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三年生引退式編

定期演奏会が終わり、部内に少しだけ静けさが戻ったころ。

その空気の中で、誰もが気づいていながら、あえて口にしない“特別な日”が近づいていた。

三年生の引退式。

一年間支えてくれた先輩たちと過ごす最後の日。

結月も蒼真も、それぞれに教わってきたこと、もらった言葉、共有してきた音を胸に、

「ちゃんと見送れるかな」と少し不安を抱えていた。

でも、春の光は優しく差し込み、背中をそっと押してくれているようだった。

**(結月視点)


私は井上結月――クラリネット歴一年目。**


朝練のために部室へ向かう廊下は、いつもより静かだった。

定期演奏会が終わったあとの独特の“燃え尽き感”がまだ少し残っている。


でも、今日はそれだけじゃない。

胸がぎゅっとなるような、

落ち着かないような、

そんな気持ちがずっとまとわりついている。


三年生引退式。


部室の扉を開けると、

三年生の先輩たちが、いつもよりゆったりした表情で楽器を出していた。


ふだんはきびきびしているクラリネットパートの先輩が、

今日はほんの少しだけ肩の力を抜いて笑っている。


「おはよう、結月。今日も早いね」


「お、おはようございます!」


声が少し裏返った。

だめだ、泣きそう。


そこへ後ろから、

お決まりの軽い声が聞こえてくる。


「緊張しすぎ。今日、試験とかじゃないから」


振り返ると蒼真が、トランペットケースを肩にかけて立っていた。


「そうだけど……なんか……」


「分かるよ。俺も、ちょっと変な感じだし」


蒼真の表情は、いつもより少し大人びて見えた。


(蒼真視点)


三年生の先輩たちが集まっている部室は、

なんというか、普段の練習前とは違う温度があった。


トランペットの三年の先輩――俺を最初に指導してくれた人――は、

いつも通り椅子に座りながらマウスピースを磨いている。

でも、どこかゆっくりだ。


「蒼真、おはよう」


「あ、先輩。おはようございます」


「なんだよ、その顔。そんなに寂しいか?」


「……まぁ、そりゃ」


先輩はふっと笑って、

「お前なら大丈夫だよ」と小さく言った。


その一言だけで、感情がぐらっと揺れた。


結月の方を見ると、

先輩たちの会話を聞きながら、

さっきからずっと胸の前で手をぎゅっと握っている。


あいつ、絶対泣くな。


◆ 最後の朝練

(結月視点)


基礎合奏のはずなのに、

ドのロングトーンを吹いただけで胸が熱くなった。


三年生の音が、柔らかくて、あたたかくて。

“今日が最後”って、音だけで分かってしまう。


クラパートの先輩が私の横に来て、

吹きながら小さく頷いてくれた。


それだけで涙腺が危ない。


◆ ラスト合奏 ― 言葉にならない曲


顧問の「ラスト合奏、始めます」という声で、

部室の空気が変わった。


三年生は前列に座る。

私たち一年生は後ろからその姿を見つめる。


一曲目。

二曲目。

音が重なるたび、胸の奥がじりじり温かくなる。


そして最後の曲。


優しい旋律が始まった瞬間、

三年生の背中が少し揺れた気がした。


本当に、これで最後。


最後の音が消えたとき、

顧問の先生が、言葉に詰まった。


「……三年生、ありがとう」


その声に、

誰かが小さく鼻をすする音が混ざった。


◆ 引退式 ― 一人ずつのメッセージ

(結月視点)


体育館のステージ。

私たちはひな壇の上に並び、

三年生が一人ずつマイクの前に立つ。


クラリネットの先輩の番が来ると、

胸がきゅっと縮まった。


「結月」


名前を呼ばれただけで、涙がこぼれそう。


「あなた、ほんとに頑張ったね。

 焦ることも多かったと思うけど…

 あなたの音、ちゃんと届いてたよ」


その優しい声に、

肩が震える。


「これからは、結月がみんなを支えてあげてね」


「……はいっ……!」


声がつまって、変な返事になった。


でも、先輩は笑ってくれた。


(蒼真視点)


俺のところへ来た三年の先輩は、

いつもふざけてるくせに、今日はまっすぐ俺を見た。


「蒼真、最初の頃は音ひっくり返して焦ってただろ?」


「……はい」


「でもさ、お前、まっすぐ真面目に努力するところがいいんだよ。

 そのままでいいけど、無理はすんな」


肩を軽く叩かれる。


その瞬間、

今までの練習の記憶が全部よみがえってきて、

胸が熱くなった。


「……ありがとうございました」


それだけで、精一杯だった。


◆ 見送り ― バトンが渡される瞬間


引退式が終わり、

通路を作って三年生を送る。


拍手の音が体育館に響く。


先輩たちがゆっくり歩いていき、

笑いながら、泣きながら、

それでも堂々と前を向いている。


クラリネットの先輩が私のところで立ち止まり、

小さな紙袋を渡してきた。


「これ、あげる」


中には使い込まれたスワブと、

「あなたなら大丈夫」という短いメモ。


「……っ、ありがとうございますっ……!」


もう泣くしかなかった。


(蒼真視点)


俺にも三年の先輩が近づいてきて、

小さな黒いポーチを渡した。


「マウスピースポーチ。俺が使ってたやつ」


「いいんですか?」


「当たり前だろ。

 お前には後輩もできるし、責任も増えるし。

 でも、お前ならやれる」


俺は深く頭を下げた。


「……任せてください」


胸が熱くて、立っているだけで精一杯だった。


◆ 終わりのあと ― 静かな部室で


三年生を見送ったあと、

部室は驚くほど静かになった。


誰もいない椅子。

楽器が消えた場所の余白。

大きく感じる空間。


結月が座り込んで、

ぽつりとつぶやいた。


「……いなくなっちゃったね」


「まぁ、毎年のことだよ」


言いながらも、俺も胸がきゅっとする。


「でも私、先輩みたいになれるかな」


「なれるよ」


即答だった。

事実だし、迷う理由がなかった。


結月は、驚いたように瞬きをした。


「結月、最近ほんと成長してるじゃん。

 ソロも良かったし、合奏でも頼られてるし」


「……そんなこと言われたらまた泣いちゃうよ」


「今日くらい泣けば? 泣き放題だろ」


泣き笑いのような顔をする結月。


夕日が部室に差し込んで、

木管の譜面台がオレンジ色になっていた。


「……また来年くるんだね。

 今度は俺らが送る側で」


俺の言葉に、結月は小さく頷いた。


新しい春の始まりを、

ふたりで静かに受け止めた。

三年生の背中が見えなくなったあと、部室に残ったのは静寂だけではなかった。

寂しさと同じくらい、受け継いだものの重さと温かさが胸に残っていた。

結月も蒼真も、先輩たちから託された言葉や音を抱きしめながら、

「次は自分たちの番だ」と静かに心を固める。

春は別れの季節であり、同時に新しいスタートの季節。

受け継いだ音は途切れず続いていく。

そしてふたりも、確かに前へ進み始めていた。

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