9
奈緒はやはり、あの追いかけっこの夢の中にいた。
しかし、今は空の色が違っている。
“殺鬼”のあのブログの背景のように真っ黒で、所々に赤が見えた。どうやら黒いのが雲で、赤い空は夕焼けのようだ。
異様とも言えるその空の下で、奈緒は学校の屋上にポツリと立ち尽くしていた。
警戒心から周囲を見回してみたが、追跡者である“殺鬼”の姿は見当たらない。
――今朝の夢の中では、すぐ近くの住宅地にいたはずなのに……。どこに行っちゃったんだろう?
奈緒は、目を皿のようにして遠い所から学校の近くまでをくまなく探した。
その時の奈緒は、屋上のフェンスというものがどれほど透過性の高いものかを失念していた。
加えて、奈緒がいたのは住宅街の中では頭一つ飛び出す高さのある学校。目立つことこの上ない立地だった。
「……見ぃぃぃつけたっ!」
“殺鬼”の声がした。
しかも、近い。すぐ近くだ。
奈緒は体を伏せて身を隠そうとしたが、そんなことでは見つかってしまったという事実を変えることはできない。
ここで伏せているよりは、相手の現在位置を確認する方が賢明ではないだろうか。
そう考えた奈緒は恐る恐る立ち上がって、金網のフェンス越しに視線を下に向けた。
学校から少し離れた路地を、ぐるりと見回す。しかし、そこには“殺鬼”の姿はなかった。
――もう少し手前、学校のすぐ近くまで来ているのかも……。
あって欲しくないことではあったが、やむを得ず視線を直角に降ろす。
その瞬間、校舎の壁を這い上がってくる“殺鬼”と目が合った。
奈緒の脳味噌は、恐怖のあまりその場から離れるという選択肢を削除してしまった。
ガクガクと膝を震わせる奈緒とは対照的に、“殺鬼”は窓枠や換気口などの凹凸を器用に使い、スルスルと壁を登ってくる。
まるでクモにでもなったかのような動きだ。
もしこのまま“殺鬼”がここへ来たら……――。
すぐに我に返った奈緒は、一刻も早く“殺鬼”から離れるために駆け出した。
――校舎の中へ逃げ込めば、階段とか廊下とか教室とかを使って“殺鬼”を撒けるかも知れない。
一筋の希望が胸へ浮かぶ。
しかし、奈緒は駆け出すと同時に転倒していた。足がこわばって思うように動かなくなっている。
――ただの夢なのに、こんなっ……。
ちょっとした悪夢のせいで、ここまで精神が追い詰められるなどとは思いもしなかった奈緒は、激しい焦燥感に駆られた。
動悸が酷い。過度の恐怖からだろうか、吐き気まで込み上げてきた。
足が動かないのならば、と、奈緒は必死に手の力で這いずって扉に近付こうとする。
「ナオ? どうして逃げるの? イイコトしようよ」「どうして震えてるの?」「ナオ? イイコト嫌いなの?」「ナオ?」「ナオ?」「ナオ?」
断続的に聞こえた親友の声に、奈緒は戦慄した。
声が四方八方から聞こえたのだ。――現在、校舎の壁を這い上がってきている“殺鬼”は、一人だけではないらしい。
その事実が、奈緒の精神を皿に追い詰めた。
――振り向いちゃ、駄目だ。
思考とは対照的に、筋肉は首を背後へと向かせるための伸縮を行っている。
沙月の右手が、フェンスを握り締めているのが分かった。追って左手もフェンスにかかる。双方の手に力がこもり、ゆっくりと黒い髪がフェンスの下部から覗き始めた。
そして、にんまりと嗤う“殺鬼”と目が合う。
「ナオ」
「いやぁぁぁあぁぁっっ!」
奈緒は、近くにあった石を拾って“殺鬼”に投げつけた。
石が当たった“殺鬼”は、「ぎゃ」と声を上げて仰け反り、石が当たった額を押さえる。
両手がフェンスから離れたことで、その体は真っ直ぐに落下していった。
その様子を呆然と見つめていた間に、さっきとは別の方向から“殺鬼”の顔が覗いた。
次から次へと上ってくる“殺鬼”に、奈緒は片っ端から石を投げ続ける。
しかし、学校の屋上に転がっている石の数などたかが知れていた。
じわり、と“殺鬼”が距離を詰めてきた。一番近くにいる“殺鬼”は、フェンスの上、三分の一くらいまで頭が到達している。
他の“殺鬼”たちだって、大差ない位置に手をかけて奈緒を見つめていた。
細められた瞳と、吊り上がった口の端から漏れる笑い声に全身の毛が逆立った。
“殺鬼”たちがフェンスを乗り越えてここまで来るのも、時間の問題だろう。
汗でぐっしょりと湿った手を、スカートにこすりつけたその時だった。
遠くから奈緒を呼ぶ声が聞こえたのだ。
声の主は“殺鬼”ではない。そのことが、奈緒に大きな安心感を与えた。
自分の名を呼ぶ声に返事を返そうとした時、奈緒の意識は覚醒した。
「……ん、ぅ?」
ぼやけた視界がはっきりしていく。
その過程で、自分の現在位置が自室のベッドの上だと認識した。
「奈緒、大丈夫?」
心配そうな母親の顔が奈緒を覗き込んでいる。
そのことに、何故か奈緒は酷く安心した。
「どうしたの? そんなにうなされて……」
「お母さんっ! 怖かったよー」
母親にしがみつくと、奈緒は小さな子供のように泣きじゃくる。
母親はやれやれといった風で、軽く背中を叩いてやりながら奈緒が落ち着くのを待った。




