クラリネット・ソロ決定オーディション編
東京都大会。
その名前は、音を重ねる者すべての心を重くも、強くもする。
今年の演目には、
一瞬の静寂を切り裂くようなクラリネットソロがあった。
その一音で、空気が変わる。
その一息で、流れが決まる。
期待と責任は、いつも静かに人を追い詰める。
とくに――真面目で、優しい人ほど。
(結月視点)
「クラリネットソロは、オーディションで決めます」
顧問の一言で、部室の空気が変わった。
配られた楽譜。
そこに書かれた、短くも重いフレーズ。
(……東京都大会の、ソロ)
周りの視線が、痛いほど分かった。
誰も何も言わないのに、全部聞こえる気がした。
――副部長だし。
――結月先輩だよね。
「……頑張ります」
気づいたら、そう言っていた。
(蒼真視点)
結月が、無理をしている。
それは、はっきり分かった。
昼休みも譜面。
放課後も一人練習。
笑顔はあるけど、余裕がない。
「結月、今日はもう切り上げない?」
声をかけると、
「ううん、大丈夫」
即答。
でも、その声は少し硬かった。
(大丈夫じゃない)
でも、どう踏み込めばいいか分からなかった。
(結月視点)
音楽室に、私一人。
夕方の光が、譜面台を照らしている。
「……っ」
息が続かない。
指がもつれる。
「なんで……」
昨日は吹けたのに。
今日は、うまくいかない。
楽譜には赤ペンのメモがびっしり。
〈息を深く〉
〈音程注意〉
〈焦らない〉
(焦らないって、どうやって……)
椅子に座り込む。
「副部長なのに」
「ソロ落ちたら……」
考えが止まらない。
視界が滲んだ。
(蒼真視点)
音楽室の前を通ったとき、
音が、途中で途切れた。
嫌な予感がして、扉を開ける。
結月は、楽器を抱えたまま動かなかった。
「……まだやってたんだ」
わざと軽く言う。
「ほら」
スポーツドリンクを差し出す。
「喉乾くだろ」
(結月視点)
顔を上げたら、蒼真くんがいた。
「……部長」
「今は部長じゃなくていい」
その言い方に、思わず笑いそうになる。
でも、次の瞬間、涙が出た。
「……怖い」
声が震える。
「都大会のソロなんて……」
「私がやっていいのかなって……」
止まらなかった。
(蒼真視点)
全部、聞いた。
遮らなかった。
「結月」
静かに呼ぶ。
「ソロは、結月の音だからだろ」
結月が、目を伏せる。
「失敗してもいい」
「でも、逃げなくていい」
肩に、そっと手を置く。
「俺は、結月の味方だから」
(結月視点)
胸の奥が、ほどけた。
「……ありがとう」
深く息を吸う。
(あ、一人じゃなかった)
楽器を構え直す。
音が、少し柔らかくなった気がした。
(結月視点)
オーディション当日。
体育館は、静まり返っていた。
「井上、どうぞ」
一歩、前へ。
(大丈夫)
蒼真くんが、後ろにいる。
息を吸って、吹いた。
音が、真っ直ぐ伸びる。
最後の一音が、空に消えた。
(蒼真視点)
結果発表。
「東京都大会、クラリネット・ソロ担当は――」
一瞬の沈黙。
「井上結月」
拍手。
胸の奥で、何かが落ち着いた。
結月がこちらを見る。
小さく、うなずいた。
(結月視点)
ソロ、決定。
信じられない気持ちと、
じわじわ湧いてくる実感。
蒼真くんが近づいてきて、低い声で言った。
「おめでとう」
「……ありがとう」
この音は、
私一人の音じゃない。
大舞台に立つ音は、
技術だけで鳴るものじゃない。
支えられた記憶。
逃げなかった勇気。
そして、隣にいる存在。
結月のソロは、
東京都大会へ向かう。
その一音は、
二人で掴んだ音だった。




