落日の日報
宇宙暦は、間違えていなければ242年だ。コールドスリープから目を覚ました私は、ひたすらに時をカウントし続ける物流宇宙船・サラマンダー号のカレンダーを見つめた。故郷エンデカの機械たちも、主を失った今なお、こうして時を刻み続けているのだろうか。ふと、そんな考えが脳裏を過る。
私の故郷「惑星エンデカ」は滅びた。いや、エンデカだけではない。複数の惑星に根を下ろし、繁栄を謳歌していた我々人類は、たった一つの病によってドミノ倒しのようにその歴史に幕を下ろした。
感染拡大という生易しいものではなかった。ある日突然、皆が一斉に「発症」しだしたのだ。おそらく何年も前から、我々は皆その病魔を体内に宿していたのだろう。発症した人間は理性を失い、醜悪な化け物へと姿を変え、昨日まで家族や友人だった者たちを無差別に喰らい尽くした。地上も、軌道上の宇宙ステーションも、阿鼻叫喚の地獄と化すのに時間はかからなかった。
私は奇跡的に発症を免れていた。命からがら、検疫予定だった長距離物流用の大型宇宙船に転がり込み、ステーションのドックから宇宙空間へと逃れ出た。
しばらくエンデカの軌道上を航行していたが、船の通信機からは悲鳴や怒号、助けを求める声が絶え間なく響いていた。しかし、ステーションからの通信は数時間で途絶え、地上からのノイズ混じりの悲痛な声も徐々に減っていった。他の惑星も同様だ。エンデカの近傍星であるリサリカやオルデカからの通信も、中継衛星のラグを伴いながら日に日に減衰していく。
この船には貨物船航行用のAIが搭載されていたため通信の解析を行わせたが、導き出された解答は「地上の人々が消滅するのは時間の問題」という冷酷な事実だった。宇宙へ逃げ出せた船もあったかもしれないが、現在の宇宙船はステーションの存在を前提とした造りだ。拠点が無事でない以上、長距離航行は困難だろう。今ではもう、通信機からは無機質な宇宙の放射線ノイズしか聞こえなくなっていた。
私には目的地があった。はるか遠く、開拓が始まったばかりの辺境星「アデラハン」。
あそこなら、あるいは無事かもしれない。祈りにも似たその希望だけが、私を狂気から繋ぎ止めていた。
広大な船内には、私の他に「乗客」がいる。元の姿をとどめた死体と、化け物へと変異した後に事切れた死体だ。私は貨物室を簡易的な研究室に作り変え、完全に沈黙した疾病対策センターから最後にダウンロードしたデータを頼りに、彼らの解剖と解析を続けた。アデラハンへ、少しでも有益な情報を届けるために。血と腐臭にまみれながら、私はひたすらに顕微鏡とモニターに向かい合った。
だが、いくら研究しようとも核心には届かなかった。あまりにもサンプルが少なすぎたのだ。やるべきことはやった。食料の残量にも限界がある。私はAIにその後の解析を託し、コールドスリープに入る決断をした。
生物学者として近傍星へ赴いたことはあるが、コールドスリープは初めての経験だった。コンパクトな棺桶のような容器の中で血液が入れ替えられ、意識が途切れ途切れになっていく。
深い底へと沈んでいく感覚の中、脳の奥底で何かが明滅するのを感じた。だんだんとそのスパークが大きくなるのを自覚した瞬間、強烈に意識が引き戻された。エンジンの強制始動にも似た不思議な感覚から目を覚ました私は、多少混乱していた。
宇宙暦を確認すると242年。航海を始めて実に22年、眠りについてから15年の歳月が流れていた。
果てしない虚無の航海の末、ついにコンソールが緑色の光を放った。アデラハンとの通信可能圏内に入ったのだ。
『――こちらアデラハン管制局。未確認の救難信号を捕捉。応答せよ』
ノイズ越しに聞こえた、正気を持った人間の声。実に22年ぶりの響きだった。私は泣き崩れそうになるのを必死に堪え、通信に応じた。
「こちら長距離物流船。貨物船識別No.451、船名サラマンダー、生存者1名。エンデカは壊滅した。病原体に関するデータとサンプルを積んでいる」
『なんと……まさかエンデカの生存者がいるとは! よく生きていてくれた。現在受け入れ態勢を整えている。長旅で疲れただろう。もう安心だ』
彼らは温かかった。特に最初に通信をしてくれたアルバンとは何度も話をした。アデラハンへ接近していく数日間、私は彼と通信越しに他愛のない会話を楽しんだ。彼らの開拓の苦労、エンデカの思い出、明日食べる温かい食事の話。それは冷え切った私の心に灯る、何よりの希望の光だった。誰かの声が聞こえるということが、これほどまでに幸福なことだとは知らなかった。
しかし、残酷な現実は、最も幸せな瞬間に牙を剥いた。
毎日のルーティンである自身の血液検査。モニターに表示されたその結果を、私は何度も、何度も見直した。
異常数値。細胞の急速な変異兆候。
間違いない。私も、感染していたのだ。ただ、発症までの潜伏期間が人より少し長かっただけだった。
『おい、どうした? 急に黙り込んで。着陸ポートの準備ができたぞ。君の好きなスープも用意してある』
スピーカーから響く、陽気で優しい声。しかしその直後、背景から鋭い声が飛んだ。
「射程圏内に入ったぞ! 撃て!」
急な怒号。発症の恐怖も忘れ、何に向けての言葉か問おうとした途端、コンソールからけたたましいアラートが鳴り響いた。モニターが赤く染まり、こちらへ飛来する複数の高エネルギー体を予見する。
「一体どういうことですか! ミサイルがこっちに向かってます! 間違いですよ!」
叫びながら、背筋に冷たいものが走った。間違いではないのだろう。病気は持ち込ませないのが一番だからだ。だからこそ、撃ってきたのだ。
アルバンの悲しげな「申し訳ない」という呟きをかき消すように、通信越しにアルバンの上司を名乗る男の野太い声が響いた。
『申し訳ないとは思わない。私はアデラハン防星センター長官マズルカだ。お前のような避難民があの日を境にどんどん押し寄せて来てな。リサリカの女王や王侯貴族。エンデカ、オルデカからも来た。全員撃ち落としたよ。病原体をばら撒かれても困るからな。防疫として当然だ。潔く消えてくれ』
男はそれを誇らしげに言うと、すぐに通信を切ってしまった。
私は変貌の予兆を見せ始めた体を必死に抑え込みながら、コンソールに食らいついた。操縦桿を引き倒し、サラマンダー号を急旋回させようと試みる。
しかし、巨大な長距離物流船にミサイルを躱すような機動力はない。反転スラスターが轟音を立てて火を噴くが、圧倒的な質量が生み出す慣性は急には止まらなかった。
閃光。そして、無音の衝撃。
圧倒的な破壊が船体を包み込んだ。強固な装甲は紙切れのように引き裂かれ、居住区も、あの死体たちを乗せた貨物室も、すべてが宇宙の塵となって吹き飛んだ。
気づいた時、私は宙を舞っていた。いや、正確には、バラバラにへし折られた船首、コックピットの残骸の中に辛うじて留まっていた。
メインエンジンは完全に沈黙している。隔壁が降りたおかげで僅かな酸素は残っているが、それも長くは持たないだろう。機体外壁の太陽光パネルが辛うじて生き残っているのか、非常用バッテリーからの細い電力で、幾つかのモニターだけが弱々しく瞬いていた。
自身の体を見下ろす。腹部から下と、右腕の半分が消え失せていた。本来なら即死だ。
だが、私は生きていた。致命的な欠損を負いながらも、意識は異常なほど冴え渡っている。千切れた断面から、ドス黒い肉芽のようなものが蠢き出していた。
――そうか。
失われた肉体を補うように、病魔の細胞が増殖しているのだ。瀕死の重傷を負ったがゆえに、病原体は宿主の「延命」を最優先とし、私をゆっくりと化け物へと変質させている。
痛覚はすでに機能していない。人間としての境界線が、足元から静かに、そして確実に溶け出していくのを感じる。
私は残された左腕を伸ばし、明滅するコンソールを感触のない指が叩いた。指向性アンテナは壊れ、アデラハンへはもう届かない。
ならば、せめて。
私は、長い旅路で蓄積した研究データ、化け物たちの生態、そして今まさに記録されつつある「私自身の変異過程」をパッケージ化した。そして、送信システムを無指向性のバースト信号に切り替えた。
機体外壁にへばりつくように残った数枚の太陽光パネル。それが微弱な光を拾い、非常用コンデンサを満たすまでには長い時間がかかる。
充電完了の緑のランプが点灯する。私は送信スイッチを押した。
蓄積された電力が一気に解放され、暗号化もされていない生のデータが、名もなき星々へ向けて一気に放たれる。そしてすぐに、電力を使い果たしたコンソールがブラックアウトする。
再び微かな光を集め、充電を待つ。
その長い空白の時間にも、私の肉体は、いや、肉体だったものは、ドス黒い肉芽によって際限なく作り替えられていく。
思考が濁り始める。それでも、コンデンサが満たされるたびに、私は這いずるようにして送信ボタンを押し続けた。
「……宇宙暦242年。こちらサラマンダー……生存者1名。本日の変異進行度、および自己解析データ……」
とうに声帯は失われていた。コンソールに直接這わせた神経細胞のような管から、かつて人間だった頃の習慣に従い、日報のように無機質なデータを虚空に撒き散らす。
返事はない。電波は虚空の海へ波紋のように広がっていくが、誰に届くかもわからない。もはやこの宇宙に、これを受け取れる人類など残っていないのかもしれない。
ただ、ひたすらに虚しかった。
絶望すらも摩耗し、感情の抜け落ちた空洞に、冷たい宇宙の真空が入り込んでいく。
酸素濃度低下のアラートは、とうの昔に鳴り止んだのか、私の耳が機能しなくなったのか定かではない。視界の端が、人間には見えないはずの不可視光線のスペクトル帯を捉え続けている。
何十回目、あるいは何百回目の送信だっただろうか。もはや自分が何のためにこのルーティンを繰り返しているのかすら、曖昧に溶け出していく。
意識が、深い、深い宇宙へと沈んでいく。
虚無だけを抱え、次の充電完了を待つ間、私は窓の外に永遠に変わらず輝き続ける恒星を羨ましく思った。




