二話―上手くいかないのが現実―
春の木漏れ日が終わりを迎え、どこか夏を彷彿させる、少し照りつけ始めた太陽の日差し。
ついこの間まで茂っていた花びらはいつの間にかその姿を無くし、その代わりにとでも言うが如く、緑の葉が生い茂り始めた桜並木。
そんなの中をなるべく日差しに浴びないようにと木々の影を利用しながら歩く、一人の少年の姿。
彼は高校入学して以来、今まで見せたことのないような表情をしていた。
それは何かに対しての嬉しさや期待、そして一抹の不安。そんな多肢のある想いを併せ持ったそんな表情。
しかし、その表情は、にやにやにやにやと蕩けた表情で、周りから見ると怪しさ満点な表情なのだが。
「おっは~、かっける~」
登校中の生徒から距離を置きながら、または距離を置かれるともいう。そんな少年こと雨音翔の元に、彼の名前を呼びながら肩を叩く一人の少年。
妄想でもしていて思考にどっぷり浸かっていたためか、声が掛けられたことに全く気が付かず、いきなり肩を叩かれた事に驚き、翔は強制的に思考を現実世界へと引き戻される。
「おい、亮! 危うく心臓が飛び出す所だったぞ」
「いやいや、別に脅かしたつもりは一切ないんだけど......?」
冗談半分で冷や汗を拭う仕草をしながら返事を返す翔に、「なんで?」と、どこか困ったような表情をしながら言葉を返す、少年こと長谷川亮。
そんな二人は小学校からの付き合いで、二人は親友のようであり、また兄弟のような仲でもある。
また、翔が壁を作らず接せられる唯一の人物だ。
しかしこの二人の関係......傍から見たらなんで一緒にいるのかが不思議に思われることがしばしば。
翔は極度の人見知りであがり症なのは周知の事実であり、そのため基本的に一人でいることが多く、また友達は少ない。
しかし、亮はというと、端整で華やかな顔立ち。身長も高く、運動神経もバリバリ。それでいて能天気で無邪気な性格なためか、男女関係なく友達が多く、クラスでは常にムードメーカー的な存在だ。そのため、そんな彼は当然ながら女子にモテるので、彼の周りには自然と女の子の輪が出来ていたりする。
そうした背景から正反対過ぎる翔と亮が、「何故あそこまで仲がいいのか?」......という疑問が生まれるのも当然のこと。
そんな二人に一部の腐の付く女子からはそうゆう関係なんだと熱の篭った眼差しを向けられているが、実際に二人の関係性は密であるのは確かでも、残念ながらさすがにそういった類の仲ではなかった。
翔は小学校三年生の時に今の家に引っ越してきた。
当時から人見知りであがり症だった翔は、当然新しい学校に馴染むことが出来ず、数日の間に不登校になってしまっていた。
そんな状態から彼を救い出した人物こそ亮である。
亮と翔は同じクラスで、また家が近所だったため、翔が休むと自然に配布物やプリントといったものの類は亮が翔の家に届けることになっていた。
普通ならばそんな事はめんどくさい事だし、その原因を作っている元凶の翔の事など嫌いになってしまうかもしれない......。
しかし、亮はというと、持ち前の能天気で無邪気な性格に加え、歳の離れた弟を持つことでの面倒見癖がついていた為か、配布物を届けに行く事をなんら苦に思うことはなかった。
むしろ、今まで近所には同年代の友人がいなかった為、同い歳のクラスメートが近くに住むようになったという事を心から喜び、プリント有無に関わらず、亮はしょっちゅう翔家にお邪魔していた。
翔はそんな亮の行動が始め理解出来ず、内心で困惑していた。
何故こんな自分のためにここまで構ってくれるのかと。亮はどうしたいのかと。
そんな翔の苦悩など能天気の亮は当然知らない。
しかし、亮は持ち前の無邪気さで裏表なく翔へと接し続けていた為、そんな亮はただ単純に自分と遊びたいだけなんだと理解する事が出来た。
そして、そんな亮だからこそいつの間にか翔の心は打ち解けていて、不登校になってから僅か一週間の内に自然と学校に通えるようになっていた。
二人にはそんな背景があるため、翔は亮に対してだけは緊張なく接せられるし、心から信頼している。
また、亮も翔の事を同い歳ながらも弟のようなシンパシーを感じており、そうした背景から二人は自然と親友のような、また兄弟のような関係になっていたのだった。
◇◇◇
「――そういやさっき、やけににやにやしてないっけ?」
「......うそ? そんな顔してた?」
「おう、傍から見たらおっさんがよからぬことを考えてるみたいにな」
「おいコラ。誰がおっさんだ。俺はまだまだピチピチの十五歳だぞ!」
「いやいや、その発言自体がおっさん臭いと思うけど?」
そんな軽口を叩きながら歩いてく二人。
しかし、学校までの距離が翔の家から十五分程度しかないため、そんな軽口もすぐに終わる。
「ほんじゃまったな~、おっじさ~ん」
「おーい! おじさん言うな......って、もう行っちゃったし......。相変わらずはえーよ」
後半独り言のように呟きながら、翔は靴を上履きに履き替え、走って自分の教室へと向かっていく亮を見送る。
(亮の奴、結局なんで俺がにやにやしてたのかという本題を聞き忘れてないか?)
なんて事を思いつつ、翔も気持ちを切り替えて自分の教室へと向かうのだった。
◇◇◇
現在の時刻は八時二十五分。朝のHRの始まるギリギリの時間だ。
翔も亮も家が学校の近所であることをいいことに、普段からこれくらいの時間に登校するのが習慣になっている。そのため、少し小走りになりながらも昨夜の夢の事を思い出す。
昨夜、翔はあまりにも現実味のある夢を見た。
その夢の中では一言であるが想いを寄せている紗結と話すことが出来た。
そのことで嬉しさが溢れ、また顔がにやけそうになりなるが、亮の先程の指摘を思い出し、
(誰がおっさん顔だ!)
と、脳内でまた亮に突っ込みつつ、少しハニカミながら教室のドアの前まで辿り付くと、一度深呼吸をする。
(この扉の先には自分の席があり、その隣には綾瀬さんがいる。
昨日は夢の中だけど、綾瀬さんと会話することできたんだ。
まぁ一言だけしか喋れてないし、噛み噛みで何言ってるかわからんような言葉で、しかも結局内容はどうでもいいことっていう......
だけど、それでも、今までの事を考えるなら大きな一歩を踏み出すことが出来たんだ!
今日こそ綾瀬さんと話をしてみせる!)
そんな想いを胸に、翔は気合を込めながらドアを引いた。
翔の目の前に広がるはいつもの光景だった。
後ろの席の方では男子達がバカやって騒いでいる。
他のクラスメイトも各々喋っていたり、自分の席でケータイを弄っていたり、本を読んでいたりと様々。
そして、一際大きな集団が翔の目に入る。
その集団は男女関係なく集まっており、その中心にいる人物こそが翔の想い人、綾瀬紗結である。
彼女の見た目上、周りに男が寄ってくるのは当然であるが、更に美人なのに天然でうっかりしているため少し抜けていたり、天真爛漫な性格であったりと、同性からも好感が持たれるような性格の持ち主。
故に彼女の周りには男女関係なく常に人で溢れかえっている。
(はっはっ......人がゴミのようだ)
そんな翔にとってブラックな状況に、どっかの大佐が言いそうなことを思いながら現実逃避を行っていた。
昨夜、翔は夢のせいで少し浮かれており、すっかり日常を忘れていたようだ。
紗結の周りには入学当初から人は集まっていたのだが、日を増す毎にその集団は大きくなっていった。
当然その集団の爆心地には紗結がおり、その隣には翔の席がある。
少し抜けている紗結は気付いていないのかもしれないが、当然翔はこの状況に日々被害を被っている。
緊張しいの翔は当然人だかりという爆心地にのうのうと休み時間を過ごすなんて真似、彼には出来るわけもなく、休み時間の大概がトイレか外のベンチで過ごすかを余儀なくされていた。
当然休み時間以外にも現在のように朝のHR前の時間も普段から翔の席には人の群れで溢れてる。
そんな爆心地である以上、それを避けるため、翔は家が近所である事を言い訳に、ギリギリの時間に登校するようになったのも当然の結果であろう。
しかし、今日は朝から浮かれっぱなしですっかり忘れていたようだ。
普段ならば登校してきてからまずトイレに向かい、HRの予鈴が鳴ってから教室に入ることを。
予鈴が鳴るまで残り二分程ある。
二分という時間は僅かだと思うかもしれないが、翔にとってはこの二分を爆心地で過ごさなければいけない......なんて状況は、一つの授業を受けるよりも体感時間では何万倍かわからないくらいに精神的に長く感じられてしまうのである。
そのため、一度教室を出てトイレでいつも通り予鈴が鳴るまで待とうかと考えながら、ドアの取手にまた手を掛けたところで、後ろから椅子を引き、席に着き始めるような音が至る所で聞こえ始める。
翔が視線だけをそちらに移すと、どうやら紗結の取り巻き集団が解散を始めているのが目に入った。
普段ならば、予鈴が鳴ってから戻る集団が、何故今席に着き始めたのか......そう疑問に思うものの、どうせ自分じゃその答えには辿り着くことは出来ないだろうと考える事を早々に諦め、それよりも自分の席が爆心地から解放されたことに安堵しつつ、翔はトイレに行くのを止め、自分の席へと向かい始める。
その際、いつも紗結の取り巻きから降り注ぐ視線が、今日はより一層鋭さが強くなってないかと身体中から嫌な汗が噴き出る。
翔と紗結は苗字が同じ“あ行”。男女分かれて隣同士で座るため、必然的に二人は席が隣同士になった。
これは翔にとって恋するきっかけをくれたこと。更にその人と何ヶ月かは隣の席でいられるというまるで宝くじに当選するような幸運な事象ではあったのだが、それと引き換えにクラスの男子の中で一番辛い立場に立たされる事になったのだった。
席自体は学校が決めたことであり、翔が決めたわけではない。
当然紗結と翔が隣同士になったのは翔の所為ではない。
だがしかし、それでも翔の事をよく思わない連中がわんさか現れる。
それはそうだろう。クラス一......いや学年一といっていい程の美少女の隣の席である。
その隣の席を座るという数少ないチャンス。それをただの出席番号順で掻っ攫っていった男。
心に余裕のある者でもどうしても妬んでしまうことは必然だ。
『何故、自分が紗結ちゃんの隣じゃないのか!』
『何故、あんな奴が紗結ちゃんの隣なのか!』
『何故、奴は紗結ちゃんの隣という幸運にも関わらず、いつも机に突っ伏したまま全く会話をしようとしないのか!』
『あの野郎......俺の苗字と交換しやがれこんちくしょう!』
その者達が抱いている思いは概ねこんな感じだが、最後に至っては本気で無理な話だと言いたい翔。
そして、そういった羨望や嫉妬、あるいは殺気の籠った憎悪等を多分に含む視線を送られ続けていれば、尚更その席に居座り続けられることは翔には無理だった。
そのため、普段そんな爆心地から距離をとっている翔なのだが、それもあってやはり、何故一分一秒でも紗結と居たいような連中が予鈴前に離れるのかと疑問に思うのだった。
しかし、やはり自分では答えに辿り着くことは出来ないだろうと早々に諦め、翔は鋭い視線が背中に突き刺さる中、自分の席に座った。
相変わらず後ろからは殺気立った気配を感じ、恐怖からくる震えを自分の腕で抑えつつ、何となくだが横からも視線を感じていることに気付いた翔は、どうするべきか考える。
横の人......つまり紗結がこちらを見ているということなのだが、まず何故こちらを見ているのだろうかと、理由が全く分からず悩む翔。
入学式の日に無視してしまって以来、数回視線や授業に関しての事で話を振られもした。しかし、それに対して翔は一回も返事を返すことが出来なかった。そのため、ここ最近はこちらに視線を送ることもなく、話を振ってくることもなかった。視線を送ってくることがあるとすれば授業中に当てられ、回答するといったクラス中が注目する時くらいだ。
しかし、それ自体も極度の緊張しいの翔がそんな状況に耐えられるわけがなく、一度失神して倒れてしまった日以来、教師陣達の話し合いの結果、翔を指名することは無くなったのだが......。
閑話休題。
翔は考えを巡らす。
(さて、振り向いて実際にこっちを見ているようだったら
「ん? どうしたの?」
でも何でもいいからとりあえず綾瀬さんと話しがしたい。
けれど、見ているかなんて気のせいかも知れないし、まず見つめ返せるのか......
その後普通に会話なんて......果たして俺に出来るのだろうか......)
しかし、と翔は昨夜の夢の事を思い出す。
(いやいや、これは話を振るための絶好のチャンスだろ!
このチャンスを無駄にしたら今日の意気込みはなんだったのかって話だ!
ここで行かねば男が廃る!)
「雨音くん、ごめんなさい!」
意を決して、翔が彼女へと振り向こうとした矢先の事。突如翔の隣からそんな声が聞こえてきた。
(......え? ごめんなさいってもしかして......俺が話し掛けようとしたことに気付いて、
「ごめんなさい、私に話し掛けないで」
っていう意味だったり......?)
翔が突然の紗結の謝罪の意味がわからず、そんな卑屈な考えが脳裏を過ぎる中、ただただ呆然とするしかなかった。
その声の主は正に翔の想い人の声である、紗結の声であった。
紗結から声を掛けてもらえたことに心臓が飛び跳ねるくらいの驚きと喜びを感じる。
しかし、それと同時に謝られた理由が検討もつかない。
検討がつかないがために、やはり自分が話し掛けようとしたことがバレて、それを嫌がった紗結が断ってきたのか......そんな考えが脳裏を過ぎる。
しかし、そんな卑屈な考えは一先ず置いといて、翔は意を決して視線を紗結の方へと移す。すると、彼女はサラサラな髪を垂らしながら、こちらに向けて頭を下げていた。
翔は彼女が頭を下げていたために、視線を交わして反らすという失態を免れたことにとりあえずの安堵をしつつ、これならば顔を見て話すわけではないから喋ることが出来るだろうと、自分自身でもわかる程に顔を強張らせながらも、翔は意を決して彼女に尋ねてみることにした。
「えっ、えーっと......綾瀬さん。なにが......かな?」
意を決したとはいえ、翔が聞けるのはこれが精一杯。翔は返事を無事返せれたことに一先ず胸を撫で下ろし、「ふぅ」と息を吐くのだった。
すると、彼女が艶やかな髪を靡かせながら顔を上げたため、自然と彼女の髪から仄かに漂うシャンプーの香りを、翔は真正面から鼻で受け止める形になり、思わず昇天しそうなところをなんとか持ち堪える。
そして、すぐさま顔は彼女の方を向いたまま、視線のみ口元に移す。
極度のあがり症である翔が、人と上手く喋れるようにするにはどうすればいいか......と悩んだ末、ネットで『人と緊張しないでも喋れる為には』といった、関連しそうなものを検索し、そして編み出したものがこの口元を見るという技法だった。
ネット等では、相手の目を直接見るのではなく、眉毛の真ん中辺り、もしくは鼻先を見れば相手にあまり不快感を与えずに喋れるというものがあった。
しかし、その二つではどうしても相手の目線が視界に入って気になってしまい、上手く喋れないという事を翔は実証済みであった。
そして、最終的には口元を見るというところに落ち着いたのだ。
もちろん口元だと相手からしてみたら少々、いやかなり不快な気持ちにさせてしまうのだが、翔にはそれが精一杯であり、それで勘弁して下さいというのが翔の本音である。
閑話休題。
こうすることであがり症の翔でも、ある程度の人とは喋れるようになれたのだ。
“美人や、可愛いらしい女性以外は”という前提ではあるのだが......。
そのため、今回の翔の行動は無駄であった。
相手は翔の想い人である紗結であり、絶世の美女である。
そんな紗結の口元はリップが塗ってあるのか艶やかで、どこか妖艶さが滲み出ており、その紗結の口元を見た瞬間、先程翔を襲ったシャンプーの匂いが脳裏を過ぎり、ついに翔はノックアウト。頭から湯気が出てしまうのではないかと思われる程に顔を真っ赤にし、そのまま机に突っ伏してしまったのだった。
そんな翔を見て、紗結は困惑しながらも話の続きを再開する。
「あのね、雨音くんには......『キーンコーンカーンコーン』「はーい、HR始めますよー」」
まるで狙っていたかのようなタイミングで強制終了。
チャイムの鐘と共に入ってきた担任の声によって紗結の声は掻き消されてしまうのだった。
紗結はどうしたらいいのかわからず、おろおろと目を担任と翔を行き来し、最終的に耳まで真っ赤になりながら机に伏せたままの翔の姿を確認して、「はぅ」と可愛らしく溜息を洩らすと、とりあえず今は駄目だろうと諦めた紗結は担任の方へと視線を移すのだった。
そんな紗結の態度は露知らず、翔は先程の紗結の艶やかな唇と仄かに香るシャンプーの匂いを思い出してはまた耳まで真っ赤にし、まだ冷めやまない顔の火照りと鳴り止まない心臓の爆音。
(これから先、僕は綾瀬さんとまともに喋れる日はくるのだろうか......)
翔は机に突っ伏したまま「はぁー」と大きな溜め息を吐きつつ、そんなことを考えながら担任の言葉を右から左へ受け流すのであった。
ここにきて翔の唯一の親友、長谷川亮くんの登場です。
そして......翔と紗結との恋は先が長そうですね......
それに謝罪の理由は何だったんでしょう......?