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沙月と同じ夢を見たという話をしたあの日から、数日が経ったある日のことだ。
奈緒は再び例の夢の中にいた。
初め、奈緒はその状況を認識できなかったが、次第に近づいてくる足音と聞き覚えのある「待てぇぇぇぇ……」と叫ぶ声に一気に記憶が覚醒する。
――まずいっ……。
奈緒は焦った。学校を飛び出したのはいいが、そこから先はどこへ向かえばいいのか分からない。
「……っ」
とにもかくにも、ここで立ち止まっていては駄目だ。
奈緒は意を決すると地面を強く蹴った。
奈緒の足は、自然と自宅方面の住宅街へと向く。奈緒の家がある近辺は比較的入り組んだ構造となっていて、土地勘のない人間にはなかなか厄介な場所だった。
それを利用して相手を撒こうと思ったのだ。
しかし、これが実際のところではどれほどの効果を示すか分からなかった。
霊的な何かであれば宅地の塀など簡単にすり抜けてしまうだろうし、飛行能力を持つものであれば上から見下ろすだけで面白いくらいに奈緒の動向がつかめてしまう。
そのことを思考する余裕すらも失った奈緒は、息を切らしながらも走り続けた。
走り続ける中で、奈緒は違和感を覚えていった。
――何が、何が違うの?
空の色も、風景も、何もかもがいつもと変わらない。そのせいで、これが夢であるということを忘れてしまうほどだ。
だが、決定的に何かが違う。
奈緒は胸の底から湧き上がるようなどす黒い不安の塊に押し潰されそうになっていた。
徐々に足を動かす速さは低下し、二歩、三歩と足を進めた地点でついに立ち止まってしまう。
呼吸が荒く、視界がはっきりとしなかった。
奈緒は近くの家の塀に身を寄せると、ずるりとそこへへたり込んでしまう。
――早く……、早く逃げなくちゃ……。
気持ちだけは前に進むが、体は言うことを聞いてはくれなかった。
足音が、声が、近づいてくる。
「……っ、や……」
奈緒は思い身体を引きずると、塀の中へ逃げ込んだ。
ここの家主に見つかれば、何を言われるか分からなかった。
けれど、通りに堂々と座り込んで追跡者とかち合わせるよりは不法侵入をして怒られる方が何百倍もマシに思われた。
できる限り体を小さくして、塀の近くに寄る。そして、息を殺して敵の接近に備えた。
ピピピピピ……――。
けたたましい音に叩き起こされた奈緒は、全身に残る疲弊感に目を見張った。
本当に走り続けていたかのような筋肉の張った感覚と、全身をぐっしょりと濡らす汗。おまけに息まで上がっている。
そのどれを取っても、夢を見ていたとは思い難い。
しかし、奈緒が現在いる場所は間違いなく見慣れた自室のベッドの中だった。
「奈緒、起きてるの?」
不可解なこの状況を追及する暇もなく、起床を確認する母親の声が聞こえてくる。
奈緒は一つ返事をしてベッドを抜け出した。
「っ……」
立ち上った瞬間に、足への負荷に思わず声が漏れる。
妙な生々しさに顔をしかめた奈緒だったが、そうする間にも母親が彼女を呼ぶ。
奈緒は返事をしながら部屋を出た。
奈緒は、その日を境に週に一、二回ほど追いかけっこの夢を見るようになった。
夢と夢の間隔は開いているはずなのに、その夢を見たときには前の夢の内容をしっかりと覚えている。しかも、夢の世界に入った時に居る場所は、前回夢から醒める前にいた場所とぴったり一致していた。
ゲームか何かをプレイしているような感覚でもあったけれど、不気味さは否めない。
塀の裏に隠れた夢の続きを見た日は、心臓が爆発するのではないかと心配になるほど激しい動機に襲われた。
けれども、案じていたようなことは起こらず、いつの間にか足音と声は聞こえなくなっていた。
――どうやら、撒くことに成功したらしい。
その日から、奈緒が追跡者の足音を聞くこともなくなり、他にこれといって変わったことが起こるわけでもなくなった。
ただ、見慣れた街並みの中をぶらぶらと歩いて時間を潰すだけだ。その中で知ったのだが、この夢の中には自分以外の人間はいないらしい。
初めに感じた違和感の原因もこれだったようで、寂しくないと言えば嘘にはなるがいままでほど恐怖を感じることはなくなった。
初めのうちはリアルな世界に感動を覚えていた奈緒であったけれど、誰かと会うわけでもなく一人でうろついている夢などすぐに飽きてしまった。
加えて、適宜休憩を挟まなければ翌朝にその疲労がどっと押し寄せることになる。そのせいで夢の中でも眠る、という摩訶不思議な状況に陥ることも多々あった。
そのため、奈緒の興味の対象は無意味な夢よりも、沙月に関する噂の方へと見る間に移っていた。
そこには、噂の内容が内容なだけあるということも少なからず影響していたことだろう。
奈緒がその話を小耳に挟んだのは、つい二、三日前のことだった。
どこからともなく発生したその噂は、沙月が自分のブログで近所のペットたちを虐めている画像を載せたり、その様子を書き込んだりしているらしいというものだ。
クラスメイトからその真意を問われた沙月は、あっけらかんと言い返す。
「ちょっとぉ、うちがそんなことするように見える?」
裏表のない笑顔でやんわりと否定され、クラスメイトたちもそれ以上の追及をすることはなかった。
小学生の時から一緒にいる奈緒にも、それがありえるはずのないことだと断言できた。
――沙月は正真正銘の動物好きだし、その沙月が動物を虐めるはずがないよね。
その時はそう思っていたのだが、自宅へと帰り着いた奈緒は携帯電話の過去の受信メールを探していた。




