ep.10 - わたしを見つけないで(8)二つの温度
屋敷の廊下を進みながら、怜はここへ来る前の鳥居とのやりとりを思い返していた。
──鏡山家の現当主は、もう長く病に臥せっている。表に出ることはほとんどなく、家の切り盛りは娘の有理が担っているらしい。
その有理の息子・匠人は二十代後半。穏やかさと計算高さを兼ね備えた人物だと、鳥居は評していた。
御影家は、その鏡山家に代々仕える分家筋。今の主は御影洋介。もともと東京で音楽をやっていたが、九年前に兄・久志が自殺し、呼び戻されたという。
久志は綾乃と彩葉の父。双子がまだ十代の終わり頃のことだ。
「理由は“心労”ってことになってるけど、詳しいことは外には出てない」
鳥居はそう言って、軽く肩をすくめた。
さらに三ヶ月前には、鏡山家の現当主の弟、稔彦が自殺している。
「順番でいえば、匠人さんがいずれ家を継ぐ。そのための婚約……今日はそのお披露目ってわけです」
鳥居の声は軽かったが、怜はその奥に、二つの死が沈めたままの空気を感じ取っていた。
廊下の角を曲がると、障子の向こうに低い話し声と器の触れ合う音がした。
怜は頭の中の人物図をもう一度なぞりながら、鳥居のあとについて席へ向かった。
畳のきしみが足裏から伝わる。
床の間側の上座には有理、その隣に匠人、彩葉、綾乃、そして白髪の長老格の女性。
入口近くの下座には、有理の従兄弟、御影洋介、鳥居、桐島、怜。怜だけが礼服ではなく整えたシャツ姿だったが、誰も咎める者はいない。全体に、格式ばった式次第というより、親戚の集まりに外部の客が混ざったような雰囲気だった。
洋介は五十に届くかどうかの年頃で、猫背気味の男だった。着物の裾を気にしながら座布団に落ち着くと、ぎこちない笑みを怜たちに向けた。
「はじめまして。御影洋介です。……工房のことはまだ勉強中ですが、なんとかやってます」
声は柔らかく、どこかこの家の空気に馴染みきれていない響きがある。
綾乃と彩葉は、目元も口元も驚くほど似ていた。髪型や装いの違いがなければ見分けはつかないだろう。ただ、綾乃の方が少し背筋がまっすぐで、口数が少なく、彩葉は笑みを崩すのが早い。食事の合間にも、彩葉は屈託なく隣の匠人に話しかけ、綾乃は丁寧に箸を置いて相槌を打つ。
怜は、双子の揃った造作の奥に、別々の温度を感じた。
稔彦の話題が出たのは、八寸の皿が下げられる頃だった。
「……三ヶ月経っても、まだ信じられません」
綾乃は淡々とそう言った。
低く抑えられた声と、少し長めに置く沈黙。その所作は、哀悼の形として整いすぎていて、逆に隙間が目立つ。
有理はそんな綾乃を横目に、「あの人は鏡山のためによく尽くしてくれた」と短く言い、話を切る。周囲の空気が一瞬引き締まる。
その空気の中でも、彩葉は変わらず明るく、綾乃に料理を勧め、さりげなく皿を引き寄せる。その仕草は姉妹というより、舞台で役を支える相方のようにも見えた。
鳥居が盃を置いてふっと目を細めた。
「婚約の席に立ち会えて光栄です。……お父様も、きっと嬉しいでしょうね。九年という歳月を越えても、こうして二人が笑っているのを見たら」
屈託のない調子だったが、その言葉にはどこか舞台の幕間に差す光のようなやわらかさがあった。
彩葉は笑みを保ったまま頷いたが、声は出さなかった。礼を述べるというより、形式だけをなぞったような動きで、どこか遠い。
綾乃は一拍遅れて「……ありがとうございます」と返し、わずかに息を揺らした。けれど、その端のほころびはすぐに整えられる。
有理が「父上も御影家の繁栄を願っていた」と結び、長老の女性が頷く。話は婚約祝いの進行へと移った。
それでも怜の視線は、彩葉の変わらぬ頬の緩みと、綾乃のわずかな視線の揺れとを交互にたどっていた。二つの温度差は、胸の奥で別々の違和感として沈んでいく。
会食がお開きになると、綾乃がふと怜に声をかけた。
「よろしければ、《輪廻の花》をご覧になりますか」
そのすぐ後ろから、彩葉も「せっかくだし、見ていってください」と軽い調子で言い添える。
桐島と鳥居が客間に残り、有理や洋介と話を続ける声が遠のく。廊下には、怜と綾乃、そして彩葉だけの足音が響いた。
屋敷の奥、“玻璃の間”は、古い梁を鉄骨で補強した吹き抜けの天井を持っていた。
その中央から、《輪廻の花》が静かに垂れ下がっている。真紅から金へと溶けていくガラスの花弁が幾重にも重なり、柔らかな光を受けてわずかに揺れていた。
怜は一歩踏み入れると、まず全体を見上げた。目立たぬ色で塗られた鉄骨が天井に伸び、その間を、細い銀糸のようなワイヤーが幾筋も渡っている。梁には滑車が並び、そこから格子状のフレームが吊られていた。花弁はそのフレームの各所に細いワイヤーで固定され、重さが均等に分散されているのがわかる。
中央部分は化粧板で覆われていたが、継ぎ目の奥に昇降用のワイヤーが一筋の影のように覗いていた。美術館の吊り装置を思わせる構造──展示替えや清掃のために、作品ごと上下させられる仕掛けだ。
「……よく、こんな構造を屋敷の中に入れましたね」
思わず声にすると、彩葉は小さく笑った。
「大掛かりに見えるでしょう?でも、工房でも組める程度なんです。梁の補強も、叔父が大工さんと一緒に」
怜は頷きながら、目の奥で別の光景を見ていた。
美術館の高い天井。そこに取り付けられた吊り装置について、怜に語って聞かせた父の背中。
彩葉の声が遠くで続いている。
「……光の角度は、時間ごとに計算してあります。昼は自然光で、夜はスポットで」
その目には、展示そのものよりも、これがどう見えるべきかを計算している光があった。
「……形だけじゃなく、置き方にも意味があります」
彩葉の隣で、綾乃は落ち着いた声を出した。柔らかな笑みの彩葉とは対照的に、その表情は凪のように平らだ。
「置き方、ですか」
怜が訊き返すと、綾乃は視線を《輪廻の花》の中央に向けた。
「この位置、この高さ、この角度……すべて決まっているんです。たとえ一枚の花弁でも、違う場所にあれば、別の意味になる」
言葉は事務的だったが、その奥に微かな熱を感じた。
怜は彼女の横顔を見た。光の反射が頬に淡く揺れ、瞳の奥に赤が差し込んでいる。
「完成は……まだ、です」
綾乃の声は低く、ほとんど独り言のようだった。
怜は何も言わず、再び天井を仰いだ。
──形ではなく、置き方。
それは舞台の上で、最後の一歩を踏み出す役者を待つ、静かな装置のようでもあった。




