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【短編小説】ナイトメア★入社初日

掲載日:2025/12/20

 こんなに麗らかな春の日でも労働をしなければならない。


 労働!

 なんて厭な響きだ。そしてついにそんな身分になってしまった、とため息が出そうになる。

 しかし残念ながら私のモラトリアムは終了し、自由と引き換えに首輪を付けて金銭を得る日々が始まる。

 自由?モラトリアム?

 でもそれは私の勘違いで、自分だけに都合の良い時間だったと言うのはわかっている。小説や舞台などでは学校は去勢する為の機関だと言うが、じゃあ会社はわたしを飼育する容器なのだろうか?

 わたしは会社と言う容器の中で与えられた役割を果たしていくのだろうか?

 町と言う解放治療場で、患者のひとりとして?


 そんなことを考えながら指定されたオフィスに向かう。

 もうこういった事を考える余裕も無くなるのだろうか?それはそれで良いのかも知れない。自由な時間なんてものは、あればあるほど余計な事を考えてしまう。

 手の甲でドアを3回ノックして「失礼します」と声をかけてドアを開けると、10畳ほどの細長い部屋があった。

 一番奥には壁に向かってデスクを設置した席があり、そこに一人の男が座っていた。



 その男はパソコンモニターを見ながらキーボードを叩いている。音があまりしないので居心地が悪い。

「おはようございます」

 改めて挨拶をすると、その男は首だけを曲げてわたしを見た。

 その表情はわたしに対して丸っきり興味が無さそうで、心底うっとうしいと思っているのが伝わった。

 そしてその表情と寸分違わぬ声で「空いてる席に座ってて」とだけ言うと、正面のパソコンモニターに向き直って静かにキーボードを叩き始めた。


「失礼します」

 壁に向かって設置された他のデスクを眺めて、荷物が何もないデスクが「空いてる席」なのだろうと判断して椅子に腰かけた。

 静かな部屋に、男が叩くキーボードのかすかな音だけが響く。


 何分経っただろうか?

 厭な部署に配属されてしまった。

 他の部署はどんな感じなのだろうか。少なくともここよりは明るいはずだ。

 大体、こんな陰気な部署があるなんて聞いていない。

 まぁ社会を何も知らない人間に対して、会社が全てを開示する必要があるとは思えない。

 それにしても何でわたしがこんなところに送られなきゃならないんだろう。



 初日にして既に、同期と酷い差を付けられた気がする。

 焦燥感が背骨から染み出してくるのを感じながら床を眺めていると、爪先が傷だらけになっている革靴が目に入った。

 慌てて顔を上げると例の男が立っていて「きみがあたらしいひとだね」と感情のこもっていない声で言った。

 私は全ての思考を破棄して勢いよく立ち上がると、それでも声の大きさに気をつけて挨拶をした。



「はい、本日からこちらの部署でお世話になります。金鹿です。よろしくお願いいたします」

 立ち上がって頭を下げようとすると男は手で制して「いいよいいよ、そういうの」と鼻で笑いながら言った。

「まぁどうせ2、3年したら自己実現とかなんとかいって留学しますってなもんでしょ」

 男はいつの間にか手にした電子タバコを吸い込むと、煎り豆の様な臭いがする煙を吐き出した。

「どいつもこいつも腰かけで入社しやがって。座って社保付バイト代稼ぎ気分でいられちゃ困るんだよね」



 背を向けて立て続けに呪詛と煙を吐き出すと、その男はデバイスから吸い殻を抜いて指で弾いた。弾かれた吸い殻は空中で回転しながら弧を描いてゴミ箱に収まり、男は口角を持ち上げて笑った。


 あまりの出来事にしばし言葉を失う。

 なぜそんなことを言われなければならないのだろうか。仮に今までの新入社員がそうやってここを去って行ったとしても、それはこの男の所為なのではないだろうか。

 冗談じゃない。

 いまどきこんな歩くコンプライアンス違反みたいな存在が許されるはずがない。とんでもない会社に入ってしまった。

 後悔と悲しみが押し寄せてくる。

 熱いものが込み上げてきたその瞬間、男はまるで見透かすように言った。


「おっと、泣くなよ。泣いて済む訳はないだろ。泣けば済むと思ってる。誰かがどうにかしてくれると思ってる。金貰ってんだ、もう客じゃねぇんだよ。

 おい、聞いてんのか。挨拶くれぇは出来たんだ、次は返事だよ。聞こえたろ、もう客じゃねぇんだ。わかったな」

 語気こそ強くないものの、その声には一切の期待とか明るさと言ったものが含まれておらず、ただただ味のしないガムを押し込まれている様な気分になった。



 どうにか頷くと

「フン。今まで来た奴の中では一番マシだな。こっちが何か言うまで挨拶もできねぇから定時まで放置した奴もいるが、いつまで客やってるつもりなんだろうな。

 まぁいいや。挨拶、返事。

 それが出来りゃどうにかなるから返事だけはちゃんとしろ。あと昼休みに4階にあるトイレの一番奥は使うなよ。ここの階が混んでるからってあそこだけは使うな」


 男が何を言ってるのか分からなくなったが、辛うじて返事をするとさらに

「たまにサワダショウイチと言う人間を探しに来る庶務課っぽい女が来るが、返事をしなくていいぞ。そんな奴はいないしウチに庶務課は存在しない。

 あと屋上の鳥居は潜るなよ。雨の日は屋上にも出るな。煙草が吸いたきゃここで吸っていい。

 あとは、まぁおいおい教えるわ」



 そこまで言うと、男は背を向けたが再び向き直った。

 「あー、忘れてた。昼休みになると別館に行く渡り廊下で縄跳びしてるガキの声が聞こえるかも知れないけど、絶対に見に行くなよ。

 これが一番大事。まぁこれさえ守ればメシは食っていける」

 そう言って笑うと、再び電子タバコを咥えて煎り豆のような臭いがする煙を吐いた。


 その日、私はまんじりともせず座ったままでいた。

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