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ep.10 - わたしを見つけないで(6)山宿かきのは

 窯元を出た怜を拾い、三人を乗せたレンタカーは、山肌をなぞるようにして舗装道を下っていく。フロントガラス越しに、傾きはじめた陽光が枝の影を透かしながら、淡く車内を染めていた。


「……あ、そうだ」


 運転席の鳥居がふいに口を開く。


「宿、二部屋しか取れなかったんです。“バードウォッチング同好会ご一行様”と重なっちゃっててね。あの辺鄙な宿に、まさかの予約殺到。油断しました」


「バードウォッチング……」と怜がつぶやいた。


「そう。双眼鏡と地味な情熱で構成された、なかなか強そうな集団がチェックインしてるらしい」


 鳥居は小さく笑い、ゆるやかにハンドルを切る。道路脇には、くねる矢印が描かれた黄色い警戒標識が立っていた。


「で、部屋割りなんですけど……どうします?」


 鳥居が、ちらりと助手席の桐島の横顔をうかがう。

 桐島は外の山影に目を向けたまま、淡々と答える。


「俺は相部屋でいい。布団の上で横になって眠れれば、それで上等です」


「さすが元刑事。床でも寝られる人は、だいたい信用できます。床と相部屋と沈黙に耐えられる男はね」


「……ずいぶん偏った哲学ですね」


 桐島がわずかに笑ったのを見て、鳥居はさらに調子を乗せる。


「というわけで、一人部屋は怜くんに。気を遣いながら眠るのって、朝には“心だけが寝不足”になってるんですよ。そういう人、何人も見てきました」


 怜は少し目を瞬かせた。


「……そんなに気を遣ってるように見えますか?」


「ええ。湯呑を置く音ひとつでも静かにしようとするでしょう。そういう人は、自分の寝息で相手を起こすんじゃないかって気にして、結局眠れなくなる。だから、一人部屋は君に決定です」


 怜はわずかに眉を下げ、遠慮がちに笑った。


「じゃあ、鳥居さんと桐島さんが同室ですか?」


「はい。僕は誰とでも寝ます──いや、“同じ部屋で眠れます”。寝言を言っても驚かないでくださいね。たいてい、詩か天気の話しかしませんから」


 鳥居の冗談めいた調子に、怜は目尻を下げた。鳥居は言葉を続ける。


「寝つきはいいんです。ただ、布団に入って一度“今日一日をたたむ儀式”をするんですよ。心の引き出しを順に開けて、忘れ物がないか確かめて……最後に、明日への手紙を書く。書いたことは朝になると全部忘れてるんですけどね」


 桐島がちらりと横目で鳥居を見る。


「……つまり、寝るのに時間がかかるってことですか?」


「いやいや。眠るには眠るんですけど、目を閉じると、“そのときは気にも留めなかったもの”が浮かんでくるんです。怜くんの指先の動きとか、桐島さんの瞬きの間合いとか……で、気づくと脳内でインタビューが始まってる。“その沈黙に、どんな意図が?”なんてね」


 運転席から軽やかにそう言った鳥居に、助手席の桐島がわずかに眉を動かす。


「……眠ってる時も仕事してるんですね。ご苦労さまです」


 皮肉とも冗談ともつかない声音に、怜が小さく吹き出した。

 そんなやりとりのあと、車内は再び静けさを取り戻した。


 山の向こうに夕暮れが差し込み、空気が少し冷たくなる。宿まではもう十数分だった。



 宿の玄関先には、控えめな行灯が灯っていた。

 「山宿かきのは」と毛筆で書かれた木の看板が、夕闇にしっとりと馴染んでいる。


「……いい名前ですね、“かきのは”」


 帳場の脇でそう呟いた鳥居に、隣にいた怜が目を向けた。


「言葉の響きが柔らかい。素朴だけど、どこか品もある……気になりません?」


「うん、なんだか、ちょっと詩みたい。……由来、聞いてみますか?」


 怜の言葉に鳥居が微笑み、フロントに控えていた女将に声をかける。

 髪をきちんと結い、割烹着姿の女将は、年の頃は六十手前といったところで、にこやかに二人に顔を向けた。


「宿の名前のこと、でございますか?」


「はい。『かきのは』って、何か由来があるのでしょうか。素敵な響きで、つい気になってしまって」


 鳥居がそう言うと、女将は目を細めて小さく頷いた。


「まあ、嬉しいお言葉。……実は、この名前をつけたのは、亡くなった義父なんです。“柿の葉寿司”が好きでね。“柿の葉って、そっと守って、静かになじませるんだなぁ”って、よく言っておりまして」


「……そっと守って、なじませる」


 怜が反芻するように呟くと、女将はうっすら笑みを深めた。


「ええ。あの人にとっては、ここもそういうものだったのかもしれません。包み込みすぎず、変えようとせず、ただゆっくりと落ち着かせる場所。……たとえば、お客様の疲れや、その日あったことを、そっと預かって和らげるような。そういう宿でありたかったんでしょうね」


 穏やかに語られるその言葉に、鳥居と怜はしばし言葉を失って聞き入っていた。


「……きっと、落ち着くと思います。そういうの」


 そう言った怜に、女将は一度まぶたを伏せ、静かに微笑んだ。


「……そう言っていただけると、義父も喜ぶと思いますよ。どうぞ、ごゆっくりなさってください」


 女将に軽く会釈をしながら、三人は案内された廊下を歩き始める。


 静かな畳の感触と、うっすら香る木の匂い。その香りと空気が、宿の“包むもの”としての姿を、静かに輪郭づけていくようだった。

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