56 条件
「エージ様のこと、裏切っていいですか?」
キッサが口にしたのは、俺が思ってもいない言葉だった。
「はぁ?」
と、思わず聞き直しちゃったけど、しかしなあ、よく考えたらなあ。
そりゃそうしたくなるかもなあ。
だってさ、キッサってもともとヴェルと戦って捕らえられて、戦争捕虜として処刑されそうになったとこをたまたま俺が奴隷にすることで命を助けたわけでさ。
基本的にヴェルはにっくき敵なわけで、と、いうよりも、ターセル帝国そのものが敵なわけで、今その敵の親玉が目の前にいるんだ。
法術の首輪のせいで、キッサとシュシュの命は俺の命と紐付けられているから裏切ろうにも裏切れなかっただけで……いや、そうだ、首輪のことがあった。
「首輪、どうするんだ?」
俺が死んだらキッサとシュシュは死ぬ。
俺から三十メートル離れても死ぬ。
「俺たちを裏切って大丈夫なのか? お前らも死んじゃうぞ?」
という俺の目を、キッサはじぃっと見つめて、そして「ふふ」と笑った。
「やっぱり、まず私達の心配してくださるんですね」
とにっこり笑って、
「私、エージ様のことは好きですよ? エージ様のために死ぬなら、私はかまいません。『私は』かまわないのです。でも、シュシュのことがあります。まだ九歳のシュシュを死なせてしまうのまでは、かまいません、とは言えません。いやです。シュシュが生き残る確率がゼロの作戦なら、私は従いません」
そっか。
そうだよな、キッサは一貫して妹の命再優先だった。
初めてあの帝宮で会った時も、そうだったはずだ。
「だから、シュシュが戦いで生き残れるよう、最大限エージ様に協力します。ただし。戦闘中、エージ様がなんらかの大怪我で戦闘不能になったり、意識をなくしてしまったりした時は。私はエージ様の身体をかついで敵に投降します。エージ様と運命をともにする、なんてことはしません。そんなことしたら、シュシュまで死んじゃいますから。だから、そういう状況になったら、エージ様を裏切って、敵の捕虜になります。前にいった通り、エージ様はこの世界では希少な存在。そうそう簡単には処刑しないでしょうし、それならシュシュが生き残るチャンスもあります。……敵の捕虜になったら、きっとエージ様は私達の助命をヘンナマリに嘆願してくれるはずですし」
……ま、そうだな、そうなったらそうするだろう。
さすが、たった数日しか一緒にいなかったのに、キッサは俺という人間をよくわかっている。
俺は少しだけ考えるフリをしてから、
「わかった、それでいい。ただし、俺が戦ってる最中に邪魔とかするなよ」
「わかってます。本来なら、ただの奴隷である私やシュシュなんて捨ておいてもいいはず、そうしないのは私とシュシュの命を大事に思ってくださっているから。最大限の協力はしますし、その、えーと、粘膜直接接触法で法力の補充もおまかせください」
「ああ。信頼してるし、信用してるぞ、キッサ」
「私もですよ、エージ様」
俺たちは見つめ合い、にっこりと笑い合う。
と、そこに、
「はいはいお二人さん、お話は終わった? もう時間がないわ。エージ、死地だけど殿、頼むわ。もう敵がすぐそこまでやってきてる」
「まかせとけ」
結局、さっきの作戦どおりにコトを進めることになった。
女騎士ヴェルはロリ女帝ミーシアと一緒に騎馬で西に向かう。
俺とキッサとシュシュは、馬車用の馬に騎乗して、それを追走する。
ただし、俺たちの乗る馬は遅いし三人で乗るので、自然最後方に位置することになる。
追尾してくる敵は、まず俺たちを最初に包囲することになるだろう。
そこで、決戦だ。
荷物になるし、邪魔になるので、捕虜にしたリンダは置いていくことになった。
粘膜直接接触法の副作用に随分苦しむだろうが、すまんな、死ぬよりはましだと思ってくれ。
頼りないランプの光だけを頼りに、俺たちは馬に馬具をつけ、武器の確認をして準備する。
ランプがなければ自分の手のひらすら見えない。
月が雲に隠れたのだ。
空を仰ぎ見ると、星の光すらない。
雲が厚いんだ、明日は雨が振るのかもしれない。
街頭やらネオンやら住宅の明かりやらに包まれている現代日本の夜とは違って、月も星も出ないとなると、まじで真っ暗闇だ。
そうか、明かりがないと、世界ってのはこんなにも黒一色に染まるんだな。
夜伽三十五番も月が隠れたのに気づいたようで、なにも見えない空を見上げている。
かすかなランプの光に照らされて、すっきりとした顎から喉のライン。
こいつもこいつでちゃんと美人だよな、とか思っていると、
「僥倖ですね、ご主人様」
三十五番が、か細い声でそういった。
「ああ」
と返事をすると、
「私も一緒に連れて行ってください」
と、三十五番は言う。
今、俺は三十五番と向き合ってるはずだが、あまりにも周りが暗すぎて、ブラウンのはずの髪や瞳の色も闇に溶け込んでしまっている。
彼女の声だけがダイレクトに俺の耳に届いてくる感じ。
「いや、駄目だ、殿だぞ、超危険だぞ? っていうか、多分死ぬ」
「ご主人様のいない奴隷なんて、死んだようなものです。ご主人様より長く生き延びるのは、奴隷にとっては恐怖なんです。二度も同じ目には会いたくないです」
「でも、お前戦えないだろ?」
「お忘れですか、ご主人様?」
「なにをだよ」
「わたしは補給袋です」
「お前は人間だよ」
「あ、はい、じゃあ補給奴隷です」
「奴隷だって人間だよ」
三十五番はむむぅ~と困ったような声を出すと、再び、
「お忘れですか、ご主人様?」
「だから、なにをだよ」
「無事ここを乗り切れたら、私を私に売ってやるっておっしゃいました」
あ、そうだった。
「エージ様がお亡くなりになったらその約束は反故、そのあと別の人間に売られてしまうか、あの山賊たちの誰かに褒美として与えられるか……」
それは否定できない。
この世界では、人が人を奴隷として売り買いするのはごくごく当たり前のことなのだ。
「私を私に売ってくださるご主人様はご主人様以外にはありえません。ですから、ご主人様が死んだら私は奴隷のまま、ご主人様が生き残ったら人間になります。私の法力を、お役立てください」
そこまで言われたら、俺もこれ以上止めることはできない。
あのリューシアに買われ、以後性愛や欲望のはけ口としてだけ存在し、つけられた名前が夜伽三十五番。
初めて会った時には、早く死んでしまいたいってくらいの態度だった。
この子を、奴隷から人間にしてやれるのは俺しかいないのだ。
「……わかった。お前も、連れて行くよ」
「あ、はい、ありがとうございます。嬉しいです」
と、三十五番が俺の方へと一歩、近づいてきた。
そして周りをキョロキョロと伺うと、
「前のご主人様は戦いの前にこれをしてさし上げると、とてもお喜びになったので……」
と言って、俺の手をとり、そして服から零れ落ちそうなほど大きな自分の胸に導いた。




