二話―そして、崩れる何か―
お待たせしました。結局一週間経ってしまいました。
「れ、蓮ちゃん。そろそろ行くよ」
翔が蓮華を撫で撫でするのに夢中になっていると、不意に背後からそんな声が聞こえてくる。
翔がその声に振り返ると、そこには暑い日差しの影響なのか、普段より顔を火照らせた楓の姿があった。
その姿を見とめた翔は、やっと自分が今まで何をしていたのか気が付いたのだろう。翔は慌てて立ち上がった。
「あっ......」
翔が突然撫で撫でを止めてしまった所為か、その名残惜しさ故に蓮華から声が漏れる。
その声に振り向いた翔の視線の先には、手を先程まで撫でられていた頭の上に置き、少しでも余韻に浸ろうとしている蓮華の姿が映り込む。その仕草に思わず翔はにた~と表情が再び崩れ落ちる。
そうして、俺ってもしかしたら所謂ロリコンなのかもと翔が思っていると、翔の顔に影が差す。顔に射していたはずの太陽の熱がその一瞬で涼しさを覚える感覚に気持ち良さを覚え、顔を上げるとそこには軽く眉間に皺を寄せる楓の姿があった。
その表情からどうやらお冠なご様子である事を感じ取った翔であったが、その理由を逡巡するも、全く答えが見つからない。分かる事といえば、蓮華のそのあまりの可愛さに再び手が伸び、その頭を無意識の内に撫でてしまっている自分が居るという事実があるだけなのだが......。
「雨音......いつまでうちの可愛い妹ちゃんを撫でているのかしら......?」
翔は今度こそ手を引っ込める。翔の手が離れた事で再び「あっ......」という可愛らしい声が耳に入り込みはしたのだが、それでも必死に撫でたい衝動を抑え、その場に固まる。
何故か......?
翔が再び楓の表情を見たその時、目の錯覚だろう......しかし、翔の目の前に、確かにそこには般若の面があったのだ。これ以上撫で続けると弄り殺されてしまう......そんな恐怖がその表情から垣間見えたからだ。
「さぁ蓮ちゃん。お兄ちゃんにバイバイしよ?」
翔が身動き取れず、その場に固まっていると、いつの間にか楓は蓮華の手を引いて自分の下へと連れてきており、既にお別れの準備を開始していた。
「......まだ、遊びたい」
「ダメよ。私これからお稽古があるんだから」
蓮華はまだ遊び足りないのか、それとも家に帰るのが嫌なのか......下を向きながら唇を噛み、そんな我儘を言い始める。楓はそんな蓮華の態度に一息溜息を吐くと、蓮華の頭を撫でながら宥め始める。
(俺にも兄弟が居たらこんな感じだったのかな......)
翔はそんな姉妹の遣り取りに、自分にももし兄弟が居たとしたらと妄想し、仲睦まじい二人に羨望の眼差しを送る。
「じゃあ、蓮華......お兄ちゃんと遊ぶ」
「「......えっ(へっ)?」」
蓮華のその突然言い出した言葉に、楓と翔の二人ともからそんな呆けた声が口から漏れ出る。その表情も口を半開きにした状態で、かなりの間抜けな表情となっていた。
「お兄ちゃんと遊ぶ!」
そして、二人して唖然と固まっている中、蓮華は翔の下へとすててててーっと駆け寄り、楓にしていたようにがしっと翔の腰にしがみ付くと、再び翔と遊ぶ事を楓に強調していた。
その言葉にやっとの事で復帰した楓は、間抜けな表情から一転、少し顔を強張らせるとそのまま蓮華へと近づいていく。
蓮華は楓のその表情に怒られると思ったのだろう、翔の後ろに隠れると恐々とした表情で顔だけを覗かせて楓の様子を窺っていた。
完全に翔だけ置いてきぼりな展開が繰り広げられている状態である。
「蓮ちゃん、我儘は言わないの。お兄ちゃんにも迷惑でしょ!?」
「めっ、めいわくじゃないもん!」
「はぁ、もう......なんで今日に限ってこんなに我儘なのよ......」
窘めても頑として聞く耳を持たない蓮華の態度に、楓は「はぁ......」と深い溜息を吐くと、キリっと何故か翔へと睨みを利かせる。
(......え? なんで俺? これ......俺の所為なの!?)
突然標的が自分になった事で狼狽する翔。相変わらずのその視線の鋭さが怖過ぎて、足まで震えだしてしまう。そんな相手に理不尽な睨みだからといってもちろん文句など翔が言えるはずもない。翔はただただ黙って二人の成り行きを見守る事に徹する事にした。
「あ......まね、今日この後予定とか、その......あんの?」
「......ふぇ?」
成り行きを見守る事に徹すると翔が決めたその矢先、楓は何処かおどおどというか、普段の楓らしからぬ弱弱しい物腰で翔へと尋ねてきたものだから、翔は再び呆けた声を漏らし、間抜けな表情になってしまう。
「だから......もし今日予定とかないのなら、その......ちょっとの間、妹の面倒見てほしいなって......うー......もう......どうなのよ!?」
「......えっ? あっ......いや......」
弱弱しい物腰を続けていた楓だったが、恥ずかしくなったのか、しびれを切らしたのか......最終的には翔へと一歩前へ出て近づいて、顔を赤くしながら詰め寄ってくるそんな楓に、翔は当然狼狽してしまう。
(近い近い近い......近いよ! 一瞬ちらっと顔見えたけど、なんか顔真っ赤だし、それだけ必死......って事なのかな? う~ん......どうせ暇だし、蓮華ちゃんの面倒見るのは別にいいんだけど......)
そうして翔は自分の腰辺りにしがみついている蓮華へと視線を移す。
そこには、何処か心配気に自分を見上げる蓮華の姿が......。
(やばいやばいやばい......可愛い! なんでこんなに可愛いんだろう!?
これってもしかして......俺......ロリコンって奴?
いやいやいや、それはないはずだ。俺は綾瀬さんが好きなんだから! 違うに決まっている!
しかし、こんな可愛い子のお願いを断る訳にはいかないだろう!)
翔は暫し瞼を閉じて逡巡した後、その瞼を開くと蓮華の小さな頭の上に手を置いて軽く撫で、自分を見つめる蓮華へと微笑みながら小さく頷くのだった。
その仕草に楓は再び顔が朱色に染まっていたのだが、もちろん翔は気付かない。
楓は気持ちを切り替えるために頭を左右に振ると、「それじゃあ......」と前置きをして、自分へと振り向く翔へと言葉を紡ぐ。
「任せてもいいって事......でいいのかな?」
「......うん」
可愛らしく首を傾げて尋ねてきた楓の仕草に一瞬心臓が脈打ち、翔は内心でどぎまぎしながらもしっかりと頷きを返した。
その場に一瞬の静寂が訪れる。視線が交わったのはほんの一瞬の事だった。されど、二人にはその一瞬だけ、何故か時間が引き伸ばされた感覚を覚えた。
普段の緊張や恥ずかしさで固まった表情とは打って変わった、初めて見るその優しさ溢れる翔のそんな微笑み。
普段の冷たさを感じさせる凛とした姿とは打って変わって、恥ずかしさからくる人間味のある火照らせた楓のそんな表情。
普段とは違う、お互い見せないそんな表情を見たからなのか、何か心擽るものをお互いに感じ、自然と視線が離れなかったのだった。
「お兄ちゃん。向こうで遊ぼー」
しかし、そんな一瞬も空気を読まない小さな天使によって強制終了させられる。
翔と楓の二人は慌てて視線を逸らし、その視線をにこにこと実に嬉しそうな表情を浮かべる小さな天使――蓮華へと移すと、先程までの空気はどこへやら、二人ともが表情を綻ばせる。
「じゃあ雨音、私一時間くらいしたら戻ってこれると思うから、その間妹をよろしくね」
蓮華に手を引かれながら歩く翔に向かって、愛好を崩したままの表情で手を振る楓。その姿を振り返った翔が見とめると、再び早くなった自身の心臓の鼓動に首を傾げるのだった。
◇◇◇
「蓮ちゃんお待たせー」
楓と別れ、一時間たっぷりと蓮華という天使に癒された翔だったのだが、さすがに子供と一時間遊ぶというのはかなりの体力を食う事らしく、お疲れのサラリーマンの如く、ベンチでだらーっと疲れ切った表情浮かべる翔の耳にそんな聞き慣れた声が聞こえてきた。
翔が顔をそちらに向けると、まだまだ元気な蓮華が大好きなお姉ちゃんへと抱き着く瞬間が目に映った。
眼福だなぁ......と、翔が表情を綻ばせて、疲れからかぼうーっと眺めていると、楓と視線が交わってしまった。翔は気付くと慌てて視線を逸らそうとしたのだが、それよりも先に、何故か楓が慌てた様子でその視線を逸らしていた。
今日は本当に普段見せない楓の姿がてんこ盛りだなぁと思いつつ、そんな楓を見る度に何故か早くなる自身の心臓の鼓動に、さすがの翔もその理由に気が付き始める。
(いやいや、違う、違うんだ。俺は綾瀬さんが好きなんだ。決して桐崎さんの事なんか好きじゃ......ないよな?
はぁ......、確かに桐崎さんは美人だし、今日初めて見た桐崎さんの姿が、ちょっと......そう、本当にちょっと可愛く見えたのは認めるけど......俺は決して好きなわけじゃ......)
翔が意を決して楓を見つめると、向こうもどうやらこちらを見ていたようで、自然と視線は交わる。すると、やはり楓はその視線を直ぐに逸らした。
(駄目だ駄目だ! やっぱりどうしても可愛く見えちゃう! こんな事綾瀬さん以来初めてだ! どうしよう......俺、もしかしたら桐崎さんの事も......)
翔が頭を抱えて悩んでいると、不意に服の裾が引っ張られた。
目を開けると、そこには相変わらずにこにこと微笑む蓮華の姿があった。
「お兄ちゃん! 今日はありがとー!!」
そして、歯をキラキラと満面な笑顔で翔へと礼を述べる蓮華の姿に、翔は先程の悩みなど何の事やら、直ぐに頭から消え去っていた。
「蓮華ちゃん。こちらこそ、ありがとね」
そして、翔は蓮華をたっぷり撫でまわしながら微笑みかけ、やはり楓は、そんな姿に頬を朱色に染めていた。
「......雨音、その......私からもお礼。これ、家で使ってるお茶菓子だからよかったら」
暫く翔が蓮華に癒されていると、不意にそんな言葉が聞こえてきた。
翔がそちらに振り向くと、何処か落ち着かない様子の楓がそこにおり、茶菓子の入った箱をこちらに手渡そうとしてきたところだった。
翔は再び早くなる鼓動を感じつつ、一目見て高級そうな茶菓子に一度断ろうかと口を開きかけたのだったが、そんな事は許さないといった、有無を言わせない表情で楓は翔に茶菓子を押し付け、翔は言葉に詰まる。
「じゃ、じゃあ行くね。蓮ちゃん、行くよ」
そして、終始ちらちらとしか翔の顔を見ないようにしていた楓は、翔が茶菓子を受け取ったと確認するや否や、そう言葉にすると蓮華の手を取り、そそくさとその場から去って行った。
後に残るは呆然と立ち竦む翔へと、大きく手を振って笑顔で去りゆく蓮華の姿があるのみだった。
◇◇◇
「はぁ......、なんか変な休日だったな」
翔は楓達と別れるとそのまま帰宅し、大量に掻いた汗をシャワーで流すと、お昼を口にしてから午後からは外に出ることもなく、自室で漫画を見たり、ゲームをしながらも今日の事を振り返ってはぼうーっと過ごしていた。
そして、現在は夕飯を食べ終え、ベッドで横になり、完全に寝る体制に入りながら、再び今日の事を振り返っていた。
基本は蓮華の姿を思い出しては顔を綻ばせ、そして、時折楓の普段見せないしおらしい姿を思い出しては心臓が激しく脈打ち、それを忘れ去ろうと紗結の姿を思い浮かべては昨夜の夢の事を思い出し、なんともやるせない気持ちになっていた。
そうして暫く、翔が一日を振り返りながらやっと訪れてくれた眠気にウトウトし始め、そして気が付いたらいつものあの夢の中へと......
(......あ、れ? 綾瀬......さん......?)
――目の前に映るはチョークの跡がうっすら残る黒板
――端の少し欠けた木の板と軽く錆び付いた鉄で出来ている机と椅子
――後ろの方では聞き慣れたクラスメイトの楽しそうな笑い声
しかしながら、翔のその隣の席には想い人である綾瀬紗結の姿は何処にもなかった。
否、その表現は正しくない。実際には彼女は隣の席には居るのだ。
しかし、それは違うのだ。翔は直ぐに気が付いた。それは、翔のよく知る紗結ではないと。
そう。紗結は......、今隣に座っているその紗結は......、他のクラスメイトと同様、靄の掛かる姿だったのだ。
つまり、今までこの夢を共有してきた、現実の世界の紗結ではなかったのだ。
その事実に、翔は昨夜の自分の行動を思い出し、後悔する。いや、自分の行動の無さに後悔する。
あの時、確かに嫌な感じがしたのだ。このまま別れると何かが崩れ去ってしまう......そんな危機感があったはずだったのだ。
しかし、それだというのに、昨夜はまた明日話せばいいだろうと先延ばしにしてしまったのだ。その結果がこれである。
(もしかしたら......このまま綾瀬さんとは......)
そんな考えたくもない事が頭を過ぎり、翔は頭を机に叩きつける。
そんな事実は受け入れたくない、という現実を認めたくない気持ち。
昨日の自分は何をやっているんだ、と責める気持ち。
そんな気持ちを胸に、翔は何度も頭を机に叩きつける。何度も何度も......。
しかし、夢の中だからなのか、まるで痛みが感じられない。それさえも嫌になってくる......。
翔は手を伸ばしてはすり抜けてしまう、そんな紗結の姿に、目頭が熱く込み上げてくる感覚を覚える。
再び、翔は顔を俯かせる。
(こんな夢なら、もう見たくないよ......早く覚めてくれ......)
そして、翔が現実逃避しようと項垂れていると、不意に頭に温もりを感じた。
それは、確かに何処かで感じた温もり。優しさが自然と伝わってくる温もり。
翔は顔を上げる。
そこには、見慣れた人影が......。
翔は、その人物から送られる温かな温もりに、自然と頬に涙が伝っていた。
翔くんはやはりロリコン!?
そして、楓さんの翔へ向けるものは、いったいどういったものなんでしょうね。
そしてそして、翔と紗結との夢の物語に暗雲が......
次も多分一週間後です......




