とよく一緒にいる女の子の愛称だろう。しかしその子は趣味が悪いな。盗み聞きだなんて。実に僕好みだが今この瞬間には苦い思いしかない。
「そっか。僕は今日、塾があるんだ。悪いけど、みんなで楽しんでくるといいよ、それじゃ、また明日」
僕は彼女に取り付く暇を与えもせず、背を向ける。あの日のように暖かな気持ちで背を向けたわけではなく、突き放すような冷たい背を向けた。
背を向け、歩き出した時にちらりと茂みの方に目を向けると女の子が二人と男子が一人見えた。みんな僕と彼女と同じクラスだった。
それぞれが思い思いの表情をしていた。
円ちゃん、そう呼ばれていた女の子は顔をしかめていた。それはおそらく僕への感情だろう。名前を付けるとしたら、恨みだろうか。それに付随する感情であることは間違いないだろう。
もう一人の女の子の顔に浮かぶのはいたって普通の感情だ。心配、それにつきる。純粋に【猫目】さんを心配しているのだろう。
最後に男子だが、これは奇妙にも、表面上では残念そうな顔をしているが、喜びが滲み出ているようにも感じる。
そんな彼らを見ると人間関係が一瞬で把握できた自分が嫌になる。
今の僕はただ日常を謳歌したいのだ。決して青春を謳歌したいわけではない。
思い出すのは昨晩読んだ物語。僕の顔に浮かぶのは無、だ。
つまるところ、僕はそれ以上考えるのを放棄したのだ。
塾も終わったその日の夜。時間にすると午後八時頃だ。今日は先生の体調不良とやらで授業が一コマなくなった。喜ばしいことだ。先生にとっては不運なことだが。
帰り道、僕はいつも通りイヤホンをつけ歩く。自転車で通ってもいい距離だが、僕は夜道を歩くのが嫌いではない。一人でなんとなく歩くのは気分がいい。音楽も合わせて僕の気持ちを引き立ててくれる。
気分良く歩いていると、分かれ道、いつも【猫目】さんと別れるその道に、いつも通りではない人物がいた。
いつか見たものと同じものだ。僕は物語の主人公でもヒーローでもないというのに、平凡を愛してやまないというのに。
そして僕はあの日と同じ行動をする。
「そういうのって、犯罪って言うんじゃないんですか?」
なんてことはない、あの日と同じように、【猫目】さんは男に迫られていたのだ。それも、おそらくあの日と同じ男に。
僕を視界に入れた二人の反応は対照的だった。
【猫目】さんは喜びを顔に浮かべ、男は顔に憎しみを滲ませる。
あの日よりも危なかったのだろう、【猫目】さんは男に手首を掴まれ、身動きがとれないでいた。
あの日と違っていたのはそれだけではなかった。
僕を見ても、男は逃げようとはしなかった。むしろ目に怒りをたたえていた。そんな目で僕を睨んでいた。
「無理やりそんなことをして、日本で生きていけると思っているんですか?」
僕は無表情に、無感情に、男を責め立てる。
携帯電話を取り出し、開く。
「当然僕には通報する権利と義務の両方があります。まあ、選択肢はないんですけどね」
無機質な電子音が三つ、暗い道に響く。
そこまですると、男は彼女を離し、逃げる、と思いきや僕の方へと向かってくる。手にはいつ取り出したのか、ナイフが握られている。
僕は黙ってその様子を見つめていた。
視界には襲い掛かってきている男と、驚きと恐怖を浮かべている彼女。
男の表情は切羽詰まっているように思えた。ああ、この人は追い込まれている。おそらく、僕が何もしなくても、彼は遅かれ早かれこの世界では生きていけなくなるのだろうと感じた。
彼が僕に殺意を持って向かってきている以上、僕は彼を潰さなくてはならない。いや、潰してもいいのだ。
物理的にも、精神的にも、経済的にも、全てにおいて。
「僕を恨まないことを願っていますよ」
向かってくる彼の振りかざすナイフを避け、足をかける。
彼は僕が思っていた以上に綺麗に転んだ。その隙に僕は彼のナイフを蹴り飛ばし、彼が立ち上がろうとしたところを狙って、顎を蹴り上げる。
容赦なく、同情心なんてなく、やはり無感情に。
歯が数本飛んでいく。顎が砕ける感触があった。彼は口から血を流していた。
僕に慈悲なんてものは無かった。
そんな彼に黙って向かい、再び顔を蹴りつける。
彼の短い悲鳴が響き渡る。
仰向けになる彼の手首を踏みにじる。
「それで、あなたはどうしますか?このまま僕に通報されますか?それとも、逃げますか?」
僕を見る彼の瞳には恐怖が浮かんでいた。僕は一体どんな表情をしているのだろうか。自分ではわからない。
どうにかして答えようとする彼に自分の口角がつり上がるのを感じる。
「ああ、話せないんでしたね。痛いでしょう。それでは、僕が決めてあげますよ」
足をどかす彼の目に希望の光が宿るのが見えた。しかし再び足を振り上げる僕を見てすぐに絶望に染まる。
「僕を恨まないことを願っていますよ」
先ほどと全く同じ言葉を彼に送り、彼の鳩尾に踵をめり込ませる。
それきり、彼は動かなくなった。気を失ったのだろう。
演技ではないだろうと思い、彼に背を向けると、【猫目】さんがこちらを見ていることに気づく。
僕はしまった、と思った。せっかく今まで隠してきたというのに。
だが、僕の予想に反して、彼女の反応は薄いものだった。というか、また足に力が入らないようだった。
それが妙におかしく思えて、笑ってしまう。
僕の笑顔を見た彼女は、同じように笑った。多少崩れてしまっているその笑顔はおそらく恐怖のためだろう。
「ごめん」
僕は怖がらせてしまったことを謝った。
「どうして謝るの?」
彼女はそう言った。気にした様子もなく、当たり前のように。
「いや、まあ、なんとなく」
僕を見つめるアーモンドの様な目から逃げるように目をそらす。
居心地が悪かったからではない、彼女の目を見るのが怖かった。
映っている僕を見るのが怖かった。浮かんでいる感情を読み取るのが怖かった。
「変なの」
彼女は笑う。
「そんなのは今更だ」
僕は言う。
そしてあの日と同じように彼女に背を向ける。彼女は黙って僕の背に自身を預けた。
僕が彼女の家の方に向かおうとすると彼女が止める。彼女曰く、「行きたいところがある」らしい。
僕は止めたが、彼女は頑として譲らない。仕方なく歩く僕。
どこへ行くのか、と尋ねると、なんてことはない、ただの公園だった。
再び背に感じる彼女の体温。僕は一人ではないと実感していた。
暑さが過ぎ、少しばかり涼しい十月の夜。僕の耳には彼女の息づかいが聞こえていた。穏やかなそれを聞いていると僕は何かいけない事をしているような気になった。
「ねえ、【同級生】くん」
歩いていると彼女が僕を後ろから抱きしめるように手を回しながら声をかけてくる。僕は感情を読み取られないように、努めて平静を装って返事をする。
「もしも私が君のことを好きになった、なんて言ったらどうする?」
彼女の言葉に僕は答える。
「それは吊り橋効果でしかないよ。聞いたことくらいはあるでしょ?早い話が勘違いってことだよ」
「ひどいなあ」
彼女は笑って回した手を少し強くする。彼女の体温がさらに強く感じられる。まるで僕と溶け合って一つになったかのような錯覚さえ覚える。
「そうだよ、僕はひどい人間だったんだよ」
知らなかったのか、そんなニュアンスを込めて彼女に言う。
「そうだね、でも君は、信じられないくらい優しい人だよ」
彼女のその言葉に足を止める。止めてしまう。僕の心と同じように、少し強く風が吹いた。
風にのった彼女の香りが鼻をくすぐる。柑橘系の爽やかな匂いだ。イメージとしては。
「そんなことないよ」
気を取り直した僕はまた足を前に出す。地面の感覚を確かめるように。そこに足があると確認するように。
「そんなことない、僕はひどい人間だ」
自分の好奇心に他人を巻き込むのだから。そして他人を見捨てるのだ。
使い終わった道具を捨てるように簡単に。
僕の言葉に彼女は黙って背中に顔を埋めるのだ。あの日と同じように、しかし意味合いは少しばかり変わっているのだろう。
確かな好意がそこには感じられた。
僕はそれに恐怖を感じた。
他人から向けられる好意。特に異性のものに僕は恐れを抱いた。
公園に着いた僕たちは、適当なベンチを見つけ、彼女をそこに座らせた僕は彼女と少し距離を開けて、同じベンチに座る。せめてもの抵抗だった。
「ねえ、【優しい同級生】くん」
「どうしたの、【猫目】さん」
少しばかりの沈黙の後、彼女は聞いてくる。
「どうして今日の打ち上げに来なかったの?」
「じゃあ、僕も聞くけれど、どうして君はあそこにいたの?」
質問を質問で返された彼女は居心地が悪そうに笑う。
けれど、それだけだ。一向に口を開こうとしない彼女は僕の答えを待っているのだろう。
「……興味がなかったんだよ」
「あんなに体育祭で活躍してたのに?」
「それはそれだよ。僕だって運動したい時くらいはあるし、任された責任があったから」
体育祭の時、僕は百メートル走とクラス代表リレーに出た。
玉入れに立候補したのだが、ジャンケンで負けたのだ。一発で。僕以外がグーで。
結果は百メートル走では一位をとった。リレーではアンカーを努め、運良く前のランナーが転んで一位をとった。負けるのは嫌いだったため、なんであれ勝てたのは良かった。
「そっか」
そう言った彼女は足をゆらゆらと前後に揺らす。
「それで、君は?」
「ん?」
ゆらゆらと揺らしていた足を止め、こちらを向いて首を傾げる彼女。
「僕だけ答えるのはずるいと思わない?」
「んー、…んー、まあ、そう、かな?」
「かな、じゃなくてそうなんだよ」
呆れた目をやると彼女は気まずそうに目をそらす。
それきり黙ってしまう。あまり気分の良い沈黙ではなかった。
夜の公園は静かで見渡す限りに人はいなかった。
風に合わせて葉が揺れ、かさかさと音を立てる。ベンチの側にある蛍光灯の光だけが、無機質に僕たちを照らしていた。
しばらくして彼女が口を開こうと息を吸ったのを見た僕は、正確には僕の直感は危険だと感じた。
「そろそろ帰ろうか。良い時間だし」
ギリギリ彼女を先んじて言うことができた僕。
そんな僕を見つめた彼女は吸った息をゆっくりと吐き出し、頷く。
僕は優しくはない、自己保身に走るずるい奴なんだと証明したかった。
立ち上がって軽く伸びをし、公園の外へと歩き出す。
そして、彼女の方を見て、
「家まで送ろうか?」
と言った。
いや、正確には言おうとした、か。
彼女の方を向いた瞬間、ふわりと柑橘系の香りがして、口を塞がれる。
抱きすくめられた僕になす術はなかった。
驚きに目を見開く僕。
至近距離には目を閉じて唇を合わせている彼女の顔。
誰と唇を合わせている?彼女だ。
僕は誰に抱きつかれている?彼女だ。
少し歯が当たって感じる痛みが、これが現実なのだと教えてくれる。
わけがわからなかった。頭は上手く回らず、僕にしては珍しく感情的になっていたのだと思う。
ゆっくりと彼女が、彼女の唇が離れていく。時間にしては五秒にも満たなかったが、体感的には一分にも、もしかしたら十分くらいにも感じられた。
「…どう、して?」
僕は掠れた声しか出すことができなかった。
僕の言葉を受けた彼女は涙の浮かんだ目で僕を見つめた後、何も言わずに僕の胸に顔を埋めた。
そして、僕と同じように掠れた声で言った。
「【優しいクラスメイト】くんが好き。」
「初めての彼女」とは方向の違うその好意に僕はどうしたらいいのかわからなくなっていた。
多分僕は主導権を握られることに慣れていないのだ。
かすかに震えている小さな背中を見つめる。
そしてまた、間違えてしまう。
僕の中の『好奇心』が疼いてしまう。抑えつけようとしていた枷が外れてしまった。
僕は彼女の肩に手を置いて、少し身体を離す。
拒絶されると思っているのだろう彼女は俯いたままだった。
僕は少し屈んで、彼女の顔を上へ向けさせ、唇を合わせた。ゆっくりと、柔らかく。
今度は彼女の目が驚きに満ちていた。そんな彼女を見て、僕は少し愉悦に浸る。
「【猫目】さん、それは恋なんかじゃないよ?」
意地悪な僕は彼女の想いを否定する。僕には責任がないと、そう言う。
「そんなことないよ。確かに私は【優しいクラスメイト】くんのことが好き」
「そっか」
「そうだよ」
僕にはもうどうしようもなかった。
溢れる好奇心を抑える術を、僕は未だに見つけられないでいたから。
その日から、僕と彼女は恋人と呼ばれるような関係となった。
「猫目の彼女」と別れたのは一月のことだ。付き合い始めたのが十月だったから、おおよそ三ヶ月ほどの付き合いだった。
それまでにあった出来事はとても少ない。けれどその分密度の濃いものだった。
塾の帰りは二人で一緒。楽しく話したりした。
クリスマスは互いに塾があったが、帰りにプレゼントを交換したりした。
これだけだったら、受験が終わったらもっと仲が良くなっていただろう。僕もそう思っていた。
けれどやはり、現実はそう甘くないのだと思い知ることになる。
『一月三日』
世間では新年を迎え、これからだという時期。僕らの関係は終わりを告げた。
理由はなんだったろうか、まあ、ありがちなものだった。
互いの気持ちの温度差。つまりはすれ違いということだ。
彼女と遊びに出かけたことは一度もなかった。
それは僕が「初めての彼女」との付き合いで学んだことだった。
遊ぶのが嫌なわけではないが、なんとなく遠慮してしまうのだ。少しだったら緊張ですませることができるのだろうけど、僕にはできなかった。
一月三日、僕はたまたま、家より少し離れた神社に来ていた。
理由は良くある初詣というやつだ。
そこで僕は自分の愚かさを知ることになった。
屋台を一通り見た僕は、夜に上がる花火を見ようと高台に上がっていた。もちろん僕は一人だ。
花火が打ち上がり、夜空に大きな花が咲く。
するとどうだ、聞き覚えのある声が聞こえた。
僕はその声の発生源に目を向け、己の目を疑った。
そこには「猫目の彼女」がいた。一人ではなく、いつか見た、クラスメイトの男子と一緒だった。
そして僕が気付いたのに気づいた彼は、ニヤリと笑みを浮かべ、彼女にキスをした。
彼女はそれを喜んで受け入れていた。むしろ欲しているようでさえいた。
互いの唇を合わせ、貪る。
カップルなのだから問題はないのだろう。普通ならば。
行為を終えた彼は無視をすればいいというのに、こちらへと歩いてくる。気持ちの悪い笑みをその顔に浮かべて。
彼女も華のような笑顔だったが、近づいているのが僕だというのに気づいて、気まずそうな顔になる。
「よぉ、【意気地なし】くん。どうした、一人なん?」
その言葉遣いに僕は前から苛立ちを覚えていた。彼は大して頭が良いわけでも、運動ができるわけでもなく、むしろ遅刻ばかりの問題児だった。別に僕と比較して彼を貶めているわけではない、客観的に見た評価だ。
「見ての通りだよ、僕はいつも通り一人だ。それで、君は彼女を連れているようだけど?」
僕の言葉に肩を震わせる【猫目】さん。
何かを言おうとするが、そのまえに彼が口を開く。
「いいだろ?お前なんかには勿体無い奴だよ、こいつはな」
そう言って煙草に火をつける。
彼は未成年のはずだ。けれど平然とこういうことをする。僕はそんなところも気に入らなかった。
なんというか、彼と僕では性質的に合わないのだ。
「そうだね」
僕は彼の言葉を肯定する。
僕の言葉の意味がわかった彼女は顔を青ざめる。わからない彼はとても機嫌が良さそうだ。
僕は認めたのだ。君は必要ないと。
僕の性格上、嫉妬に身を焦がすというのはない。ないが、多少なりとも気分は良くない。
そして僕は理解したのだ。
人間は嘘ばかりだ。裏切るのは当たり前なのだ。変わらないものなど、ありはしないのだと。
「それじゃあ、【猫目】さん、【クズ】、また学校で」
僕は何か言いたげな彼女を黙殺し、踵を返した。背を向けたのだ。
もう彼女と何かをすることはないだろう。僕は背を向けた。
言葉ではなく、行動で、彼女の心を切り刻んだ。
それは、あまり気分のいいものではなかった。
最後にチラリと彼らを見ると、再び情熱的な関係を築いていた。
それを見た僕は、上を向き、夜空に浮かぶ月を睨んだ。
「つまるところ僕は欠陥品なのか。」
自室のベッドで寝転がり、イヤホンから流れるいつもの曲を聴きながら呟く。
感情は確かに存在する。しかし、どうしてもはっきりとは出てこない。
恋愛感情が理解できない。
異性に触れたいということはない。
率先して何かをしたいという気持ちはない。
僕は、どうしてこんな欠陥品なのだろうか。
感情に触れてこなかったからだろうか。
他人と接してこなかったからだろうか。
他人の考えることがわからない。
何を望んでいるのかがわからない。
何をしたらいいのかわからない。
どうしたらいいのか、わからない。
自分が何をしたいのか、わからない。
心の中で、もう一人の自分が冷めきっているのがわかる。
僕をせせら笑っているのだ。
欠陥品が人を好きになるなんておこがましいと。
誰かを幸せになんかできるわけないだろうと。
中学三年の冬。
僕は、死んだのだ。
確かに死んだのだ。
けれど、高校二年になった春。
『彼女』と出会い、話し、打ち解けていく中、僕は生きていた。
現実を生きていた。
醜い人間の僕が、人として最低の部類に入る僕は、必死に何かをなそうとしたのだ。
これからするのは、今までの僕が、今の僕になるまでの話だ。
♢
『高校生』
この言葉に甘酸っぱい青春だの熱い青春だの、そんな印象を受ける人は多いと思う。
高校二年になった僕は、去年、そんなものはやはり幻想だったのだと再確認した。
高校生になったからといって何かが変わったわけでもない。
去年の僕は灰色だった。
行事には率先して関わらず、目立たず、普通に…そう、普通に過ごしていたのだ。
普通に友達を作り、普通に部活に入り、普通に勉強して、普通に進級した。
高校一年生でそんなだった僕は、当然二年生になっても何も変わらないのだと信じて疑わなかった。
けれどどうだろう、現実はいつも僕を裏切るのだ。
高校二年になり、六月の体育祭に向けて活動的になる生徒たち。
中心となっているのは二年生だけど、僕は去年と同じように特に何かをするつもりはなかった。
この学校では自主性が重んじられている。
僕には自分というものがあまりないように思える。
皮肉にも、こんな高校を選んだのだ。家から近いからという理由で。
そんな僕の思いとは裏腹に、僕は行事に関わることになってしまった。それは、下働き。看板の作製などだ。やる気のない僕はさぼるべく早々に教室から逃げたりしていた。
そんな中、僕は『彼女』と出会った。出会ってしまったのだ。
新しいクラスになっても僕は他人に興味を持たなかった。持つことができなかった。
男子とは普通に関係を築いて仲良くしていた。けれど女子とはお世辞にも良好と言える関係はなかった。
けれど、『彼女』に会った瞬間、何かが引っかかるような感じがした。
『彼女』と僕が本当の意味で出会い、話したのは体育祭の練習の時だった。
各々が練習をしているなか、たまたまあぶれた『彼女』と僕。
僕は『彼女』のことを知らなかった。同じクラスだったことすら知らなかったが、『彼女』は僕の名前くらいは知っていた。
「【新しいクラスメイト】くん、だよね?」
話しかけられたとき、僕はどうしていいのかわからなかった。
『彼女』に話しかけられた覚えた奇妙な感覚に気を取られていたし、何よりどう返せばいいのかわからなかった。
結局、僕は黙って頷いた。
それきり特に話すこともなく、練習を眺めていた僕たちは、いや、僕は素朴な疑問を口にした。
「【新しいクラスメイト】さんは練習しなくていいの?」
僕の言葉に『彼女』は笑った。
「今、相手が用事でいないんだ」
僕はなぜだか相手のことが気になった。
「相手は誰なの?」
「同じクラスの弓道部の女の子だよ。今忙しいみたいで…」
『彼女』の言葉に僕は安心した。
安心?何故だかはわからない。
それから、『彼女』とは特に何の意味もない会話をした。
僕は自分を隠して、作っていた。
そんな僕に『彼女』はよく笑いかけてくれていた。
体育祭本番。
前日に雨が降ったが、色々な人たちの協力でなんとかできるようになったらしい。
グラウンドの整備をした人たちの気が知れない。好き好んでやっていたのだろうか。
順調に競技が消化されていく中、僕の目は気付くと『彼女』を探していた。
そんな僕自身に、僕は苛立ちを覚えていた。いや、苛立ちだったのだろうか、僕にはこの感情につける名前がわからなかった。
部活動対抗のリレーを行っている『彼女』を見つけた僕は、初めての感覚に動揺した。
あろうことか、僕は『彼女』を独占したいと思っていたのだ。
はっきりと自覚する独占欲に軋む僕の心。
その時、僕が願っていたのは、この感情が消えてくれることだった。
それからしばらくして、期末テストも終わり、夏休みがやって来た。
僕は英語の夏期講習を受けていた。
そこには『彼女』もいた。僕よりも前の席にいるその背を見つめる。
わざとではない、気づいたら見つめているのだ。
夏期講習の帰り道、僕は高校二年生になってからの自分に異変を感じていた。
明らかに今までとは違うのだ。
『彼女』を想うとおかしくなる。
経験したことのない痛みが僕の心を襲う。
もう限界だった。
そんな時だ。
「【新しいクラスメイト】くん」
呼ばれた。間違いようがない、この声は『彼女』のものだ。
僕は振り向いた。
「なに?」
「いや、なんとなく。そこにいたからさ」
そう言って『彼女』はいつも通り笑う。
そんな『彼女』を見て僕はこの子には彼氏や好きな人は居ないのかと気になった。けれど気になったからどうだというのだろう。僕にそれを邪魔する権利があるわけでもない。
「なんだそれ」
僕も笑う。
そして僕は、この瞬間を決して忘れない。後悔するのだ。どうしようもなく。
僕たちはその会話だけをし、それぞれの帰路に着いた。
次の日から、僕は部活の合宿だった。三日間、体育館と宿泊施設を行き来する生活。
練習はこれまでにないほどの辛さだったが、なんとか乗り越えた。
クラスの男子に頼まれたお土産も悩んだ末、悪くはないものを買うことができた。
三日後、家に戻り、母が伝えてくれたある出来事に僕は愕然とした。
耳を疑った。世界を疑った。悪い嘘だと言って欲しかった。
『彼女』が死んだというのだ。
三日前、前方不注意の車に跳ねられて。病院に運ばれたが、医師の努力もむなしく、先ほど息を引き取ったらしい。と言うのだ。
僕は信じられなかった。
けれど、一週間ほど経ち、信じざるを得なくなった。
僕のスマホには未読のメッセージが一つ残っていた。『彼女』とのやりとりだ。
代わりに一つの手紙が届いた。
通夜の手紙だ。
差出人の名字は、『彼女』と同じ。
二度と届くことのない、読まれることのないメッセージに僕は苛立ちを感じた。
通夜の日。夏休みも後半に入った雨の日。
棺に入った『彼女』を見た僕は、人目をはばかることなく、顔を歪めた。
思い出は少なかった。
話したことも少なかった。
けれど、今までにないほどに焦がれた。恋い焦がれたのだ。
彼女の声。彼女の瞳。彼女の髪。
全てが欲しくてたまらなかったのだと、僕は初めて理解した。
失って初めて気付かされたのだ。
そんなものはないと思っていた。
けれど、確かにあった。
もう二度と、僕は彼女の声を聞くとはないし、彼女の笑顔を見ることもない。
あの焼けるような想いも、風化していってしまうのだろうか。
『もしもあの時』僕が彼女への想いの一端にでも気づいて、伝えることができていたら、彼女が死ぬことはなかったのではないだろうか。
後悔が波のように押し寄せてくる。
そして、彼女への想いが、抑えつけていた心が溢れてくる。
頬を撫でるように落ちていく涙。
泣き声は出なかった。出しようもなかった。声をどう出せばいいのかわからなかった。
ただ涙だけが流れていた。
そして、僕は気付いたのだ。
あの焼けるような想いは、誰にも渡したくないという思いは、恋の一端だったのだ。
『彼女』を見ていてなんだか嬉しいような感じがしたのも、恋だったのだ。
卑劣な、醜い僕でも、恋をしていたのだ。
もう実ることはないけれど。誰も気付くことはなかった恋。
終わって初めて実感した、愚かな恋心。
「【大事な人】」
『彼女』の名を呼ぶ。返事はあるはずもない。
「僕は確かに、君に恋をしていたよ。誰にも気づかれることもなく、ただひたすら君を想っていたらしい」
僕は服の袖で涙を拭いた。
「ありがとう、君のおかげで僕は変われた」
『彼女』に背を向けて、外へ出る。
そして空を見上げ、呟く。
「大好きだったよ」
空は僕の心を裏切るように晴れ渡っていた。




