夏の大会編
夏が近づくと、部室の空気は少しずつ変わり始める。湿気を含んだ風、譜面の重さ、そして誰もが口にしない“本気の緊張”。結月は不安を抱えながらも、仲間と一緒なら前に進めると信じていた。蒼真もまた、後輩たちの成長を見守りつつ、自分自身の演奏と向き合っていく。笑って、焦って、ぶつかって、それでも音は止まらない。夏の大会が、いよいよ始まる。
私は井上結月。高校1年生。少し緊張しやすいけど、吹奏楽に憧れてクラリネットを始めた初心者。
不器用だけど、音楽は大好き。
校庭に吹く風が、少しだけ暖かくなってきた春の午後。
今日から吹奏楽部の本格的な練習が始まる。
黒くて長いクラリネットを両手で持ちながら、
私は首をかしげていた。
「えっと……これ、ここで合ってるのかな……?」
ジョイントの部分が固くて、うまくはまらない。
そのとき、背後から明るい声が飛んできた。
「クラリネット、初めて?」
振り返ると、トランペットのケースを提げた男の子。
笑顔がまぶしくて、春の光みたいな人だなって思った。
「う、うん……全然わかんなくて」
「そりゃ最初はそうだよ。クラは俺でもムズいと思うし」
「だよね!? キー多すぎない!?」
うっかり大きな声で言ってしまって、
そのあと二人で笑い合った。
「貸して。ここにグリス塗ると楽だよ」
「えっ、そうなの?」
彼は慣れた手つきでコルクにグリスを塗り、
力を入れずにジョイントを回してくれる。
「ほら、すっと入る」
「ほんとだ! ありがとう……えっと……」
「中村蒼真。トランペットの経験者。よろしく」
「私は井上結月。初心者だけど……よろしくね、蒼真くん」
太陽に照らされた彼のトランペットのベルが光って、
なんだかドキッとした。
(蒼真視点)
俺は中村蒼真。高校1年。小学校からトランペットをやってる経験者。
吹奏楽は大好きだけど、責任を持つのは少し苦手。
でも、仲間を助けるのは好きだ。
井上結月。
クラリネットを抱えて、必死に組み立ててた子。
初心者って一目で分かるけど、
それでも諦めずに食らいついてる感じがして、目が離せなかった。
休憩時間、ふと隣を見ると、
彼女は真剣に指練習をしていた。
「結月、その指さばき……ちょっと工夫すると楽だよ」
「あっ蒼真くん! ここがどうしても……」
「ここは二つの動きに分けるといい。試してみて」
「二つ……うん……あっ、ほんとだ回った!」
嬉しそうに笑うその顔に、思わず胸が軽くなった。
「へへん、経験者だからな」
つい調子に乗った俺に、
「なんか得意げ〜」
って笑うんだよ。
その笑い方が、なんか……好きだなって思ったのは内緒だ。
(結月視点)
蒼真くんは、いつも自然に隣に来てくれる。
「結月、ここ昨日よりめっちゃ良い音」
「ほんと? 自分じゃ分からない……」
「俺には分かるよ。努力してるの、ちゃんと音に出てる」
少し照れながら言ってくれるから、
逆にドキドキしてしまう。
風がよく吹く校庭で譜面台を押さえながら二人で練習すると、
ページがめくれて二人で大笑いしたり、
指使いに悩んで一緒にうなってみたり。
そんな毎日が幸せだった。
隣にいることが自然で、
蒼真くんを見ると胸がじんわり温かくなる。
(蒼真視点)
夏が近づくと、部活の空気が引き締まる。
そして突然先輩に言われた。
「蒼真、今年のトランペットのセクションリーダー頼む」
責任、重いな……。
その日から俺は後輩の指導で手いっぱいになって、
気がつくと結月のところへ行く時間がなくなっていた。
廊下ですれ違った時。
「蒼真くん、あの……今日少し……」
「悪い結月! 今ちょっと教える子がいて……!」
返事を背中に向けて言ってしまった。
結月の少し落ちた表情が頭に残って、
胸がぎゅっとした。
「……ごめん。ほんとは、もっと一緒に練習したいのに」
結月は頑張り屋だから、
俺がそばにいなくても練習する。
でも、それが逆に苦しくなる時もあるのを俺は知っている。
(結月視点)
ソロ発表の日。
「クラリネット・ソロ、井上」
耳がおかしくなったのかと思った。
「え、え……私!? む、無理……!」
「結月ならいける。音も安定してる」
先輩はそう言ってくれたけど、
心の震えは止まらなかった。
練習しても音が外れる。
指が震える。
胸が痛い。
そして合奏のとき――
「……っ、外した……ごめんなさい!」
涙を堪えたまま、私は外へ走り出した。
部室裏の木陰でうずくまり、
震えた声が自然に漏れた。
「なんで私……初心者なのに……みんなに迷惑かけるだけ……」
その時。
「結月!」
聞き慣れた声が、息を切らして走ってきた。
「探した……心配で……」
「蒼真くん……もう無理……怖いよ……」
「無理なんかじゃない」
彼は真剣な目で言った。
「結月の練習、俺ずっと見てきた。
泣きそうになりながらも、何回も挑戦して、
前よりずっと綺麗な音になってる」
「……ほんとに?」
「ほんとだよ。俺が保証する」
その言葉は、夕方の風みたいにやさしくて、
胸の芯がふっと軽くなった。
(蒼真視点)
大会当日の朝、
結月は緊張で手が震えていた。
「蒼真くん……やっぱり怖いよ……」
「怖くていいよ。俺も怖い」
「え、蒼真くんも?」
「当たり前だろ。でもな」
俺は結月のクラリネットのベルの先をそっと指でたたいて言った。
「俺の音が聴こえたら、大丈夫って思え」
結月は目を丸くして、そしてゆっくり笑った。
「……聴くよ。絶対」
その笑顔に救われたのは、むしろ俺の方だった。
(結月視点)
本番の舞台。
ライトと観客の視線で胸がざわつく。
でも――
蒼真くんのトランペットの音が聴こえた。
まっすぐで、強くて、でもどこか優しい音。
“蒼真くん、いる……”
その音が胸の震えを押さえてくれた。
ソロの直前、
私は蒼真くんを見る。
彼はゆっくりうなずいてくれた。
私は深く息を吸って――吹いた。
音がホールの天井へ伸びていく。
まっすぐ、澄んでいて。
自分の音じゃないみたいだった。
「……できた……!」
吹き終わるころ、
蒼真くんのトランペットが重なってきた。
支えるように、寄り添うように。
涙がにじみそうで、私は必死でこらえた。
(蒼真視点)
本番後、結月が戻ってきた時の顔は忘れられない。
「蒼真くん……私、吹けたよ……!」
「うん。めっちゃ良かった。ほんとにすごかった」
「ほ、ほんと……?」
「俺が保証するって言っただろ」
結月はクラリネットを抱きしめながら、
夕陽の中で小さく笑った。
「ありがとう……蒼真くんがずっと支えてくれたから」
「支えてもらってたのは俺の方だよ」
思わず本音が出た。
結月は驚いて、
でもすぐに柔らかく笑った。
「……これからも、一緒に音つくりたい」
小さな声だけど、迷いがない声だった。
「もちろん。何回でも」
夕陽の中、並んで歩く帰り道で、
二人の影は寄り添うように重なっていた。
クラリネットの風みたいな音と、
トランペットの光みたいな音は、
これからきっと同じ方向へ響いていく。
長くて短い夏が終わり、部員たちはそれぞれの胸に違う色の思いを抱えた。結果に泣いた者も、笑った者も、同じ舞台に立った時間だけは確かだ。結月は自分の弱さも強さも知り、蒼真は仲間の存在を改めて感じた。大会は終わっても、音楽は続く。次の季節に向けて、また歩き出すだけだ。あの日のステージが、きっと彼らの未来を照らしていく。




