今日も彼はやってくる1
鼻腔をすり抜ける甘い、香り。
ほかほかと今焼けたばかりの黒いお菓子たち。
そう、今日はバレンタイン。
「……戦いが。また、始まる……」
そんな言葉が重々しくあたりに漂った。
力なく息を吐いたのは憂いた顔を浮かべる少女、吉良錦。エプロンを外すと、イスにとすっと座り込んだ。
台所には今焼けたチョコチップクッキー。テーブルの上にはクッキーが敷き詰められたバスケット。そのテーブルにあるイスの一つには、紙袋があった。中には一口サイズのチョコが3・4個ぐらい入った小さな袋が九つくらい。
「……バレンタインに似つかわしくない言葉だな、おい」
ふいに後ろから声がして振り返ると、温かで大きな手がぽんぽんと錦の頭をたたいた。
「靖弘兄さん」
そこにはカッターシャツ調のカジュアルな襟付きのシャツに黒のズボンを着た青年が小さく苦笑していた。歳は27・8くらい、黒く艶のある髪質と透きとおるような瞳は錦とどこか雰囲気が似ている。彼――靖弘は錦の父の弟、叔父なのである。現在この一軒家に彼女と同居している。
「ごめんなさい、ただ……」
クッキングペーパーの上で冷ましているクッキーの一つを手に取ると錦はじっとそれを見た。
「今日は、邦雄がいつも以上に気持ち悪いと考えると……」
「なるほど……今からヤキ入れて来るべきか?」
あまり表面に感情を現さない錦が少し眉間にしわを寄せる様子に、何気ない顔でさらりとつぶやく靖弘。見ると、その瞳は獲物を狙うかのように光っていた。
なんでこんなに朝から生き生きとしてるんだろう……
普段はものにあまり興味を示さない靖弘の瞳がなにか強い気にあふれている。そう思いながらそんな席に着く彼に首を傾げる錦。
「そういえば兄さん達にはもう送ったのか?」
クッキーの入ったカゴをテーブルの中央にずらし、すでに用意していた朝食を靖弘の前に置くと、錦は冷蔵庫から牛乳を出した。
「うん、海外だと普通の郵便のようにはいかないから先々週には送った」
「喜んでるだろうな、錦のだし」
ふっと笑う叔父に錦もつられてかすかに笑った。すると彼女は牛乳を机の上に置き、コップを二つ出すとガラスの水汲みみたいなもの、サイフォンを傾けコーヒーを入れた。片方は7分目までもう片方は5分目くらいだ。その両方に牛乳を注ぐと錦はコーヒーを7分目まで入れた方を靖弘の前に置いた。
「お父さんもきっと、お母さんに贈ってるかな」
もう片方のコーヒーにテーブルの上にある砂糖を入れかき混ぜると、錦は表情を和ませた。
「絶対義姉さんには送ってるよ、兄さんは。抜け目ないから」
「うん、絶対そう」
「チャット、楽しみ?」
微笑むと靖弘は錦の顔をのぞきこんだ。
コーヒー牛乳をひたすらかき混ぜていた彼女ははた、と気づいたように手を止めた。すでに砂糖は溶けており、十分に混ざっている。慌てて口に含むと少しうつむいて錦は小さくつぶやいた。
「今日は久々に、声が聞けるから……嬉しい」
「……今夜はチャット、長そうだな」
彼女の行動に笑いを抑えながら靖弘もコーヒーを飲んだ。
「……靖弘兄さん」
「ん?」
「いつも、ありがとう」
ふいにそう言うと錦は紙袋から綺麗にラッピグされた箱を取り出した。他のものと違い、それだけは箱入りである。
「ああ、ありがとう」
少しはにかみながら言う錦にそっと頭を靖弘はなでた。
「ふふふ、ふふ、ふふ」
「……兄ちゃん不気味」
場所を変えて正岡邦雄宅。
その頃制服姿の邦雄はリビングで隣りの吉良錦宅に熱い視線を送っていた。そのそばで毎度おなじみの智紀のツッコミが入っていた。少々、智紀は兄に引き気味である。
すでに邦雄は学校へ行く用意はできており、今は日課のお眺めタイム。言い方を変えればのぞきタイム。つかまる一歩手前である。しかし、現在彼の向いている方向に窓はない。どうやら彼にしてみれば錦のいる方向に向いているだけで幸せになれるらしい。病院行き一歩手前である。
そんな彼をいちいち止めようとする者は弟の智紀くらい。あとの皆はもう、そんな気持ちを超越したらしい。
基本的に度を越さなければ智紀以外には自由にされっぱなしの邦雄であった。
「錦早くくれないかなぁ」
「……だから顔がキモイ」
「今からもらいに行こうか? いやいや、錦からもらう方がいい。うん」
「……今の兄ちゃんだったら渡せないな」
「お前なんか言ったか?」
「なんでも」
そんな二人の日常会話に噴き出しながら焚之助は智紀と邦雄に弁当を渡した。
「邦雄、そろそろ学校じゃないか?」
「うん! そろそろ錦が家を出る頃だよな! 行って来る!」
言うや否や、疾風のごとく爽やかに軽やかに錦宅へ向かう邦雄。その顔は期待で頬がゆるんでいる。というか先程の言葉と違ってすでに迎えに行っている。いや、もらいに行っている。
「あ~……」
そんな邦雄を頭を押さえながら見送る智紀と苦笑する焚之助。
「毎年毎年、錦ちゃんも大変だな」
「兄ちゃん逝ってこいよ」
「……智紀、漢字変換が違う気がするが」
「いや、合ってると思う」
「ふう……」
一息をつくと通学カバンを掴んで錦は玄関へ向かった。
今までのバレンタインは本当に戦いだった。
いつも異常ににこやかな笑顔を向けてくる邦雄。その瞳は明らかにバレンタインを期待しているのがわかる。あげたらあげたで一日始終ふやけた気持ち悪い顔を向けるし、あげなかったらじっとこちらを見てくる。そう、ずっと。まるで無言の戦い。ひどい時は何も用がないのに話かけてきたり、家に上がったり……そういうことが昔あった。中学に上がった頃にはそんなことはなくなったけど、あげなかったら次の日見るからに悲愴な顔でいる、もしくは普段と全然テンションが違う。妙に静か。それが、なんだか、怖いほどに。
そういう時錦は見ててなんだか罪悪感というか強迫観念さえ生まれてきたのだった。
……いや、見てなくても念が、強迫観念はあるのだが。
どっちにしても邦雄はあげると静かになることは確かであった。この点だけで言うと錦にとってうれしいはず、である。
去年はとりあえず錦はチョコをあげた。すぐあげた。朝会ってすぐ。その甲斐あって彼女に期待をこめた眼は向けてこなかった。だが、甘かった。静かになったのはよいが、視線はチョコの箱へ向けられた。授業中であろうと登下校中であろうとご飯中であろうとお構いなく手の上にのせたり机の上においてじっと見ていた……らしい。ちなみに家の中での様子は智紀から聞いた。
終いに先生に注意されてもふやけたままの邦雄に見かねて、錦が怒りを押し込めた声で諭すとやっと普通の生活態度に戻った、表面上は。にやけてもないし、普通に受け答えはする。だが、その瞳は明らかにどこか遠くへ飛んでいらっしゃった。もしくは時たま錦に向けられることもあった。錦にとってとてもこそばゆくなるあの笑顔で。明らかに柔らかで優しい笑顔を向けられるのである。
錦にとって彼の笑顔は嫌いじゃない。だけど、そんなに向けられたくないものだった。生来の仏頂面せいであまり彼女にそんな笑顔を向けてくる者はいなかった。ようするにどういう態度をとればいいかわからなくなるのだ。そして錦にとってそういった類の表情や感情を向けられることが苦手なのだ。だが少なからず、そんな感情に戸惑うのも新しい自分が見えたようで悪い気分じゃないと錦は思っていた。基本的には思ってはいるのだが……
「おはよう!」
玄関を出るとにこやかに爽やかに早速お出迎え邦雄。
彼だと妙にどうしようもなくなんとも言えない、ココアと生姜湯をゲル状の液体にかき混ぜたような複雑な感情になる錦であった。
「…………」
っていうかどうしてこう、タイミングよくくるんだろう。
心の中で突っ込みを入れる錦。
彼のことだからおそらく錦のテンポや行動なんて長年の付き合いでわかってしまってるのだろう。見てる可能性もあるがそうでなくても邦雄なら本能と勘でわかりそうだ。そうと知りながら完全には邦雄を邪険にできない錦。もはや諦めを超え、子守気分なのかもしれない。
溜め息をつきながら錦は改めて邦雄の顔を見た。
「……」
見て後悔した。
笑ってる……ものすごい、笑顔で。
思わず額に手を当て、溜め息をついてうつむく錦をかまわず笑顔で覗き込む邦雄。
「どうかしたのか、錦?」
「よー、おはよう邦雄くん」
ふいに声が錦の後ろからして見ると、靖弘がいた。いつの間に来たのかにっこりと愛想笑顔を浮かべている。明らかに不穏な雰囲気だ。
「おはようございます靖弘さん」
そんな靖弘に構わずにっこり笑顔を返す邦雄。彼の心情を知っていても知らなくてもこの雰囲気の中で笑える邦雄はある意味大物かもしれない。
後ろの気配が気になって錦は横へずれると、後ろを振り返った。そこには先程の気配など微塵も感じさせない笑顔を彼女に向ける靖弘がいた。ものすごい早業である。姪にはいい顔の彼であった。
すると、靖弘は邦雄に顔を向けた。表面上は笑顔なのに彼に向ける目は笑っていない。
「べつに迎えに来なくてもいいんだよ。お手数かけるしね?」
「気にしないで下さい。むしろ毎日の癒しになってるので」
「そうかそうか、止めてもらえないか?」
「錦が嫌だって言ったら止めますよ」
靖弘兄さん
爽やかな笑顔が怖い……
吹雪いているような寒さが二人の間を流れていた。それでも笑っている邦雄。見下ろされている形になっているのに度胸はある。
しばらく無言が続いていたが見かねた錦はぽつりと言った。
「…………行ってきます」
「行ってらっしゃい」
「あ、じゃあ行ってきます!」
「君には言ってないんだけど」
錦の後を追いかける邦雄に不機嫌に言い放つ靖弘。少し口惜しそうな彼であった。