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――見てはいけない。
本能がそう警告を発している。
しかし、それに反して奈緒の手はマウスを操ってカーソルを動かし、その文字をダブルクリックしていた。
“小さな獲物は飽きちゃった。次のターゲットは今回よりもずーっと大きいの! きっと聞いたらみんなも驚くだろうな。
でも、ここでバラしちゃうとつまんないから、クイズにするよ♪
ターゲットを当ててみて!
当てられたら、……イイコトしてあ・げ・る☆
ヒントは、奈緒より小さいってこと。それと……、夢の網にかかってて、表ページにも出てたりする、……かも!?
時間制限はうちがターゲットを狩り終えるまで。うちとイイコトできるのは先着一名様だから、頑張ってね!”
開かれた画面には挑発的な文章と、沙月のサブアドレスと思われるものが書かれていた。
いつにも増してテンションが高い文章と、『夢の網』なる言葉が気になる。
ゴロのことも含めて問い詰めようと、奈緒は携帯電話を手に取った。
ブログのことはブログ用のアドレスに送るべきだろうと考えて、そのページにあったアドレスを打ち込んでメールを送る。
“今日サツキのブログ見たよ! byナオ”
「……よし」
送信完了の文字を見届けると、一度ため息を吐いた。まだ返事も来ていないのに、奈緒の精神的な疲労はかなり蓄積されている。
早く返信が来ないものかと幾度も携帯電話に目を落とすも、その度に画面には着信がないことが示された。返信がないという事実に直面していると、奈緒は安堵している自分に気が付いた。
――変なの。自分からメール送っといてドキドキしてる。
小さく顔を歪めて苦々しい表情を作るが、それは自分の中の恐怖を紛らわせるための行為であることを奈緒は理解してもいた。そうでもして気を逸らしておかなければ、そのままおかしくなってしまうのではないかとも思ってしまうのだ。
来るな、来るなと念じながら、視線だけは携帯電話に据えている。
そのままどのくらいの時間が経ったのだろうか。ようやく沙月からメールが返ってきたことを知らせる音楽が鳴り、色とりどりの光が明滅する。
“おっ、ナオも来てくれたんだ!
あれ、ホントにやってるんだよ! すごくない!?”
まるでイタズラの成功を喜ぶ子供のような本文。
元から子供っぽいところはあったけれど、沙月はこんなことをして喜ぶほど子供ではないはずだ。
“はは……(苦笑)ところでさ、クイズのことなんだけど……”
沙月の話を曖昧に受け流して、奈緒はひとまず気になったことから聞き出そうと決めた。
“答えわかった?”
“ううん。『夢の網』って何?”
“ああ…ごめん。ナオには言ってなかったね。
この前、追いかけっこの夢を見てるって話したよね? あれのことだよ☆
あの夢が、『網』なの”
口元を手で覆いながら笑うような可愛い顔文字が添えられたその文章からは、何故か不穏な空気しか感じられなかった。
しかし、それを追及することもできない奈緒は、平然を装った文面を返す。
“マジ!? じゃあ、そのターゲットって私だったり?”
――これがメールでよかった。実際の会話だったら怪しまれちゃうよね……。
現代の問題として挙げられることの多い、メールでの感情伝達の難しさは、今だけは利点だと思えた。
軽い冗談を交えたつもりのメールだった。それなのに……。
“大正解! さすがナオだね。
じゃ、ナオには今夜、イイコトしてあげる!”
もちろん、文面から全ての感情を読み取ることなど到底できない。それでも、分かることがたくさんあった。
沙月のターゲットが自分であること。『イイコト』をされるのも自分であること。そして、その『イイコト』は必ずしも自分にとって良いことであるとは限らないこと。
――カタン。
携帯電話が手から滑り落ちて床に転がる。
全身の力が抜けた。
力が全く入らない。
ガクガクと全身が震える。
パッとパソコンの画面が切り替わった。
長時間放置していたために、自動的に画面がスリープ状態になったのだ。
そのことで初めて、電源を切り忘れていたことに気が付いた。
電源を切ろうと震える手でマウスを操作していると、誤って別の所をクリックしてしまったらしい。
新たに読み込まれて表示されたのは、『殺鬼の動物日誌』のトップページだった。
そこには、ページが更新されたことを示すアイコンが出ている。
アイコンがあるのは……、『次のターゲット』だ……――。
訳が分からなくなった奈緒は、知らぬ間にその文字をクリックしてしまっていた。
見たくないと思っているのに、眼球は意思に反して文字を追い、脳味噌はその文章をあっという間に認識した。
“応募は締め切りました。
今回の正解者は……片山奈緒さん!
彼女はうちの大親友で、次のターゲットです!!
すぐに迎えに行くからね。ナ・オ☆”
フゥゥゥン……。
真の抜けた音が響き、画面が真っ黒になった。
奈緒の手にはパソコンのコードが握られている。
ああ、抜いたんだ、と自覚するには数秒を要した。
少ししてからようやく、お父さん、怒るかな? という思考が頭をよぎる。
すると、頭に怖い顔したお父さんの顔が浮かんだ。それはしばらくすると、数学の先生の顔になった。クラスメイトの、押し殺した笑い声が奈緒を包み込む。「うるさい」と怒鳴ろうとした時、教室に居た人の顔がぼやけ、沙月――否、“殺鬼”の顔に変わった。
何十もの同じ顔が、奈緒を見据えている。しかも、その手にはナイフが握られていた。
奈緒はパソコンのある部屋を飛び出して、そのまま自分の部屋に飛び込んだ。布団へ潜って、必死に目を閉じる。
しかし、緊張で神経が張り詰めていて、家の外の小さな物音さえも気になってしまった。
瞼の裏に焼き付いた“殺鬼”の顔や、耳に残るクラスメイトたちの笑い声が頭の中を渦巻く。
昨日そうしたように、今日も眠ってしまおうと思ったが全く眠れない。目を閉じれば恐怖が蘇った。
まだ夕方であるし、無理に眠る必要もないだろうと奈緒はベッドに横たわって気持ちを落ち着けようとする。
日暮れの赤い陽光が差し込む部屋の天井をぼんやりと見つめていると、急に眠気に襲われた。