ep.4 - 雑貨店で起きたこと(4)輪郭を守る距離
午後のカフェは、ひとしきり混雑を終えたあとの、ゆるやかな静けさに包まれていた。
氷の溶けかけたアイスティーのグラスを前に、えりかは小さく吐息をついて、ぽつりと口を開いた。
「“フレーケン”って、スウェーデン語で“お嬢さん”って意味なんです。……本当はね、“未婚の女性”とか“女性教師”ってニュアンスもあるんだけど」
怜は頷いた。その頷きは、急かさず、促さず、ただ「続きを聞いてもいい」という合図だった。
「ちょっと、皮肉でしょ? 私が“フレーケン”なんて店で働いてるの」
えりかは、乾いた笑みを浮かべる。
「今さら“お嬢さん”でもないし、誰かに何か教えられるような人間でもない」
怜はその言葉にただ静かに目を細めた。自嘲の奥に、少し別の感情がある気がした。
えりかは窓の外に視線をやり、遠くのほうを見る。
「でもね……雑貨って、教えるものじゃなくて、渡すものだと思ってるの。日々の中で、なんとなく目に入って、なんとなく手に取って……なんとなく、ちょっと、好きになる。そういうものを置きたいと思ったの」
言葉を紡ぎながら、えりかの頬に、わずかに微笑みが戻る。自分が好きだったものたちの記憶を、そっと撫でるように。
「“好き”って、言葉にしなくても、じわじわ広がるでしょう?
私、自分がそうやって“もらった”ものたちに、ようやく手紙を書けるような気がして……そんな気持ちで、働いてたんだ」
その声には、少しの照れと、ほのかな誇りが滲んでいた。
怜は、小さな間を置いてから言った。
「……じゃあ、“誰かに渡したい手紙”みたいなお店、なんですね」
アイスティーのグラスの水滴が、つう、とテーブルに伝う。えりかはそれを拭おうともせず、指で軽くなぞった。
「……フレーケンが“そうじゃなくなる”のが、怖いの」
その言葉が、ゆっくりと怜の中に沈んでいく。
そしてふと、思いが芽吹くようにひとつの疑問が浮かんだ。
雑貨屋フレーケンの商品は、どれも丁寧に選ばれていた。手触り、色合い、棚の並びまで──えりかという人間の“感じ方”がそこに確かに表れていた。
(……あの店を見れば、えりかさんがどんな人か、少しわかる気がする)
けれど──そういえば、犯人は。
あの“視線の嫌がらせ”をしていたという客。えりかを見ているのに、何も言わない。何も主張しない。
ただじっと、遠くから視線を送り、店を出ていく。それだけ。
(……見られたくないのに、見ている。
関わろうとはしないのに、干渉する)
まるで、「自分の像」は出さずに、相手だけを型にはめようとしているような──。
それは、心理学で言えば“回避型愛着”に近いのかもしれない。
他者と深く関わることを恐れ、けれど同時に、相手には「こうあってほしい」と一方的な期待を抱く。その期待に応じなければ、「失望」「敵意」といった感情が生まれる。
しかも、それを表現する術を持たず、内に溜め込んだまま、静かに圧をかける。
(……自分を見せられない人間ほど、他人の輪郭をコントロールしたがるのかもしれない)
怜の中で、何かが繋がった気がした。
犯人の姿が見えないのは、意図して“見えない位置”にいるからだ。そしてそれは、“関わらないこと”で自分を守っている裏返しでもある。
(じゃあ……“その距離”を崩すしかない)
誰かに見られることで、初めて「自分の形」が露わになる。えりかがそうだったように。
ならば、“見返す”ことが、あの無言の圧力の正体を暴く鍵になるのではないか。
そう思ったとき、怜はふと、えりかの言葉を思い出した。
「“好き”って、言葉にしなくても、じわじわ広がるでしょう?」
(──“悪意”も、そうなんですよ)
怜は、心の中で静かに呟いた。
そして、それを“見る”ことができるかどうか。それが、誰かの輪郭を守るということなんだ、と。