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第3話 窮地の女騎士とミノタウロスとママ

ふわりと身体が軽くなる感覚が消えた時、ボクたちの足は、固く、冷たい石畳の上に立っていた。


目の前に広がっていたのは、壮麗な神殿の成れの果てだった。

かつては白く輝いていたであろう大理石の柱は無残に崩れ落ち、神聖な彫刻が施された壁は蔦に覆われている。

ドーム状だった天井には大きな穴が空き、そこから差し込む幾筋もの光が、静かに舞う埃をきらきらと照らし出していた。


「うわー、すごい!ダンジョンだ!宝箱とかあるかな、ママ!」

「ゆうくん、はしゃぐと危ないわよ。足元、ガタガタだもの」


ゲームでしか見たことのない光景に興奮するボクを、ママが優しくたしなめる。

ママの視線は、ボクとは違うものに向けられていた。神殿の奥、瓦礫の中に埋もれるようにして立つ、一体の石像。

長い年月の風雨に晒され、苔むしてはいるけれど、その慈愛に満ちた表情は間違いない。ボクたちをこの世界に導いた、聖母神アストリア様だ。


「まあ……アストリア様、こんなに素敵な場所なのに、誰も来てくれないなんて、寂しいでしょうね……」


そう言って、ママは石像の頬についた汚れを、自分の袖でそっと拭ってあげる。


その時だった。

崩れた柱の影から、誰かがボクたちに必死に手招きをしているのに気づいたのは。


「声を潜めろ!こっちだ!」


切羽詰まった、けれどどこか凛とした若い女性の声。

ボクとママは顔を見合わせ、言われるがままに、その物陰へと駆け寄った。


挿絵(By みてみん)


そこにいたのは、銀色の美しい髪を持つ、一人の女騎士だった。

しかし、その姿は痛々しく、そして壮絶だった。

歴戦の跡が刻まれた鋼の鎧は所々がひしゃげ、そこから覗く青い衣服は赤黒く汚れている。

特に目を引いたのは、すらりと伸びた太ももに巻かれた、真新しい包帯。そこからじわりと滲み出す鮮血が、彼女の負った傷が浅くないことを物語っていた。


そして何より、ボクの心を掴んだのは、彼女の表情だった。

気丈に振る舞おうとしているのはわかる。

けれど、その青白い頬には、乾いた涙の跡がくっきりと残っていた。


「君たちは、いったい……!どこから現れた!?」


彼女はボクたちを睨みつける。そのエメラルドのような瞳には、警戒心と、そしてほんの僅かな怯えの色が浮かんでいた。


「まあ、ひどい怪我……!」


ママが心配そうに駆け寄ろうとすると、彼女は傍らに置いていた剣の柄に手をかけ、鋭く制した。


「動くな!……ここは危険だ。あの化け物が、また戻ってくる」

「化け物……?」


彼女は頷き、悔しそうに唇を噛んだ。


「ギルドの依頼で、この遺跡に救うゴブリン討伐に来たのだが……奥にいたのは、ミノタウロスだった。迷宮の深部に生息するはずの強力な魔物が、なぜこんな場所に……」


ミノタウロス。その名前を聞いて、ボクの背筋がぞくりと冷たくなる。

ゲームの中では何度も戦った相手だ。でも、ここは現実。


「仲間は……どうしたの?」


ボクの問いに、彼女は一瞬、目を伏せた。


「……無事に逃げられたはずだ。私が、殿(しんがり)を務めた。だが、私も足を……。もう、ここから動けそうにない」


彼女の言葉の端々から、絶望的な状況が伝わってくる。

仲間を逃がすために、たった一人で、あのミノタウロスと戦ったんだ。

そして、深手を負い、ここに隠れて……。


(もしかして、この人、ここで一人で、死ぬつもりだったんじゃ……)


その考えに至った時、彼女の頬に残る涙の跡の意味が、痛いほどわかった気がした。

きっと、怖かったんだろう。たった一人で、死を待つのが。


その時、彼女がはっと顔を上げた。

ボクたちのやり取りを見て、何かを決意したように、彼女の瞳に、最後の光が灯った。


彼女はボクのママが着ていたエプロンを借りると、震える手で、自分の足の傷口を固く、固く縛り上げていく。

その表情は、まるでこれから処刑台に上る罪人のようでもあり、聖戦に赴く聖女のようでもあった。


「ああ……死に損なっていたからな。強がって仲間を逃がして、そのくせ一人になったら死の恐怖に怯えて……」


自嘲するような笑みが、彼女の口元に浮かぶ。


「きみたちのおかげで、命の使いどころができた」


結び目を、歯を食いしばって固く縛り上げる。


「私は今一度、あいつの足を止める。君たちは、その隙に逃げろ」


「そんな……!」


「さっきまでは……早く殺してくれと思っていた。逃げることもできずにここに隠れ続けて……死を待つだけの時間が、辛かった。でも、君たちのお陰で、少なくとも私は……騎士として、戦って死ねる」


その悲壮な告白を聞いたママの瞳から、大粒の涙がひとつ、ふたつと、静かにこぼれ落ちた。


「まあ…なんて良い子なの…一人で、ずっと怖かったでしょうに…」


次の瞬間、ママは、その震える騎士の身体を、壊れ物を扱うかのように、優しく、優しく抱きしめた。


「え……?」


突然の行動に、女騎士の身体が驚きで強張るのがわかった。

言葉はいらない。ただ、絶望と恐怖に震えていた一人の女の子を、無条件の愛で、ただ抱きしめる。

ママの腕の中から、ふわりと温かい光が溢れ出す。それは攻撃的な光じゃない。心のささくれを全部溶かしてくれるような、慈愛の光だ。


その光の中で、彼女を縛り付けていた死の恐怖と、"誇りある死へ"の呪縛が、すうっと溶けていくのが、ボクにも分かった。

生まれて初めて感じる絶対的な安心感に、強張っていた彼女の身体から、ゆっくりと力が抜けていく。


その時だった。

神殿の奥から、地を揺るがす咆哮と共に、巨大な影が姿を現したのは。


身の丈は3メートルを優に超える、牛頭人身の怪物――ミノタウロス。

その手には、巨大な両刃斧が握られ、血走った目が憎悪と飢餓にギラついている。地響きを立てながら、一歩、また一歩と、こちらへ近づいてくる。


ママの腕の中で、女騎士がはっと息を呑んだ。しかし、一度抜けてしまった心の力は、もう戻らない。ママの温もりに安堵しきった彼女の身体は、戦うことを拒絶していた。


その力が抜けた手から、ボクはそっと剣を取った。

ずしりと重い。本物の鉄の感触が、手のひらに汗を滲ませる。


「ボクたちにまかせて」


「ま、待て!君たちは、いったい……!」


女騎士の制止を背に、ボクとママはミノタウロスの前に立つ。

ボクは迫りくる怪物と真正面からにらみ合う。その圧倒的な威圧感に、思わず喉がひゅっと鳴った。


でも、ボクの後ろには、ママがいる。


その事実が、ボクにありったけの勇気をくれた。

ボクは自信たっぷりに笑うと、後ろにいるママに、震える手で剣を差し出した。


「ママ、おねがい!」


「「ええーーー!?」」


ママと、物陰から見守る女騎士の、驚きの声が綺麗にハモった。


「えっ、え、ママ!?ママが戦うの!?む、無理よ、そんなの!喧嘩だってしたことないのに!」

「大丈夫だよ!ほら、ボクの誕生日プレゼントだったVRのゲーム、よくやってるでしょ?」

「やっ……てるけどぉ~」


そう、スーファミ世代のママは意外とゲーマーなのだ。

最近のゲームは複雑でわからないと言いながらも、アーカイブスのドット絵ゲームを今でもよくやっている。

やり始めるとのめり込む方で、ハイスコアを競う系の単純なファミコンゲームを延々やっている時も。

そして最近は、ボクのクリスマスプレゼントだったVRゴーグルを使ったチャンバラゲームにすっかりハマっていたのを知っている。


「ゲーム?ゲームだって!?」


VRという単語は通じなかったようだが、ゲーム(遊戯)という言葉に、女騎士が信じられないといった表情で顔を出す。


「馬鹿なことはするな!素人が剣を握ったところで、何もできずに殺されるだけだ!早く剣を渡して逃げるんだ……!」


足を引きずりながら叫ぶその姿を見て、ママのスイッチが入ったようだ。

彼女はボクから剣を受け取ると、慣れた手つきで構える。


「そうよね……そうよ。言われてみれば、この剣、なぜかVRのコントローラーより軽いし、この光景だって……あのゲームとそっくりじゃない」


ブモオオオオオ!

ミノタウロスが、ボクたちの呑気な会話に痺れを切らしたように咆哮し、突進してくる。


「それに、あの牛さんだって、ゲームのボスより、なんだか小さくて、弱そう!」


猛然と迫る死の脅威。

それに対して、ママは――たった一歩だけ、まるで部屋の隅に追い詰められたみたいにちょこんと前に踏み出すと、剣を横薙ぎに一閃した。


「えーい!」


その可愛い掛け声とは裏腹に、振り抜かれた剣は空間そのものを断ち切ったかのような、一条の光の軌跡を描いた。

次の瞬間、ミノタウロスの巨体は、何の抵抗もなく、音もなく、綺麗に真っ二つになっていた。

上半身と下半身が泣き別れになった怪物は、断末魔を上げる間もなくその勢いのままボクたちの横を通り過ぎ、後方の壁に激突して、瓦礫と共に崩れ落ちた。


しん……と、神殿に静寂が戻る。


「あの踏込み……部屋の壁にぶつからないようにっていうVRの意識が染みついてるね」

「だって~~!!狭いんだもの、うちのリビング!」


静まり返った神殿に、ボクとママの呑気な会話が響く。


物陰からその一部始終を見ていた女騎士は、非現実的な光景に言葉を失っていた。

理解不能な単語が頭の中をぐるぐる回り、完全に思考がフリーズしている。

彼女は、目の前で息子とじゃれあう女性を指さしたまま、ただ口をぱくぱくとさせることしかできなかった。

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