ep.10 - わたしを見つけないで(7)火のそばの記憶
食事棟の引き戸をくぐると、炭の香りがふわりと鼻をくすぐった。
囲炉裏風の掘りごたつ式テーブルに腰を下ろすと、足元からじんわりと熱が伝わってくる。障子越しの明かりが、懐かしい空気をやわらかく漂わせていた。
桐島が向かいにひとり。怜と鳥居は並んで座る。
すでに柿の白和えとお浸しの小鉢が並び、女将が土瓶と湯呑を置いていった。
鳥居は、肩から湯気が立ちそうなほど上機嫌で、湯呑を両手で包んだ。
「いやあ、一番風呂、いただいちゃいました。見てくださいよ、このツヤ」
そう言って、自分の頬をぺちりと叩いてみせる。
「怜くん、ちょっと触ってみます? いまが旬ですよ、湯上がり美肌」
「いえ、結構です」
怜は淡々と答え、椀を手に取った。
怜の髪はまだところどころ湿っていて、耳のあたりから落ちた一筋の水滴が浴衣の襟元を濡らしていた。
それを見た桐島が、わずかに眉を寄せる。
「……もう少しちゃんと乾かせ。風邪ひくぞ」
その声音には、注意というより癖のような心配が混じっていた。
「乾きにくいんです。細くて量が多くて……。遅れるのも嫌でしたし、すぐ乾きますから」
軽く受け流す怜の横から、鳥居がにこやかに口を挟んだ。
「怜くん、そういうところで“間に合えばいい”精神が出るの、すごく人間味あって好きです。整えるより、誰かを待たせない方を選ぶ。えらい、えらい」
冗談めいた言い方に、怜は少し照れたようにうつむいた。
数品を重ね、囲炉裏に炭がくべられた頃。
地鶏の味噌漬け炭火焼きが、香ばしい音とともに供された。
鳥居は目を細める。
「……これは、なんでしょうね。味噌が語り部みたいな顔して、いろんな記憶を語っているんです」
怜が、思わず箸を止める。
「記憶、ですか」
「ええ。火のそばで囲炉裏を囲んだ時間とか、誰かと過ごした晩秋の夜とか──そういう風景が、香ばしさに溶けてる。味噌の焦げは、言葉にならなかった想いの跡みたいで。……ちょっと切なくて、でも温かい」
その語りに、怜は苦笑した。
「料理一つでそこまで語れるの、さすが作家ですね……」
鳥居は湯呑を口元に運びながら、穏やかに笑った。
「いえいえ、僕はただの通訳です。“料理が話してること”を、代わりに言葉にしてるだけ」
その言葉が少し印象に残ったのか、怜はしばらく黙っていた。やがて、焼き目のついた鶏肉を口に運び、ぽつりと呟いた。
「……そういえば、さっき“かたち”を作ってきました。ろくろで、湯呑を」
鳥居が興味深そうに目を向ける。
「おや、どうでした?」
「山の匂いと、土の匂いがしました。……父がかつて関わっていた場所で、職人さんに教わって、初めて土に触れました」
「それは……お父さんの痕跡をなぞる旅でもあったんですね」
「……はい。でも、痕跡というより、“芯”に触れる感じでした。職人の方が言っていたんです。土も人も、芯が立ってないと、形にしてもブレるって」
怜は湯呑を両手で包むような仕草をしながら、少し目を伏せた。
「……うまくは作れませんでしたけど、できあがったものを見て、なんとなくわかった気がしました。“今の自分が出る”って、こういうことなんだなって」
その言葉に、桐島が箸を止め、一瞬だけ怜の方を見る。
鳥居はゆっくりと頷き、湯呑を手に取ってほほえんだ。
「……“整っていない形”こそが、自分の証明になることもある。焼き上がりが楽しみですね。きっと、いい湯呑になりますよ」
食事を終え、三人は宿泊棟へと続く小径を歩いていた。
敷石の間からは控えめな照明が漏れており、ほんのりと苔の匂いを帯びた夜気が、肌を撫でていく。遠くで虫の声が細く響き、頭上では風に揺れる竹の葉が、さやりと音を立てた。
鳥居は先に石畳を渡り、灯りの向こうに消えた。残った二人の間に、夜の静けさが沈む。
「……明日、付き合ってくれ」
桐島が振り返る。
「え?」
「鏡山家で、食事会がある。鳥居が、お前のことを“友人”として紹介した。もう先方には通してある」
「僕を?」
「無理にとは言わない。ただ、そういう流れになった」
淡々とした口ぶりだった。けれど、その眼差しはどこか慎重に怜を測っていた。
怜はほんの少し考えるように視線を逸らし、それからぽつりと答えた。
「……気になってたんです、実は。今日、メールを読んだときから。言葉はきちんと整ってるのに、どこかで“本音が隔てられてる”感じがしました」
怜の声は静かだったが、その奥には微かな高揚があった。
「それに、桐島さんがどういうふうにそういう人たちと向き合うのか──ちょっと見てみたいなと思ってたところです」
その言葉に、桐島はほんの一瞬、視線を揺らした。
「……あまり深入りする必要はない」
桐島が小さく呟くと、怜は軽く笑った。
「深入りするつもりはありません。ただ……見るのは、好きですから」
桐島はふと視線をあげる。
怜は少し首を傾げ、真っ直ぐに見つめ返した。
「“見ること”って、わりと……僕にとって、大事なんです」
短い沈黙ののち、「……そうか」と桐島が言った。
それからわずかに口角が動く。それが笑みだったのか、ただの呼吸の余白だったのかは分からない。
歩き出す桐島の背を追いながら、怜は小さくつぶやいた。
「“友人”っていうより……共犯者、みたいですね」
桐島は何も答えず、ただ歩みを進めた。夜気が二人の間をすり抜けていった。




