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学校のそばの民家の塀を、黒い塊が滑るように動く。
遠目には塊にしか見えないそれは、滑らかな動きで塀から塀、そして屋根へと見事に渡っていった。その体の後端には滑稽なほどに短く、ボサボサとした毛の尻尾がついている。
――あの塊、あれはきっとゴロだ。
奈緒は直感的に理解していた。
この辺りのボス猫として知られるゴロは、喧嘩で千切れてしまったあの尻尾が目印となっていた。それを見間違うはずもない。
ゴロを追いかけて沙月も走る。その顔は、今日見たブログの“殺鬼”の顔だった。
ゴロは、その丸っこい見た目からは想像できないほどに俊敏に走り回る。しかし、それを追いかける沙月も負けてはいなかった。
普段のゴロなら人間など恐れないはず。むしろ、何もしていない人たちにまで襲い掛かるほど好戦的な性格で知られていた。
――そんなゴロが、どうして……。
さすがに、異様な雰囲気を纏っているとはいえ、ゴロはそれだけで沙月から逃げ出すようなやわな猫ではない。奈緒がゴロと沙月に気付くまでの間に何かあったのだろう。
奈緒が考えを巡らせていると、沙月の手の中で何かが光った。
――ナイフだ。
奈緒が気付いたのは、それを沙月が投げた後だった。
沙月の手から離れたナイフはゴロ目がけてまっすぐに飛び、屋根へ飛び移ろうと伸びあがった丸い体の、ちょうど心臓があるであろう辺りに命中した。
ナイフに貫かれたゴロは、グエ、とも、ギャ、ともつかない不気味な声をあげて身をよじり、そのままバランスを崩して塀からどさりと落ちた。
「あっ……!」
奈緒は思わず声を上げながら手で顔を覆い、その場に膝を崩した。
「お……、おはよう」
奈緒はいつも通りを装って沙月に声をかけた。
しかし、隠しきれない動揺が声にまで滲み出す。
沙月が凶行に及んでいることは、奈緒も知らないわけではなかった。だが、文字と静止画だけで表されたブログで目にするのと、音声や動きがリアルに伝わってくるのを目の当たりにするのでは大きな違いがある。
例えそれが、虚構でしかないと分かっている夢の内部での出来事であっても、だ。
「……あ、おはよ」
沙月は、そんな奈緒の異変に気付くこともなくいつも通りの挨拶を返してきた。
そして、いつもと同じように通学路を歩き始めた。
『いつもと同じ』であること。
それは、今の奈緒にとって何よりも大切なことだった。
今朝見てしまった悪い夢を打ち壊すためであり、親友を親友であると信じるためでもある。
これまで何の話をしていたのかは上の空のままに聞き流して覚えていないが、沙月の口調が突然変化したことにはすぐに気付いた。
「……ねえナオ、今もまだ見てる?」
「ん? 何を?」
小首を傾げながら答えた瞬間、『ブログ』の三文字が奈緒の頭をよぎる。
――ううん、そんなはずない。だって、沙月は私がブログを見たことは知らないはず。
知らないなら「まだ」なんて言い方しないよね……。
奈緒が頭の中で否定するのと同時に、夢でゴロを追いかけていた時の沙月の凶暴な表情が思い出された。
「――追いかけっこの、夢」
思考と一致する言葉に、一瞬奈緒は言葉を失った。上手く息が吸えなくなり、心臓まで止まってしまったのではないかと不安になる。
「……ナオ? 何かあったの?」
沙月が顔を覗き込んできた。
刹那、思い出したかのように拍動が戻ってくる。
奈緒の心臓は、自身も驚くほどに激しく暴れていた。
――……どうしよう。どう答えるべきだろう。
見たと言えば、今朝の夢のことを話さなければいけなくなるかもしれない。
見ていないと言えば、いらぬ勘ぐりを受けるかもしれない。まして、親友相手に嘘を吐くなんて気が引けるし、したくもない。
奈緒は悩んだ。
悩んだ末に、ようやく絞り出すように言葉を紡ぎ始める。
「う……、うん。前は結構見てたけど、最近は見てないかな。……急にそんなこと聞くなんて、なんかあったの?」
「ん? ……ううん。なんでもない。ちょっと気になって……、ね」
奈緒の苦肉の策。それは、半分を事実、半分を虚構にすることだった。
沙月は一瞬笑って見せたけど、その後は俯いて黙り込んでしまう。
――嘘がバレちゃったかな? やっぱり、正直に今も見ていると言うべきだった……?
不安になった奈緒は、横目で沙月を見た。
沙月はギリ、と唇を噛みながら、ぶつぶつと何か呟いている。いけないものを見てしまったと思った奈緒は、慌てて視線を足下へ戻した。
「……くそっ。……だから……と思ったのに……。ゴロは絶対に……。今日……す。夢は……つに……」
切れ切れに沙月の言葉が聞こえてくる。その内容に、奈緒は耳を奪われた。
――ゴロは絶対に……、何だって? 沙月は、夢は何と言ったの?
もしかして、……現実? 夢が現実になるとしたら? 沙月はゴロを……――。
根拠もない想像が、どこまでも広がる。
――そんなことない。あるはずがない。
そう自分に言い聞かせようとした時、沙月が一層低い声で呟いた。
「――殺す」
ドキン。
――沙月は私の心を読んだの?
奈緒の身体は小刻みに震え始めていた。
まともに沙月へ視線を向けることもできない。できれば、この場を逃げ出してしまいたいくらいだった。
その時、濁ったような猫の鳴き声が聞こえた。
視線を動かしてみれば、そこにいるのが件のゴロだと分かった。
「――っ、逃げて!」
奈緒はとっさに叫んでいた。
それは、ゴロに向けた言葉だ。
逃げなければ沙月に殺められる。そんな気がしてならなかったのだ。
しかし、その言葉に反応したのは沙月の方だった。視界にゴロの姿を認めると、パッと身構える。
その動きに気付いたゴロは、そそくさと逃げ出した。
――……あれ?
奈緒はそんなゴロに違和感を覚える。
「……ナオ」
ドキン。
名前を呼ばれて、一層鼓動が激しくなった。
顎が震えて歯がガチガチと鳴る。のどが張り付いて上手く声が出せない。
それでも、奈緒は沙月の機嫌を損なわないように努めて明るく答えた。
「な……、何?」
「ゴロ、なんか変だったね。いつもより大人しいみたい」
沙月が無表情に呟く。
どうやら、沙月も奈緒と同じことを考えていたようだ。
いつもなら果敢に襲い掛かってくるゴロの異変に、二人は首をかしげるばかりだった。
「……あ。大変っ!」
腕時計を見た沙月が声を上げる。
「どうしたの?」
「時間っ。遅刻しちゃうよ」
言うが早いか、沙月は奈緒の制服の袖を引いて走り出した。
しかし、それは夢の中で見たような人間離れした走りではない。
いつもの沙月の姿だった。