10
その日から奈緒は眠れなくなった。
次に眠れば、奈緒に待っている未来は“殺鬼”が襲ってくる瞬間に違いない。
これまでだって、夢の続きを見てきたのだ。しかも、その頻度はこれまで以上に増している。
そんな気がしてならなかった。
けれど、夢から目覚めて号泣した奈緒の話を聞いてくれた母親は、時にはそんなこともある、というようなことを話して早々に奈緒の部屋を去ってしまった。
理解者のいない恐怖ほどやりきれないものはない。奈緒はそう実感していたが、それを愚痴る相手もいなかった。
夢の中の存在とは全くの別物であると理解している親友の沙月でさえ、怖くて怖くて会いたくもない。
おまけにその夢の舞台が自分の通う高校だとなれば、自然とそちらへ足を向けたくなくなるものだ。
――このままじゃ、学校も行けない。……ううん、夢は夢なんだから。そこはしっかり区別しないと……。
奈緒は暗い方向へばかり想像を駆り立ててしまう自分を叱咤した。
何度か大きく頭を振ると、授業道具を納めた鞄に手を伸ばす。
それとほぼ時を同じくして、沙月からメールが届いたことを知らせる着信音が鳴り響いた。
思わぬ出来事に、奈緒は飛び上るほど驚いた。
――これから来るとかじゃないよね? もしかして、もう来てるとか?
掌握の対象を携帯電話に変えた手は、自分でも以上だと思うほどに震えている。恐る恐る二つ折りの携帯電話を開くと、問題のメールを開いた。
“ナオ、ごめん。体調を崩しちゃったみたい。しばらく学校休むね”
ぺこりと頭を下げる絵文字と共に送られてきた文章。
それは、まるで奈緒の思考を読んだようなものだった。
薄気味悪さを感じながら、奈緒は“お大事に”とだけ返して少しの間、安堵に胸を撫で下ろす。
これで学校に行って沙月と会うということへの不安は消えた。
しかし、奈緒の中の睡魔に身を任せるという行為への恐怖感は、この時もう既に拭い去ることができないものとなっていた。
奈緒が眠ることをやめて、もう三日が経とうとしていた。
この三日間、寝不足で意識が朦朧とする中でも奈緒は休むことなく学校に通い続けている。
気丈に振る舞ってはいたものの、肉体に現れる疲労の色は隠しきれない。
日増しに顔色が悪くなっていく奈緒は、同じクラスの生徒はもちろん、他のクラスの子にまで心配して声を掛けられた。
普段はあんなに厳しい先生たちも、「具合が悪いなら、保健室で休めよ」と気遣ってくれた。
目の下のくまは日々大きくなり、どんどんとやつれていく奈緒は、一気に三十も四十も老け込んだようだった。そんな奈緒の姿に、両親も動揺を隠せないようだ。
毎朝のように顔色が悪いから休んで寝ていた方がいいと促されたが、そんなことをしていたら本当に眠ってしまう。夢の中には何が何でも行きたくなかった。
四日目の朝、奈緒は歩くのもやっとの状態になっていた。体が動かないことは、自分でも痛いほどに理解している。
――いつもの時間に家を出れば、間違いなく遅刻になるだろうな。
そう考えた奈緒は、いつもより一時間早く支度をし、普段の何十倍も重い鞄に押し潰されそうになりながらリビングへ向かった。
そこでは、母親がすでに奈緒のお弁当を作り始めていた。
「奈緒……、あなた、顔色が悪いわ。病院にでも行って診てもらった方がいいんじゃないの」
「ううん、大丈夫」
心配そうな母親の言葉に、申し訳なさが込み上げてきた。けれど、睡眠を取る勇気は奈緒にはない。
たかだか夢だと言われれば元も子もないが、その夢は現実になったのだ。それを目の当たりにしては平常心でいられるはずもない。
「今日は学校を休みなさい。行ったって授業に集中できなかったら意味がないんだから」
母親は、そう言いながら焼いて切り分けた卵焼きとウインナーを皿に載せた。弁当箱の下段に詰められたご飯を茶碗によそい直し、それがそのまま奈緒の朝食として渡される。
それでも奈緒は、今日学校に行ったら明日は休みだから、と無理を言ってそれを弁当箱の中へ戻させた。
そして、奈緒はいつもより三十分以上も早く家を出た。
家から学校までは十分もかからない距離だったが、その短い道のりが果てしのないものに思われる。
背負った鞄はどんどんとその重量を増し、真っ直ぐに立つことも困難なほどだった。
すれ違う人々は、奈緒のことを好奇の眼差しで見つめてくる。
恥ずかしさが込み上げたが、無理を言ってまで家を出てきてしまった手前、後戻りなどできなかった。
何とか学校にたどり着いた奈緒は、三時間目の体育を先生に止められて見学した他は全ての授業にきちんと出た。そして、残すは最後の六時間目だ。
「次の時間は集会だ。委員長、頼んだぞ」
他所のクラスで授業を終えた担任が、職員室への帰り際にひょいと教室を覗き込む。
委員長のよく通る返事が聞こえた。
――ああ……、少し辛いな……。でも頑張らなくちゃ……。
そう思いながら集会には出たものの、話の内容は全く頭に入ってこない。
ドアが勢いよく開き、先生が駆け込んできた。
そして、他の教員たちを呼び集めて二、三言葉を交わしている。
不穏なその様子に、体育館がざわめいた。
その低い唸りのような意味をなさない言葉の群れが、奈緒を柔らかく包み込む。思いがけぬ心地よさに、ただでさえ重く感じていた瞼が更に重量を増した。
――……いけない!
奈緒はグッと舌を噛んで意識を保とうとしたが、そんな抵抗も空しく体は重力に負けて引きずり倒される。
――……あれ? でも、あれって現実に起こったことじゃないんだよね?
冷静に考えてみれば、“それ”が起こっているのは夢と沙月のブログだけでの話だ。
現実に何か影響を及ぼすというものではない。それを思うと、一気に気が緩んだ。
――……あぁ、……駄、目……。ここ、で、……寝、ちゃ……――。
まだ心の準備ができていなかった奈緒は必死の抵抗を試みたが、それも無駄だった。
バタン。
大きな音を立てて、奈緒の身体は床に叩きつけられた。生徒たちの視線と、慌てた先生たちが集まってくる。
だが、奈緒はそれ以上何もすることができなかった。
そして、そこで奈緒の意識はぷっつりと途切れた。




