ep.10 - わたしを見つけないで(9)湯の縁の会話
昼の食事会から戻ると、山宿かきのはの二日目の夜が静かに降りていた。
外は群青の闇に沈み、戸口の隙間から冷気と晩秋の匂いが忍び込んでいた。
夕食前、鳥居は一番風呂をしっかり満喫して、にこにこ顔で戻ってきた。
「いやあ、今日は昨日よりも空が澄んでて、露天からの眺めが格別でしたよ。縁に腰かけると、湯気の向こうに山の稜線がくっきり見えるんです。桐島さんも、絶対入ったほうがいい」
「……じゃあ夕食後にでも」
あっさり頷く桐島の横で、怜は「それなら、自分は内湯でいいです」と言った。
夕食後、予定通り桐島は露天風呂へ、怜は内湯へ向かう。
しかし脱衣所の戸を開けた瞬間、見覚えのある派手なバンダナのおじさんがこちらを振り返った。
すぐ後ろには、同じく鳥の刺繍が入ったタオルを首にかけた中年男性たち。
(……バードウォッチング同好会……)
朝食会場で双眼鏡をぶら下げ、「今朝はオオルリが」と盛り上がっていた十人組だ。湯船からも鳥談義が聞こえてくる。
(無理だな)
タオルを握り直し、そのまま引き返す。
結局、怜は桐島の部屋の前に立っていた。軽くノックすると、しばらくして内側で鍵の外れる音がする。
「……すみません。一緒に入っていいですか」
戸を開けた桐島は、湯あみの用意をしていたところらしく、タオルを肩にかけたまま怜を見た。
「ああ、別に構わない。俺は長湯しないから、十五分もあれば十分だ」
「……じゃあ、三十分ずつ使いませんか」
そうして二人は予約枠を半分ずつ使うことにした。
怜は先に湯へ向かう。夜気に包まれた露天風呂は、湯面に月がゆらいでいた。
湯に浸かると、昼間の張り詰めた空気がほどけていく。
肩まで沈み、呼吸がゆるむ。疲労と温もりが溶け合い、まぶたが重くなる。
目を閉じれば、湯が縁からこぼれる小さな音と、虫の声が溶け合って響く。
──肩を軽く叩かれ、目を開けた。
「こんなとこで寝るな。死ぬぞ、間抜け」
桐島が立っていた。もう後半の時間だ。
「っ……!」
反射的に背筋を伸ばし、湯を跳ね散らして立ち上がりかける。慌てて腰を沈め直し、視線を逸らす。
男同士とはいえ、不意に至近距離で裸の桐島が目に入ると、どこを見ればいいのか一瞬迷う。
桐島はそんな怜を気にも留めず、悠然と湯の縁をまたいだ。
怜は湯から上がろうとして、ふと桐島の肩口に目が留まった。
厚みのある腕に、細い古傷がいくつも走っている。それは、浅いもの、掠れたもの──怜には理由のわからない“過去”の断片であり、ただ視線を離せなかった。
「……お前、見過ぎ」
低い声に、怜ははっとして顔をそらす。
「ち、違います。別に……そういうんじゃ」
「はは、わかってる」
桐島は口元だけで笑う。
「年寄りみたいに過去の武勇伝とか聞かせるつもりはないから、安心しろ」
湯気の向こうで、その笑みはすぐに表情の奥へ沈んでいった。怜は何も言わず、湯の縁に視線を落とした。
湯から上がろうと縁に手をつき、ふと昼間の展示を思い出す。
「……桐島さんは、《輪廻の花》、どう見ました?」
桐島は少しだけ目を細める。
「見たまんま、精緻で、手間がかかってる。けど、作ったやつの感情は見せずに、何か別の“意図”を沈めてる」
怜は湯の中で軽く頷いた。
「綾乃さん、花弁の位置や高さ、角度まで全部決まっていて、一枚でも違う場所にあれば別の意味になるって……そんなことを言っていました」
「ふうん」
「言い方は事務的なんですけど……少しだけ、熱が混じってました。『完成はまだ』とも」
桐島は短く息を吐く。
「何をもって“完成”なのか、って話だな」
湯の外では、風に揺れた枝がかすかに擦れ合っていた。
怜は視線を落としたまま、ぽつりと言葉を継いだ。
「……父が舞台美術をやってたんです。物の形や位置に、やたらこだわる人でした。舞台の端に置く椅子ひとつでも、“そこじゃない”って何度も動かして」
「なるほどな」
「だから、あの言葉を聞いたとき、少し父を思い出したんですけど……綾乃さんのは、なんというか……もっと“置くこと”自体が目的みたいで」
怜の顔は曇っていた。
「……でも、それが何のためなのかまでは、わかりません」
桐島は「そうだな」とだけ返した。
二人とも綾乃の態度の奥に何かを感じながら、その正体までは掴めない。
夜気が湯面をわずかに揺らし、その揺れが怜の胸にも沈んでいった。理由の見えないざわめきだけが、静かに残った。




