十八話―綾瀬紗結の恋心―(中編)
紗結の過去話が続きます。
(ここは......どこ......?)
紗結は見慣れない景色の中に居た。
周りを見渡しても、やはり見覚えのない景色。
それに、今自分が何故此処にいるのか......今まで何をしていたのか......紗結は全く思い出せずにいた。
何も思い出せない事で、知らない場所にいるという現実に不安と恐怖が紗結を包みこむ。
そんな不安に駆られながらも、この景色には何処となく見慣れている部分が多数だが見られ、少しだけだが不安が削られた。
見覚えはないが、目の前にあるのは確かに学校の教室にある黒板。
学校の物だろうが、普段慣れ親しんで座っている物よりも明らかに高い、机と椅子。
(中学生......ううん、たぶん......高校生かな?)
この教室らしき場所に居るのは自分一人ではなく、高校生らしき人達が制服姿で席に座っていた。
小学六年生である身としては、高校生というのはかなり大人である。そんな人達に囲まれているという今の状況に、紗結は更に恐怖に襲われる。
そして、その大人という恐怖から、一つの恐怖が思い起こされた。
三十代から四十代くらいの中肉中背の男の下卑た笑み。その表情のまま、腕を掴んで離さない。放してくれない。
そして、暗くなった景色の中、更に深い闇に包まれる脇道へと連れ込まれていく......
「いや......やだ......やめて............」
寒くもないのに全身が震え、涙が頬を伝うのを感じる。
紗結はその出来事を思い出さないように必死に首を振るが、あの男の下卑た表情が脳裏から離れてくれない。
何度も何度も頭を横に振り、涙ながら「やめて......」と声を漏らす。
それでも離れてくれない目に焼き付いた光景に......紗結は一頻り泣き続けた。
しかし、蘇る記憶の中に一瞬、少年の顔が呼び起される。
前髪のくるっとした同年代と思われる少年。
そして、繋がれた左手......
紗結は俯けていた顔を上げ、左手を見つめる。
手を開いては閉じ、開いては閉じ......無いはずの温もりをその手に感じとる。
それは、紗結が望んでいたのかもしれない。
もしかしたらこの恐怖からまた救ってくれるのかもしれないと......
紗結は見つめていた左手から、不意に左隣に座る人物へと視線を向けていた。
そして、何故今まで自分は気付かなかったのだろうか......と、紗結は過去の自分を叱責する。
紗結の隣に座っていた人物は、周りにいる高校生らしき人達とは明らかに違っていた。
両親でもなく、友達でもない。幼なじみの雅也でもない......。一度しか会った事がない......それなのに今紗結がその温もりを心底求めてやまない人物。
自分と同じくらいの背丈で、同じくらい幼い顔。気弱そうな表情を浮かべる前髪のくるっとした天然パーマの少年。あの時......自分を助け出してくれたあの少年と瓜二つの少年が、今、自分の隣の席に座っていたのだった。
紗結はその姿を目に捉えた瞬間、今まで紗結を包み込んでいた不安や恐怖といった感情は、いつの間にか霧散していた。そして、先程まで流していたものとは全く違う涙を、紗結の頬を伝っていたのだった。
紗結は再び少年と出逢えた喜びに、花が咲いたかのような笑顔になっていた。
しかし、その表情も直ぐに訝しそうな表情に変わる。
(なんだろう......なんか後ろの風景が霞んで見える......?)
先程まで置かれている状況に全く理解が出来ず、否、困惑し過ぎて理解しようともしていなかったのかもしれない。紗結は注意深く周りを見ていなかったのだ。
そのため紗結は気付かなかったのだが、少年は何処かぼやけた存在で、後ろの風景が霞んで見えたのだ。
視線を周りへと移すと、どうやら周りの人達も皆少年同様にぼやけた存在で、風景の至る所にも靄が掛かっていることが見受けられた。
そんな謎の光景に首を傾げながらも紗結は少年へと視線を戻す。
少年は先程からずっと、何処か虚空を眺めていた。
そこから瞬きをすることもなく、一切表情を変えることもないまま、唯々ぼーっと虚空を見つめていたのだった。
そんな明らかにおかしな現状だが、紗結は少年にお礼の言葉を述べられなかったことをあの後からずっと悔やんでいた。そのため、今この場で彼にお礼の言葉を述べようと意を決して話し掛ける。
「あっ.......あの............」
顔が火照っていくのを感じながら少年を見つめ、言葉を掛けてみるも少年に反応はない。
肩を叩けば反応してくれるかと恐る恐る左手を彼の右肩に触れようとしたが、まるで雲を触ろうとしたかのようにすーっと、通り抜けてしまった。
紗結は唖然と固まる。現状の理解が追いつかないようだ。
紗結は固まりながらも思考を巡らす。
(ちょ......ちょっと落ち着こう。
どうやら、あの子は本物じゃない。
じゃあ......いったい何? というか......此処はいったい何なんだろう?
......うん、やっぱり考えてもわからないや。
わかることは......あの子らしき人が隣に居てくれる事......
なんだか......それだけで今は安心できる。
......うん、それだけでいっか)
さすが天然少女の紗結である。
今置かれているよくわからない現状を悩むことよりも、あの少年らしき靄が傍に居てくれる事、唯それだけ......唯だそれだけなのだが、安心出来るのだからそれでいいと思えてしまうのだからさすがとしか言いようがない。
そうして紗結が反応もしない少年を、唯微笑ましそうに眺めていると、何処からか『ぱりんっ』と、音が響き渡り、紗結は驚いて飛び跳ね、何事かと周りを見渡すも景色は色褪せていくだけ。
再び不安に駆られ、安心を求めようとしたのか必死に左手を少年へと伸ばす。
何度も何度も掴もうとすれど、やはりその手は通り抜けてしまう。
「いや......いや......いやーーーー!」
子供が泣きじゃくるように紗結は叫び続けたが、不意に意識は閉ざされた。
◇◇◇
「いや......いや............う゛......ん............?」
紗結の瞼にカーテンから覗く光が差し込み、眩しそうに目を開く。
そこには普段見慣れた天井があるだけ。
伸ばしていた左手を下ろし、両の眼を手の甲で拭き、溢れていた涙を拭う。
紗結は起き上がり、ぼーっとさっきまで見ていた風景を思い浮かべる。
いったいなんだったのだろう......そう思うも、どうやら夢であったことを紗結は理解出来た。
そして......夢の中でだが、再び少年に出逢えた......その事を思うと嬉しくなり、自然とその表情には笑みが零れていた。
(またこの夢が見れたらいいな......)
そう思いを馳せながら、紗結は着替えを始める。
これから、この夢をずっと見続けるようになるとも知らずに......
◇◇◇
紗結は何度目......いや、何十回目になるかわからない夢を見ていた。
その夢はいつも同じ教室で同じクラスメイト達......そして、同じ風景が広がっていた。
しかしそこに、唯一違うものがある。
それは隣の人物。
いつか、紗結を救ってくれた少年、唯一人だけが違っていた。
その少年は紗結が成長するに連れ、時同じく成長しているようだった。
紗結は始めの内はその変化に全く気付かなかった。
救ってくれた少年が、紗結の知っているその姿のまんまで隣に居てくれている......そう思っていたからである。
しかし、その変化は中学に入った頃に気付いたのだった。
その夢の中で自分自身が着ている服が、中学に上がったと同時に小学校の制服から中学校の制服に変わっていた。
そして、その少年も学ランのような制服に変わっていたのだ。
その姿の変わり様に驚き、紗結は改めて少年をまじまじと見てみた。
今まで気付かなかったが少しだけ、本当に少しだけだが大人びた顔立ちに成っているように紗結には感じられた。
紗結はその変化に心打たれるものを感じた。
あの事件以来、紗結は少年のことを探していた。
始めは、同じ小学校の中で探してみた。他クラス......他学年......、けれど見つけることは出来なかった。
それ以外にも子供が集まりそうな公園やショッピングモール......雅也の協力もあり、出逢ったあの場所でも探してみたのだが......やはり見つけることは出来なかった。
しかし、中学に上がったことで少年の制服が変わったということは、この夢がもし事実と一緒ならば、少年は紗結と同年代である。ということが証明された。
その事実に喜びを感じ、少年を探し出すために制服を凝視してみる。
しかし、紗結には何処の学校の学ランか全く見当が付かなかった。
いや、学ランなんて学校毎でそんなに違いがない。それでいてこの夢の中ではぼやけてしまっているのだ。
紗結がよく見たところで何処の学校の物なのか断定することは出来ないだろう。
そして、紗結は少年が何処の学校の生徒なのかを考えるのを諦めた。
普段通り触れられない、唯々虚空を眺める少年を......紗結は隣の席から微笑ましそうに見つめるのだった。
◇◇◇
そうして紗結は、中学でもその少年を見つけることが出来ぬまま、高校に進学していた。
同年代の生徒ならば、近くの中学を当たればいずれ見つけることが出来ただろう。
しかし、その少年を探し出すという夢は、中学三年間の内に到頭叶えることは出来なかったのだった。
それはというのも本人自身は気付いていないようだったが、紗結は中学に上り、日を増す毎にその美しさに磨きが掛かっていった。
そんな大人びた美しさを持つ紗結は周りからマドンナ扱いである。
成長するにつれ、多方面から紗結へとアプローチが広まる中、その者達を鎮める者がいた。
紗結の幼なじみ――雅也である。
そうして雅也が沈めていく中、紗結が他校の生徒に接触しようとしている事実を知った雅也は、鬼気迫る形相で紗結を止めていた。
過保護な雅也は、もし自分が居ないところで紗結にもしものことがあれば......と、想像してしまったからである。
紗結はそんな雅也の気持ちなど露知らず、能天気に「大丈夫大丈夫~」と、言っていたのだが、雅也が過去に起きた事件の事を触れると、紗結は顔を蒼褪めて反論できなくなり、渋々ながら雅也の言う事を素直に聞くしかなかった。
それでも紗結は、少年に会いたいがために反抗してみた。
雅也も一緒になって探すのを手伝えばいいと......
そう紗結は自然と上目使いで申し込んだのだったが......
「誰がそんなことするかっ!」
突然と雅也はキレだし、いつもならば渋々ながら紗結の頼みを聞いてくれる雅也の姿を知っている紗結はその様に驚きを隠せず、そして、大切な雅也を怒らせてしまうのならば......と、紗結は少年を探すのを断念したのだった。
そうして中学三年間という長い年月が過ぎ去り、紗結は高校に進学していた。
そして......そこで......彼女は待ちに待った運命の出逢いを果たしたのだった。
さて、次で紗結の話は終わる予定です。