雑貨店で起きたこと・1
梅雨がなかなか明けず、街じゅうが湿気を吸いこんだまま重たく沈んでいた。
カフェ・リュールの窓ガラスも、うっすらと曇りがちで、通りを歩く人々の輪郭さえぼやけて見える。
そんなある日、怜は仕事終わりに小さな紙袋を提げて戻ってきた。
中身は、雑貨と文具の店「fröken」で買ったリネンのキッチンタオルと、ガラスのしおり。
商店街のはずれにぽつんとあるその店は、内装は北欧風で、妙に洗練されている。
リュールとはまた違う、丁寧に暮らす人のための空気があった。
フレーケンの店員・東雲えりかとは、怜が何度か通ううちに顔見知りになった。
えりかは30代後半、この店の店主ではないが、実質的には切り盛りの中心を担う存在。
丁寧で落ち着いた対応と、やわらかな物腰が常連たちからも厚い信頼を集めている。
その日、会計のあと少し言葉を交わしたえりかが、ふと表情を曇らせてこうこぼした。
「……“嫌がらせ”って言うほどじゃないんですけどね。
でも、なんか、“悪意だけ”が店の中に残るような、変な感じがして……」
最初は冗談半分のような言い方だった。
けれど、怜はその声の温度で、それがただの愚痴ではないと気づいた。
「目に見える被害があるわけじゃないんです。
でも最近、お客様の目線が、なんだか“じっと濡れてる”気がして……」
それは、誰かのまなざしに「浸される」ような感覚かもしれなかった。
怜は曖昧に相槌を打ちながら、頭の片隅で思い浮かべていた。
──たぶん、あの人なら。
こういう“目に見えない空気”を、無視せずに拾える人かもしれない。
カフェ・リュールの常連、窓際の席にいつも静かに座る男。
名前は、桐島修司。
口数は少ないが、空気の“揺らぎ”に敏感で、何も言わずとも周囲の変化に目を向ける人。
怜はその目を、これまでに何度か見ていた。
(“見る”ことを、してる人だ)
そう思ったときには、もう言葉が口をついていた。
「もし……信用できる人がいるとしたら、話してみたいと思いますか?」
えりかは、少し驚いたように怜を見たあと、少しだけ頷いた。
「──うん。誰かに、“感じてもいいこと”だったって言ってほしい、のかも」
リュールに戻る道すがら、怜はほんの少し躊躇いながらも、心の中で確かめていた。
“あの人”を紹介することが、きっと、えりかの抱く曖昧な不安に輪郭を与えるのだと。
そしてそれは、怜自身が初めて桐島の“仕事”に触れる瞬間でもあった。