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「――……だから、P62の公式を用いて……」


 授業は半ばを過ぎただろうか。

 時計の針が時を刻む音ばかりが大きく聞こえ始め、それに比例するように先生の声が遠ざかっていく。


 起きなきゃ、という意思に反して、まぶたはどんどん重くなった。あくびも出ないぐらいの眠気が奈緒を襲う。

 頬杖をついて顔を支えようとしても、少し時間が経てばずるりと滑り落ちてしまったし、真っ直ぐに椅子に座っているだけでも、体が大きく前後に振れて舟を漕いでしまった。


 こうなってしまうと、もう奈緒にはどうしようもないということが非常によく分かる。

 奈緒が諦念した次の瞬間、瞼がこれまでの倍ほどの重さになるのを感じた。

 体がふわりと浮かんだようになって、頭が徐々に降下し始める。その時には、もう周囲の視線を気にする余裕もなくなっていた。


 奈緒は衝撃を和らげるために、机の上に両腕を重ねる。

 そして、腕にのしかかる重量感と、柔らかい制服の上に額が着陸する感覚とを遠くで受け止めた。




 目を開くと、奈緒は音楽室の前の廊下にいた。

 足音が聞こえる。……こっちへ、近づいてくる?


 ――逃げなくちゃ。


 本能的にそう思い、何かにせかされるように走り出した。三階、二階、一階と階段を駆け下りる。

 玄関へ辿り着くと、靴を履き替えるのももどかしく、そのまま外へ飛び出した。

 足音の主も玄関の近くへ来たようだ。

 奈緒は意を決して街へと走った。


 背後で、玄関の戸の開く音が嫌に大きく聞こえた。





「……やま、片山。……おい、片山!」

「は……はひっ!?」


 奈緒の素っ頓狂な声に、教室がクスクスと押し殺した笑いに包まれる。

 さっきまであれほど危険だと言っていたのに、奈緒は居眠りをしてしまったようだった。しかも、きっちり先生に見つかっている。

 このまま説教に突入するのかと怯えていた奈緒に向けられたのは、存外に静かな声だった。


「片山、前に出て答えを書け」


 黒板の前で腕組みをする先生に指名され、奈緒は耳まで赤くなるのを感じる。

 それがただの偶然か、日ごろの真面目な態度の賜物かは図り知ることができなかったが、説教は免れたようだという認識を持った。


 奈緒は若干の安堵と共に席を立つ。

 目は黒板に記された数式に向けられ、寝ぼけの残る頭で必死にそれを処理しようとした。

 そうしてクラスメイトの視線を集めながら机の間を抜けて黒板の所へ出たものの、そこに並ぶ数字と文字の羅列が何を意味するのかが奈緒には全く分からなかった。


「す……、すいません……。分からないです……」


 しばし黙考した後、手に持ったチョークを下して奈緒はうつむいた。

 せめて一文字でも、とは思ったが数式の初めにあるMを横向きにしたような記号の意味が分からない。その時点で、奈緒は諦めの境地に達していた。


 ――いくらなんでもこれは許されないだろうな。


 いつ怒声が飛んでくるかとびくびくしていると、奈緒の肩に手が乗せられた。


「次からは寝るなよ」

「……っ、はい」


 その一声で、さっきまで押し殺されていた笑い声は、大きく、開けっ広げになった。


 ――……これで終わり?


 何とも拍子抜けしてしまうが、クラスメイトたちの笑い声から一刻も早く逃れたいという気持ちが先立った。

 奈緒は、黒板へ出た時の倍の速さで歩いて自分の席へ向かった。


「吉田。代わりに解いてくれ」

「はい」


 先生はまた別の生徒を指名する。

 その間に騒がしくなった教室を先生の声が静める。


 その後は、先生の持つチョークが黒板に当たる、カツカツという音を聞きながら、奈緒はぼんやりと時計を眺めていた。

 せっかちな秒針は休むことなく走り続け、のんびり屋の短針と長針を何度も何度も追い抜いていく。

 先生が正しい答えを書き終えるのとほぼ同時に、授業終わりのチャイムが鳴った。





「ナオ~あんた、もうちょっと上手く寝なきゃ! 危うくうちまで見つかるとこだったじゃん」


 ニコニコしながら沙月が奈緒の席へ歩いてくる。


「へっ? ……あ、ああ……ごめん。ってかサツキも寝てたんだ……」


 答えている間にも奈緒の頭は再び重くなり、まぶたも開けていられなくなった。


「ちょっと、ナオ? あんたまだ寝るの?」

「うーん……、眠くって……。ごめん、五分……五分だけ寝させて……」


 次の授業は……――。


「ナオ、次体育だよ! 起きて。行くよ」


 沙月が奈緒を思いっきり揺さぶっている。

 その時、さっきまでの眠気が嘘みたいに吹き飛んだ。朝、寝坊したことに気が付いた時のようにぱっと起き上がる。


 ゴン。


 鈍い衝撃と大きな音が教室に響いた。


「いたっ」

「いっ、つ……」


 二人の声が揃う。

 奈緒は頭を押さえて再び突っ伏した。沙月も、あごを押さえて奈緒の足下にうずくまっている。


「ナオのバカっ。急に起き上がんないでよ!」

「ごめん。……って痛たぁ……」


 頭を上げて、とろとろとジャージの入ったバックへ手を伸ばす。

 この時点で、休み時間は残り五分だった。


「行こっ……」


 授業が始まる前から満身創痍の奈緒たちは、めいめいに痛む部位をさすりながらのろのろと階段を降りて体育館へと向かった。

 しかし、そんなスピードで授業に間に合うはずもなく、チャイムの後に更衣室から飛び出した奈緒たちが怒られた事は言うまでもないだろう……。

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