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第5話 ママのことは、ボクが守る!

抱き合っていちゃいちゃとキスをし合うボクたち親子を前に、リーゼロッテは引きつった笑顔で硬直していた。

自らが剣を突き立てて誓った、あの荘厳な雰囲気はどこへやら。気まずい沈黙が、埃っぽい神殿に満ちている。


「あらあら、なんだかお腹がすいてきちゃったわねえ。ねえ、ボクちゃん?」

「ほんとだ、ママ。そういえば、お昼まだだったもんね」


ママは、まるでピクニックにでも来たかのような呑気な口調で言うと、リーゼロッテに向かって、にっこりと微笑んだ。


「あなたも、きっとお腹ペコペコでしょう? どこか、美味しいものが食べられる場所に案内してくださらないかしら」


その、あまりにも普通の、日常的な問いかけに、リーゼロッテは一瞬きょとんとした後、こわばっていた肩の力が、ふっと抜けるのがわかった。


「……そう、だな。まずは、ここを出て私の拠点である街へ向かうとしよう。道すがら、改めて話を聞かせてもらえるだろうか」


どこか諦めに似た穏やかさを取り戻した彼女に促され、ボクたちは崩れた神殿を後にした。



苔むした石畳の道が、深い森の中へと続いている。

木漏れ日がきらきらと地面に模様を描き、小鳥のさえずりが耳に心地よかった。


「そういえば、まだちゃんと名乗っていなかったわね。あたしは雪乃。この子は、たった一人の大切な息子、勇兎よ」


隣を歩くママが、そう言って優雅に会釈する。


「橘勇兎です。よろしくね、リーゼロッテさん」

「ああ……」


ボクが彼女の名前を呼ぶと、リーゼロッテは少しだけ驚いたように目を見開いた後、居住まいを正して応えた。


「こちらこそ。改めて、リーゼロッテ・フォン・ハスケンホルトだ。よろしく頼む、ユウト殿、ユキノ殿」


その生真面目な返事に、ボクとママは顔を見合わせて、くすりと笑った。


「あのね、リーゼロッテさん。信じられないかもしれないけど、大事なことだから正直に話しておくね」


ボクは一つ、深呼吸をしてから続けた。


「ボクとママは、この世界の人間じゃないんだ。別の世界から、聖母神アストリア様にお願いされて、ここにやってきたんだよ」


突拍子もない告白。

普通なら、頭がおかしくなったのだと思われるだろう。

しかし、リーゼロッテは眉一つ動かさなかった。

彼女は静かに森の小道に足を止めると、じっとボクの目を見つめた。

そのエメラルドの瞳には、侮蔑や嘲笑の色はない。ただ、目の前の現象を理解しようと努める、真摯な光だけが宿っていた。


「……そうか」


やがて、彼女はぽつりと呟いた。


「そう、か……。異世界からの来訪者……。なるほどな」


常識ではあり得ないはずの言葉が、すとん、と彼女の中に落ちていくのがわかった。

常識外れの力。聞いたこともない『VR』という単語。そして、あの理解を超えた親子の絆。

バラバラだった全てのピースが、その一つの可能性によって、不気味なほど綺麗に嵌っていく感覚が、彼女の中にあった。


「……ならば、納得がいく。むしろ、そう考えてしかるべきだった」


リーゼロッテは、どこか安堵したように息をついた。


「しかし、聖母神アストリア、か。その御名は、私も寡聞にして知らない。主神以外の神々は、神話の時代のものと聞く。おそらく、あの遺跡にかつて祀られていた、忘れられた古代の神なのだろう」


彼女の冷静な分析に、今度はボクが驚かされる番だった。

この人は、本当に賢くて、強い人なんだ。


「うん。だから、ボクたち、この世界のことをまだ全然知らないんだ。色々、教えてくれると嬉しいな」

「……承知した。我が剣と知識、貴殿らのために振るおう。それが、私の誓いだからな」


少しだけ、彼女の表情が和らいだ気がした。



森を抜けると、石造りの立派な城壁と、活気ある街並みが見えてきた。


「あれが、私が拠点にしている街、エールブルグだ」


リーゼロッテが顔なじみらしい衛兵に何事か話すと、ボクたちはすんなりと街の中へと通された。

石畳の道を行き交う人々、見たこともない果物を売る露店、鍛冶屋から響く槌の音。何もかもが新鮮で、ボクの心は躍る。


「まずはギルドへ向かおう。ミノタウロスの件と、私の生存報告をしなければならない。話は、それからだ」


リーゼロッテは、人で賑わう大通りを抜け、一際大きな建物を指さした。

そこには、交差する二本の剣を象った、大きな看板が掲げられていた。



重々しいオーク材の扉を開けると、そこは熱気と喧騒、そして微かな血の匂いが渦巻く空間だった。

冒険者ギルド。屈強な戦士たちが酒を酌み交わし、魔術師たちが羊皮紙を広げて議論にふけっている。しかし、その雰囲気は普段の賑わいとは少し違っていた。誰もがどこか落ち着かず、ヒソヒソと交わされる会話には「ミノタウロス」という単語が頻繁に混じっている。

リーゼロッテの仲間たちが、命からがら持ち帰った情報が、ギルド全体に重くのしかかっていたのだ。


その、張り詰めた空気の中を、リーゼロッテはまっすぐに進んでいく。

彼女の姿を認めた者たちが、驚きに目を見開いた。


「おい、あれ……“白銀の翼”のリーゼロッテじゃねえか?」

「生きていたのか!」


ざわめきが波のように広がる中、リーゼロッテは受付カウンターの一番奥に立つ、いかにも歴戦の強者といった風情の、片眼鏡をかけた壮年の男性――ギルドマスターの前で足を止めた。


「……生きていたか、嬢ちゃん」

「はい。そして、依頼対象であったゴブリンの集落、および、その奥にいたミノタウロスは、既に討伐済みです」


リーゼロッテの凛とした報告に、ギルド中が水を打ったように静まり返る。

ギルドマスターが、片眼鏡の奥の鋭い目を細めた。


「……討伐、だと?誰がやった」


その問いに、リーゼロッテは一瞬の誇らしげな笑みを浮かべると、振り返ってボクたちをまっすぐに見据えた。


「このお二方です。私の、命の恩人であり――主君です」


全ての視線が、ボクと、エプロン姿のママに突き刺さる。

その、疑いと好奇に満ちた視線の中、ママは一歩前に出ると、深々と頭を下げた。


「まあ、そんなに褒めていただいても、何も出ませんよぉ?全部、うちのボクちゃんがいてくれたおかげなんですもの♡」

「いやいや、ボクはママにお願いしただけだよ。ミノタウロスを一撃でやっつけたのは、全部ママの力じゃないか!」


ママとボクが、互いの手柄を全力で褒め称え合う。

それは、あまりにも甘ったるく、あまりにも場違いな光景だった。

張り詰めていたギルドの空気が、急速に弛緩し、困惑に満ちていく。


その、耐え難い甘々空間に、ついに我慢の限界を迎えた男がいた。


「ふざけるのも大概にしろや!!」


ガシャン!と大きな音を立ててエールジョッキをテーブルに叩きつけ、一人の大男が立ち上がった。

顔には大きな切り傷の跡があり、いかにも荒くれ者といった風体だ。


「こんなひょろっとした坊主や、エプロンつけた場違いな女が、あのミノタウロスを討伐しただぁ?信じられるか、馬鹿野郎!」


その、敵意むき出しの罵声に対し、ママは全く動じなかった。

それどころか、うふふと微笑むと、ボクの頬を優しく撫でる。


「そうよねえ。うちの子ったら、虫も殺せないような、こーんなに優しい顔をしてるんですもの。無理もないわあ。ねえ、ボクちゃん♡」

「んもう、やめてよママぁ~♡ ツンツン、くすぐったぁい♡」


ボクがママの腕の中で身をよじると、荒くれ者の男は、さした指をわなわなと震わせた。

目の前で起こっている光景に、彼の脳が理解を拒絶しているようだ。


「お前ら、舐めてんのかぁ!」


言葉に詰まった男は、意味もなく傍らの空いていた机を蹴り倒した。

自分の面子を保つには、何か行動を起こさねばならなかったのだろう。

その蛮行に、リーゼロッテが毅然として両者の間に割って入った。


「ミノタウロスが出現したのは事実だ。そして、殿(しんがり)を務めて仲間を逃がした私が、こうしてここに立っている。証拠として、それでは不足か?」

「あんたらのパーティ、“白銀の翼”の言うことは信用できるさ。ミノタウロスは出たんだろうよ。だがな!」


男は忌々しげに吐き捨てると、その指をまっすぐボクに向けた。


「そのガキが倒したっていうのだけは、どうにも納得がいかねえんだよ!俺を納得させてぇってんなら……小僧、俺と勝負しろ!」


その言葉に、ボクはにっこりと笑って答えた。


「ようし、受けて立とう!」


二つ返事で了承したボクを見て、荒くれ者の男は、逆に少したじろいだ。

ボクが虚勢を張っているのか、それとも本当に実力者なのか、判断がつかないのだろう。


ボクはそんな彼を横目に、くるりと向き直ると、ママの後ろにすっぽりと隠れた。


「ママ、やっちゃって! 」


しん、とギルドが静まり返る。

荒くれ者の男は「……は?」と間の抜けた声を漏らし、理解に数秒を要してから、その顔を怒りで真っ赤に染め上げた。


「それでも男か、てめえは!」


それは、もはやただの悪態ではなかった。彼の心の底からの叫び、マジなトーンの説教だった。


「いい年した男が、母ちゃんの後ろに隠れて!恥ずかしくねえのか!お前……お前、それでいいと本気で思ってるのか!?」

「いいんだよ!ボクとママの絆は無敵なんだから!」


ママの後ろからひょこっと顔を出して、ボクはキラキラした瞳で宣言する。

頭を抱えたリーゼロッテが、必死の形相で弁護を始める。


「あー、いや、彼は術士でな!戦うにしても、このような酒場で魔法を使うと、周りに多大な被害を出してしまう!ゆえに、戦士である母君に助力を願うのは、理に適った戦術的判断で……」


その、もはや悲鳴にしか聞こえないフォローの最中、ママが困ったように、ボクにだけ聞こえる声で囁いた。


「ねえ、ボクちゃん?ママ、モンスターじゃない、普通の人間の男の人と喧嘩するの……ちょっと怖いわ」


ママの、か細い、すがるような囁きが、ボクの耳に届いた。


「え……」


そうか。そう、だよね。

ママがいくら神様からチート能力を授かったといっても、昨日までは、現代日本で暮らす普通の主婦だったんだ。

モンスターとの戦いはゲームの延長として割り切れても、生身の人間、それも自分よりずっと体格のいい男性を相手にするのは、全く話が違う。


頭では自分が強くなったと理解していても、きっと心と身体が覚えてるんだ。

男性と向き合った時の、圧倒的な体格差。暴力に対する、どうしようもない無力感。


「ごめんね、ママ……。ボクが、間違ってたよ」


ボクはママの後ろから一歩踏み出し、今度は、ママの前に立った。

その背中はまだ小さくて、頼りないかもしれない。でも、精一杯、胸を張る。


「ママのことは、ボクが守る!」

「ゆうくん……!」


ボクの背後で、ママが息を呑むのがわかった。

その瞳が、感動でうるうると潤んでいくのを、見なくても感じられた。


「いやお前、普通のことだからな!? 普通のこと言っただけなのに、なんでそんな感動的な空気になってんだよ! そういうのやめな!」


荒くれ者の男が何か叫んでいるけれど、そんなの、今のボクには関係ない。


ボクは魔法職だけど、神様の加護で基礎ステータスも底上げされているはず。それに、ママを守るっていう、今のボクの心は、きっと何よりも強い。大丈夫!


「やりすぎちゃったら、ごめんね! えぇええええいっ!」


ボクは、トテトテトテ、と自分でも豪快だと思う足音を響かせながら走り、目の前の男の硬そうな腹筋に、渾身の右ストレートを叩き込んだ!


ぼすっ。


……あれ?

想像していたみたいに、壁まで吹っ飛んでいったりしないぞ?

ボクが不思議に思って顔を上げると、視界いっぱいに、大きな手のひらが迫ってくるのが見えた。


――ベチィン!


乾いた音と共に、世界がぐるりと回転した。

ゴロゴロと無様に床を転がり、仰向けに大の字になる。


「ゆうくん!」

「ユウト殿!」


ママとリーゼロッテが駆け寄ってくる声が、遠くに聞こえる。

すごく痛い、というわけじゃない。

でも、叩かれた左の頬が、ジンジンと熱を持って、すごく、すごく熱い。

こんな風に、本気の敵意をぶつけられたのは、小学生のころの喧嘩以来で。

驚きと、痛みと、悲しさで、鼻の奥が、きゅーっと熱くなる。


「ふぇ……」


こらえきれずに、一粒の涙が、頬を伝った。


その瞬間。


「ゆうくううううううううううううううんっっっ!!!!」


ギルド全体がビリビリと震えるほどの、ママの絶叫が、響き渡った。


それは、もはや悲鳴ではなかった。

愛する我が子を傷つけられた、母という生き物の、本能から迸る、魂の叫び。

さっきまで「怖いかも」なんて言っていた、か弱き主婦の面影は、そこにはもう、一片たりとも残ってはいなかった。


荒くれ者の男が、びくりと肩を震わせる。

ギルド中の誰もが、これから起こるであろう"ミノタウロス殺しの女戦士"の戦いを予感し、息を呑んだ。


しかし。


「ふえええええん、ママぁ、ママぁ~」


ボクは、駆け寄ってきてくれたママの胸に顔をうずめて、子供みたいにわんわんと泣きじゃくった。


「はいはい、よしよし。いいのよ、ゆうくん!がんばったわねえ、えらかったわねえ。ゆうくんの勇気に、ママ、とっても感動しちゃったわあ♡ ほうら、痛いの痛いの、飛んでけぇ~♡」


ママは、荒くれ者の男に見向きもせず、ただただ優しく、ボクの頭を撫で、背中をさすり、その涙を受け止めてくれる。


その光景を、荒くれ者の男は、言葉を失い、ただ呆然と見つめていた。

人目もはばからず泣きわめき、母親に甘ったれる青年男性。

どんなに甘やかされた貴族の坊ちゃまでも、こんな真似はしない。

いや、しようともできない。彼らは、家柄というプライドを背負っているからだ。

そして、否応なくたくましく生きることを強いられる平民の男に至っては、人前で弱みを見せること自体が、その身を危険に晒すことに繋がる。


では、目の前の、この男は、一体なんだ?

理解を超えた光景を前にしては、もう、侮辱の言葉すらも出てこない。

この坊主を皆の前で叩きのめして、「男」としてのプライドをズタズタにしてやろうと息巻いていたが……。

目の前の男には、そもそも、そのプライド自体が見当たらないのだ。

存在しないものを、どうやって傷つければいいというのか。


荒くれ者の男が、助けを求めるようにリーゼロッテの方へ視線をやると、彼女は、ひどい頭痛に耐えるようにこめかみを指で圧迫しながら、絞り出すように言った。


「……いや……本当なんだ。彼女が"ミノタウロス殺し"で、彼が"希代の回復術士"なのだ。信じがたいことだとは思うが……信じてくれ」


その言葉が、とどめだった。

荒くれ者の男は、ふらり、と一歩後ずさると、そのまま近くの椅子に、どさりと力なく座り込んだ。

もうその瞳には、戦意の光は残っておらず、虚ろな目で処理しきれない感情を酒と共に飲み下すことしかできなかった。

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