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ep.10 - わたしを見つけないで(5)かたちに触れる

 山あいの静けさが、じんわりと肌に染み込んでくる。鳥の声が遠くで鳴き、木々の隙間から射す光が、まだ湿り気を帯びた土の上に淡い模様を描いていた。


 怜は、ゆっくりと視線を上げた。


 「穂積陶房」と記された古びた木の看板。その先にあるのは、瓦屋根の低い平屋だった。母屋の隣には、登り窯と、土蔵造りの小さな作業場。いずれも風雨にさらされ、外壁の色はところどころ褪せている。それでも、どこか張りつめたものはなく、手入れの跡が静かに息づいていた。


 庭先の赤土には、素焼きの鉢がぽつぽつと並べられている。無造作に見えて、どれも踏まれないように計算されている気配がある。


 その作業場の奥から、土の匂いとともに、窯の温もりが漂ってくる。


 ろくろの前にいたのは、五十代後半ほどの男だった。


 背丈はそう高くないが、肩と腕に厚みがあり、年季の入った作業着をまとうその姿に、長年、土と向き合ってきた時間がそのまま刻まれていた。短く整えられた髪には白が混じり、日に焼けた肌には深い皺が浮かんでいる。口元には無精髭。爪の隙には粘土が入り込んでいた。


 余計なものは何もない。けれど、構えた様子もない。怜は名乗るより前に「ああ、職人だ」と思った。


 男──穂積敏夫(ほずみとしお)は、手を止めると、怜をじっと見つめた。細めた目元に、どこか懐かしむような色が差していた。


「……ああ、やっぱり。目元が鷹彦くんに似てるな」


 怜は小さく目を見開き、それから静かに頭を下げた。


「初めまして。白川怜と申します。……父からの手紙に、この場所の写真が添えられていて……ずっと気になっていて、どうしても一度来てみたくて」


 穂積は「そうか」とだけ言い、頷いた。


「おまえさん、三つか四つくらいの頃に、一度だけここに来てるんだよ。チョロチョロ動き回ってな、器よりそっちが気になって仕方なかった」


 怜は、目に見えない何かがほどけるような感覚を覚えながら、少し微笑んだ。


「……そうだったんですか。まったく覚えていません」


「そりゃ当然だ。こっちはよく覚えてるよ。特に、おとなしくしてくれなかった子ほどな」


 穂積は口の端をゆるめながら、ろくろの水を替えた。


「……父がここで何をしていたのか、僕は何も知らなくて。でも、写真を見たとき、不思議と確かめたくなったんです。どうしてここを選んだのか、何を思って……何を残そうとしたのか」


 怜の声は、言葉の途中で少しだけ揺れた。


 穂積は頷きながら視線を落とす。


「鷹彦くんはな、器そのものより“場”をつくる人だった。何を置いて、どう見せて、どんな空気になるか──そんなことばっかり考えてた。でもな、たまにこんなことを言ってたよ。“形って、記憶になるんですね”って」


 怜はその言葉に、ふと視線をそらした。工房の奥に置かれた乾きかけの器に、目をやる。その先に、過去の気配でもあるかのように。


「……でも僕には、その“かたち”がないんです。すぐそばにいたはずなのに、何ひとつ見ていなかった。だからせめて、今、知りたいと思ったんです」


 少しの沈黙が降りた。


 穂積は何も言わず、ろくろの前に戻る。手のひらで芯をとらえ、粘土に軽く圧をかけると、小さく呟いた。


「……知ろうとするってこと自体が、もう“かたち”なんだよ。おまえさんが、ここに来たってことがな」


 怜は黙って頷いた。窓から差し込む斜陽が、土壁に淡い橙を落とす。


 そのあとしばらく、登り窯の火の調整や作業の様子を見学した怜に、穂積はふと思い立ったように言った。


「……せっかく来たんだ。ちょっとやってみな。いいよ、うまく作れなくても。形になるかどうかは、二の次さ」


 ろくろの前をぽん、と手のひらで叩く。


 怜は一瞬戸惑いながらも、静かに頷いた。袖をまくり、ろくろの前に腰を下ろす。目の前の土の塊は、濡れた鼓動のようにしっとりとしていた。


 穂積が背後からそっと手を添える。


「まずは、土を真ん中に据える。これができなきゃ、すべて歪む。……人も同じだな。芯が立ってないと、まわりをどう整えてもブレる」


 ろくろがゆっくり回転をはじめる。怜の両手に伝わる振動は、はじめこそぎこちなかったが、次第に温度と湿り気が指に馴染んでくる。


「……むずかしいですね。ちょっと力入れると、すぐ傾く」


「ま、最初はそんなもんだ。力を抜け。道具じゃなく、“言い訳のない手”で触るんだ。相手に任せすぎても、自分が出すぎても、土はこたえてくる」


 怜は、穂積のその言葉にどこか桐島を思い出しながら、目の前の形に集中した。呼吸を整え、指の幅で曲線を探っていく。


 出来上がったのは、ごく小さな、ゆるやかな歪みを持った湯呑だった。

 底はほんのわずかに斜めに立ち、口縁にはいびつな凹凸がある。整ってはいないが、どこか“無理をしていない”佇まいだった。


 穂積はそれを見て、喉の奥で笑うような音を洩らした。


「……いいじゃねぇか。へたっぴの一歩手前。そこがいちばん、“らしさ”が出るもんだ」


 怜も、苦笑しながらろくろから立ち上がり、手を拭いて湯呑を眺めた。


「なんだか……形にするって、言い訳できないんですね。どんな形であっても、“自分が出た”って感じがします」


「そうさ。嘘つけない。でも、なにが出ても構わないんだよ。ちゃんと立ってりゃな」


 穂積は湯呑を持ち上げ、そっと台の上に置き直した。


「このあと一晩乾かして、素焼きして、釉薬かけて……登り窯に入れるのは、来週末の予定だ。……焼き上がったら、送ってやるよ。いいか?」


 怜は少し驚いたように目を見張り、それから静かに頷いた。


「……お願いします。あの、送料も……」


「いらん。二十年ぶりの再会ってことで、特別サービスだ。……チョロチョロしてた坊主が、立派に“かたち”を作って帰るんだ。これくらい、うちからのお祝いってことで受け取れ」


 穂積はそう言って、窓の外に目を向けた。登り窯からの煙が薄く棚引き、山の緑が静かに揺れている。秋の匂いが、土とともに風に乗って流れ込んでくる。


「……それに、だ。おまえさんがこの形を忘れないうちに、焼いて渡したいと思っただけだよ」


 怜は、その言葉にまたひとつ頷き、作業台の脇に置かれた自分の湯呑を見つめた。

 このかたちは、今の自分の一部だ──そう思えるだけの何かが、すでにそこにあった。

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