ep.4 - 雑貨店で起きたこと(3)記録に残す
桐島が雑貨店「fröken」を初めて訪れてから、すでに十日以上が過ぎていた。
二度目の訪問では、空間の配置を、三度目では出入りする客の顔ぶれを。
そしてその時、ようやく“見る者”を見つけた。
男は、商品に触れもせず、店員にも話しかけず、ただ、視線だけを送り続けていた。
言葉も行動もない。ただ“見る”という一点だけで、空気を削っていくような存在──その痕跡が、未だに胸の奥に残っている。
桐島がリュールの扉を開けた瞬間、湿気を含んだ午後の空気が背中から滑り込んできた。
そろそろ梅雨明けの兆しは見えていたが、まだ時折、空のどこかに残る湿度が、光を鈍く染めていた。
桐島は、いつものように窓際の席に腰を下ろす。
怜は、短く会釈をして、いつものブレンドを通すためカウンターへ引き返す。
リュールには静けさがあった。ただの“音の少なさ”ではなく、人と人の間にちゃんと「黙っていてもいい時間」が流れている──そんな空間。
桐島は、湯気の向こうを眺めるようにしながら、ふと目を伏せた。
視線──。
それは、記録には残せても、証拠にはなりにくい。
ましてや、フレーケンを訪れるあの男のように、何も語らず、何も手を出さず、ただ“見る”だけで悪意を送る者には。
……だが、確かにあった。
“受け取る側”にだけ分かる、刃のない刃のような圧力。あの雑貨店の空気の淀み。
えりかという女性が、それでも笑顔を保ち続けようとする、その揺らぎ。
目を背けたくなるほど、静かに、そこに在る。
桐島は、内ポケットの手帳に指をかけた。そこには、あの男と出会った日付、服装、滞在時間、立ち位置、視線の動き──これまでに目撃した全ての記録が、余白なく並んでいる。
言葉も手出しもない。ただ“見る”だけの男。けれどその視線が向けられた空間には、確かに残っていた。
だから桐島は、主観を挟まず、ただ記した。感じたことではなく、見えたことだけを。
話しかけず、関係を作らず、ただ、“見ていた”という一点にすべてを込めて。
それでも、記録はあっても、それが「線」になるには、まだ何かが足りない。
見た事実をどう扱うか、それをどう切り取って他者に差し出せるか。それを決めるには、桐島自身の中に、確かな根拠が要る。
だが──
(……俺は、見誤ったことがある)
その思いは、深く沈殿していた。
“正しく見ていた”と信じていた。
自分の信じていたことが誰かを守れなかったとき、“見ること”そのものが、虚ろな営みに思えたことがある。
それでも今、もう一度こうして「見ること」に立ち返っているのは、それしか、自分に残らなかったからだ。
「信じる」も「裁く」も、今の自分にはできない。ただ、黙って、何度でも見る。目を逸らさずに。形になるまでは。
怜が、コーヒーをテーブルに置いた。湯気が、ふわりと空気に滲む。
桐島は軽く頷いて、カップに手を添えた。
「……何か、ありましたか?」
怜の問いはいつも、深くは踏み込まない。けれど、聞こえないふりもしない。それがどこか心地よかった。
桐島はかすかに目を細めたまま、外を見ていた。
鈍く光る舗道。くすんだ傘を差して歩く人々。すべてが曖昧で、流れに紛れている。
「……まだ、決められないだけだよ」
そう言って、また黙る。まるで自分自身に言い聞かせるように。
怜は、それ以上何も言わずに、カウンターへ戻っていった。
湿気の奥に、風の匂いが混じりはじめている。
きっともうすぐ、空が変わる。けれどその前に、もう少しだけ見続けていたい。
桐島は、コーヒーに口をつけながら、ふと指先でポケットの中のメモ帳をなぞった。
(……まだ、“何か”が足りない)
それでも。
その“足りない”を埋めるのは、自分が目を逸らさなかったという、ひとつの確信かもしれなかった。