春の強化練習日編
春が近づくにつれて、部室には独特の緊張感が漂い始める。
定期演奏会まで残された時間は多くない。
その焦りと期待が混ざる中、ついに“春の強化練習日”がやってくる。
1年の集大成を仕上げるため、朝から晩までひたすら音と向き合う特別な一日。
結月は不安を抱え、蒼真は静かに気持ちを整える。
疲れるのは分かっていても、どこか胸が高鳴る――そんな春の始まりだった。
(井上結月視点)
私は井上結月。クラリネット1年。
今日は“春の地獄”と呼ばれる強化練習。
朝からなんとなく胃が痛い。
校門前には、普段よりはるかに早い時間なのに楽器ケースを抱えた部員がちらほら。
「結月、おはよ〜!今日やばいよ〜!」
「うぅ…言わないで欲しい…!」
先輩に脅され、私は肩をすくめた。
部室へ向かおうとすると――
「よ、おはよ、結月」
振り返れば蒼真が、いつもよりちょっとだけ柔らかい表情で立っていた。
「え…なんでここに?」
「別に。たまたま」
(絶対うそ。でも聞けない…!)
「今日の強化練、まじできついぞ。覚悟しとけ」
「もうちょっと優しさとかないの!?」
「無理」
言いながら、私の歩幅に合わせてくれるあたり、
やっぱり優しいのずるい。
(中村蒼真視点)
俺は中村蒼真。トランペットの1年。
定期演奏会は“1年のまとめ”。気が抜けない時期だ。
結月は案の定ビビっていた。
まぁ、あいつのクラパートは難所だらけだからな。
(でも最近の結月、めっちゃ頑張ってるしな)
合奏室に入ると、木管はすでに音出し中。
「結月〜!最初の合奏、例の速いとこからだって〜!」
「ひぃ…!」
その声に、思わず笑った。
(結月視点)
◆ 午前:容赦ない合奏の開始
「クラリネット、そこ走ってる!はい戻す!」
顧問のストップが乱れ飛び、
先輩が小声でフォローしてくれても、私は息と指がバラバラ。
(やだ…ほんとに私だけ止まってる気がする…)
心が折れかけたその時――
「結月」
後ろから蒼真の声。
「昼休み、合わせるぞ。例の速いとこ、ちょっとコツある」
「えっ、ほんとに!?ありがと…!」
胸が一気に軽くなった。
◆ 昼休み:2人だけの練習
音楽室は使用中だったので、
私たちは校舎の端の静かな渡り廊下へ。
「じゃ、とりあえず吹いてみ。四小節」
「は、はい…!」
吹く。
案の定ひどい。
「はいストップ。
結月、指はできてる」
「え、絶対できてないよ!」
「できてる。
お前は“繋げようとしすぎ”。
もっと区切る意識で。
『タッ・タタッ・タタタッ』って」
蒼真が軽く手でリズムを刻む。
(あ…!そうか…!)
意識を変えて吹きなおすと――
今までどれだけ練習しても引っかかっていた箇所が、
すっと通った。
「……できた!!」
「言ったろ」
「ありがとう…!すごいよ蒼真くん!」
「別に。金管だって木管の発音参考にしてるし。お互いさま」
その自然な言い方が、嬉しくて、ちょっと恥ずかしい。
(蒼真視点)
午後の結月は、午前と別人レベルだった。
フレーズは安定、音もまっすぐで、顧問も褒めていた。
(やっぱ素直なやつは伸びるな、ほんと)
木管の先輩が小声で
「やったね、結月!」
って喜んでいたのが聞こえて、
なんか俺までにやけそうになった。
(結月視点)
◆ 午後:集中できる時間
午後は、午前とはまるで違った。
顧問「クラリネット、安定してきた!そのまま!」
先輩「結月、いい感じ!」
胸がじんと熱くなった。
(がんばってよかった…)
蒼真のほうを見ると、
ちょうど難しいソロ部分をサラッと吹ききったところだった。
(やっぱりすごいな…)
思わず見惚れて、慌てて譜面に視線を戻す。
◆ 練習後:片付けタイム
「おつかれ、結月」
蒼真が近づいてくる。
「今日、午後めっちゃよかったな」
「そ、そうかな……!」
「午前と別人。努力の勝利」
ぽん、と頭を軽く叩かれる。
「うわっ!?なにすんの!?」
「別に。嬉しそうにしてたから」
「してない!!」
遠くのクラ先輩たちの冷やかしが飛ぶ。
「結月〜!中村といい感じ~~!」
「ちがいます!!!!」
否定してるのに、先輩たちはにやにやしてる。
蒼真は困ったように笑っていたけど、
なんだかその表情がやさしかった。
(……今日、ほんと頑張ってよかったな)
◆ エピローグ:夕暮れの廊下
「なぁ、結月」
「うん?」
「本番も、今日みたいに吹けよ」
「……うん!頑張る!」
「結月ならできる。保証する」
その一言だけで、胸の奥があったかくなる。
春の気配が混ざる夕暮れの廊下を、
私たちは少しゆっくり歩いて帰った。
長い一日が終わる頃、部室には達成感と心地よい疲れが満ちていた。
うまくいったところも、まだ未完成な部分も、それぞれが確かな手ごたえとなって残る。
結月は小さな成長に気づき、蒼真は仲間たちとの“音のまとまり”に微笑む。
定期演奏会はもうすぐそこ。
今日積み重ねた努力は、必ずあの日のステージにつながっていく。
春の風が、ふたりの背中をそっと押していた。




