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ep.10 - わたしを見つけないで(4)客間にて

 客間には、茶器と和菓子が整えられていた。窓辺の障子を透かして入る午後の光が、畳に長い影を落としている。

 庭の楓は盛りを過ぎつつあり、赤と黄が入り混じった葉が、ところどころ枝先に残っている。地には落葉が広がり、足元から季節の終わりが静かに忍び寄っていた。


 桐島と鳥居は、部屋の中央に設けられた卓を挟んで座る。向かいには綾乃、そしてその隣に彩葉が並んだ。湯気を立てる湯呑を前に、静かな時間が流れる。


「……このあたり、朝晩はもうずいぶん冷えるでしょう」


 鳥居がそう口を開くと、彩葉が軽く笑った。


「はい、昨日なんて、夜は足元まで冷えて……。羽織だけじゃとても足りなくて、ひざ掛けをもう一枚出しました」


「秋の空気って、ほんの少し刺すような感じがしますよね。……東京とは、空の匂いが違う気がします」


 桐島の低い声に、綾乃はふと視線を上げる。


「……ええ。ここは、山の気配が近いですから。空気も、音も、どこか…籠るといいますか」


 柔らかな笑みとともに、綾乃は静かに言葉を継いだ。


「そういう場所だからでしょうか。忘れられなくて。……あの人の歩き方や、低い声の調子を」


 その言葉に、彩葉が一瞬だけ視線を落とした。


「稔彦さまのことですね。……三ヶ月前でした」


 彩葉が湯呑を両手で包み込みながら言うと、綾乃はゆっくりと頷いた。まぶたを少し伏せたその姿には、深い呼吸のような沈黙があった。


 ──三ヶ月前、“首を吊って発見された”。

 屋敷内の一室。遺書はなく、事件性は認められなかった──と、報告書にはある。


 桐島は、その文言を思い出していた。依頼を受ける前、調査の一環として控えめに当たった地元の記録。わずかに情報は残っていた。


「突然のことで……まだ、どこか現実感がありません」


 彼女の指先が、湯呑の縁をそっとなぞる。


「私がまだ子どもの頃……父の工房に出入りしていた稔彦さんが、時折声をかけてくれました。“君の作る硝子は、芯が強い”と。……今でも、その言葉が、私の支えになっている気がします」


 静かな語り口だった。けれど、桐島にはその穏やかさが、かえってどこか遠ざけるようにも聞こえた。

 死因には触れず、ただ“思い出”だけが選び取られていく。


「師のような存在、でしたか」


 桐島の問いに、綾乃は小さく首を振る。


「……どうかしら。あの方は……少し、幼いところがありましたから。周囲に期待されるほどの才覚がありながら、自分を責めてしまう人でした」


 ふと、彩葉がその言葉にかぶせるように口を開く。


「でも、稔彦さまって、本当に優しい方でした。お屋敷に来ると、必ず私たちにも何か話しかけてくれて……。姉も、よく、ガラスを見てもらってましたよね」


「ええ……」


 綾乃はうっすらと微笑み、遠くを見るように目を細めた。


「……まだ、ふとした時に、声が聞こえるような気がするんです。廊下の向こうから“ああ”とか“うん”とか……あの人の相槌だけが、風にまぎれて届くようで。……いけませんね、こんなふうに、未練がましくて」


 その言葉には、まるで今後の喪失を前もって織り込んだような、定型文めいた響きがあった。


 鳥居は、それを“表現の美しさ”として受け取った。一方で桐島は、わずかに視線を伏せた。整った言葉、揺れのない抑制──どこか引っかかるものが残った。


 綾乃の柔らかな悲嘆をよそに、彩葉は明るさを含んだ調子で話題を切り替える。


「……でも、姉はずっと変わらないんですよ。季節が移っても、生活のリズムも、髪型も、使っている道具までずっと一緒。私の方がずっと落ち着きがないって言われるくらいです」


 くすくすと笑う彩葉に、鳥居も自然と微笑を返す。


「お二人で同じものを作っても、まったく違う色が出るんでしょうね」


「ええ。たぶん、ガラスにも性格が出るんです。姉の作品は……すっと背筋を伸ばしたみたいな、静けさがあります。私は、どうしても……ちょっと、うるさくなっちゃう」


「それは、彩葉さんらしいと思いますよ」


 鳥居の言葉に、彩葉は肩をすくめて笑った。


 そのやりとりを、綾乃は静かに見守っていた。

 

 桐島はそんな綾乃を見ていた。笑みはあっても、目元はほとんど動かない。

 ふと、これまで見てきた“何かに耐える人間”の顔が脳裏をよぎる。けれど、綾乃のそれは、耐えるというより、始めから何も漏らさないための顔だった。


 ひとしきり和やかな会話が続いたあと、鳥居が湯呑を置く仕草とともに、ふと思い出したような調子で口を開いた。


「そういえば、明日の食事会ですが。もう一人、連れてきたい友人がいまして」


 その声に、綾乃が小さく目を瞬いた。


「……ご友人?」


「はい。東京の知人で、偶然こちらの窯元にご縁があったので、今回同行しているんです。僕の手前味噌かもしれませんが……なかなか面白い人間でして」


 鳥居の言葉には、柔らかなユーモアが滲んでいた。まるで散歩中に拾った小石を「ちょっと見てみませんか」と差し出すような気安さ。


 その言葉を聞いて、桐島はほんの一瞬だけ鳥居の方を見た。声もなく、わずかに視線を流しただけだったが、その目には、ためらいとわずかな戸惑いが揺れていた。


 綾乃はそのやりとりに気づいたふうもなく、わずかに首を傾げる。


「ふふ……“面白い方”というのは、どんな方かしら」


「言葉で説明するより、お会いになった方が早いかもしれません。少し、人の輪郭をよく見る人、というか……」


「人の輪郭……ですか」


 綾乃がその言葉を反復する。どこか詩の一節のような響きに、彩葉も興味をそそられた様子で身を乗り出した。


「なんだか、ちょっと会ってみたくなりますね。お話しできるのを楽しみにしています」


 綾乃もまた、微笑みながら頷いた。


「ええ、もちろん。どうぞご一緒に。賑やかな方が、こちらもありがたいですから」


 綾乃のその応答には、温かさとともに、どこか揺るがぬ静けさがあった。

 まるで、どんな言葉にも動じぬよう、あらかじめ心を整えていたかのような──そんな余白が、桐島には感じられた。


 その場には、誰も異を唱える者はいなかった。

 ただ、桐島だけが、湯呑の縁に視線を落としたまま、小さく、息を吐いた。

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