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ep.9 - 本日、リュールお休みです(4)誰かを思い出す日

 リュールの裏手にある小さな倉庫小屋──いや、もう“展示スペース”と呼ぶのがふさわしくなったその空間には、あたたかな明かりがともっていた。


 天井から吊られたシンプルなランプが、壁に塗られた白をほんのり照らしている。塗料の匂いはすっかり消え、今は静かな余韻だけが空気を満たしていた。


 詩織は、中央に置かれた木のテーブルの前に腰を下ろしていた。椅子の背もたれに片肘をかけ、片手には一通の封筒──ジョグジャカルタから届いた、建物所有者である二階堂(ニカイドウ)寿(スズ)々の手紙。


 それは改装が始まる前、九月初旬に届いたものだった。慌ただしさのなかで何度か読み返しながらも、今日、この完成を機にもう一度じっくりと目を通そうと思った。


 表面の切手は少しだけ擦れて、角が丸くなっている。けれど、その中に込められた言葉は、開いた日と同じだけの熱を、詩織の胸に灯していた。


 秋分を過ぎた東京の夕暮れ。時計の針は十九時を少し回っている。外はもう薄暗く、遠くで虫の声が響いていた。


 詩織はそっと封を開き、便箋を広げる。



⸻⸻⸻⸻⸻⸻⸻⸻


親愛なる詩織へ


 ご無沙汰しています。

 日本は、そろそろ夏の終わりでしょうか。こちらの空にも、ふとした瞬間に秋の気配のような風が混じるようになってきました。


 ジョグジャの今朝は、しとしとと雨が降っています。雨季というほどではないけれど、ときどきこんな風に、空が静かに泣くの。でもね、この街の雨は、なぜだか祝福のような匂いがして。私は、嫌いじゃありません。


 こちらに来て、もうすぐ五年。まだ言葉はたどたどしいけれど、朝は手を動かし、昼は村の子どもたちと染めをし、夜は縫う。

 暮らしのすべてが、何かをつくる行為とつながっていて、心がほぐれる気がします。


 先月、小さな展示会がありました。

 作品を出したの。古いカーテン地や、母のブラウスの切れ端も使ったわ。

 「それ、お母さんの記憶なの?」と訊かれたけれど、たぶん違う。あれは、“かつて自分を諦めようとした誰か”を、縫いとめたものだと思う。


 詩織、あなたがあの家を受け継いでくれて、本当にありがとう。あの場所が「リュール」になったなんて、今でも不思議なくらい嬉しいの。


 覚えている? あのとき、あなたが私に言った言葉。

「人の灯りになれなくても、一緒に夜を越すことはできる」

 あれが、私を動かしたのよ。


 こちらは相変わらず、電波も気まぐれで、ポストカードと手紙ばかりの通信手段だけれど。またいつか、そっちに帰れたら、店の裏庭で、夕立を眺めながらお茶をしましょう。


 あなたと、あのほのかな灯のことを思って。


                 寿々より


⸻⸻⸻⸻⸻⸻⸻⸻



 便箋を読み終えた詩織は、指先でそっと紙の端をなぞった。


 ──祝福のような雨。

 寿々は今も、布と、言葉と、祈りのような手つきで日々を形作っている。


 詩織は、目を閉じて、ほんの一瞬だけ深く息を吐いた。

 そして、便箋の隣に、自分の便りを綴り始める。


 ──寿々へ。

 今日で、改装はすべて終わりました。

 あなたのいた、あの小屋は、今ではすっかり“場”としての顔を持ちました。


 その一文を書いたあと、ペンを止めて外を見やる。

 リュールの店先にはまだ、灯りがぽつりと灯っていた。通りには人影も少なく、商店街はまるで店じまいを終えた舞台のように静かだった。


 この時間、この空間、そしてこの静けさ。

 すべてが重なって、たしかに寿々とつながっている気がした。



 寿々への返事を書き終わり、詩織はペンを置いた。カップのハーブティーは、いつの間にか冷めかけている。静かな夜の気配のなかで、誰かが裏口の木製ドアをノックする音がした。


「開いてるわよ」


 そう声をかけると、ほんの少し間をおいて扉が軋んだ。姿を見せたのは、怜だった。


「明日の開店準備、終わりました」


「ありがとう。こっちもちょうど終わったとこ」


 詩織がそう言って便箋の端を整えると、怜はうなずいて、展示スペースの中央へ歩み寄ってくる。


 しばらくテーブルの上の手紙を眺めていた怜が、ぽつりと呟いた。


「……人のことを思い出すって、難しいですね」


 詩織は少しだけ目を向ける。怜の声は、問いかけではなかった。


 怜は最近、何度か考えることがあった。

 西野杏奈の失踪のこと。桐島が口にした「パディントン」。

 そんな日々のなかで、ふいに、自分の中の“抜けた輪郭”が疼いた。

 十三歳のときに父が突然いなくなって以来、怜はこの“空白”に向き合いきれずにいた。


「……思い出したんです。父に、美術館の裏口からこっそり入れてもらったこととか、舞台装置の搬入のとき、一緒に階段をのぼったこととか」


 展示の設営に関わっていた父は、当時から裏手の動線や、美術館の静かな空気をよく知っていた。


 怜はテーブルの端に手を置いたまま、白い壁の一点を見つめている。声は淡々としていて、けれど、奥行きがあった。


「今まで、あの人のことって、うまく思い出せなかったんです。というか、何を思えばいいか分からないまま、ここまで来た気がして」


 詩織は、静かに耳を傾けていた。問いも挟まず、ただ、受け止める。


「自由な人でした。理屈より感覚で動いてて、家にいても、どこか別の場所を見てるみたいで。……でも、あの人がつくってた“空間”は、今でも覚えてる。意味のなかった場所が、何かを語りはじめる瞬間が、好きだったのかもしれません」


 言葉を切ると、怜は手のひらをゆっくり返した。空気のなかに何かを探るように。


「……いなくなったとき、怒ってたのか、寂しかったのか、今でもよく分からない。ちゃんと感じる前に、自分で蓋をしてたんでしょうね」


 詩織はそこでようやく一言だけ、そっと名前を呼んだ。


「……怜」


 怜は小さくうなずく。


「最近、ようやく考えるようになってきました。どうしていなくなったのか、じゃなくて──あの人が残していったものを。……見ようとしていなかっただけかもしれないって」


 カップのなかのハーブティーが冷めきって、もう湯気は立っていない。


 怜はその隣にある便箋に視線をやった。寿々の手紙の文字が、まだ夜のランプの光を静かに映していた。


「……まだ、何を感じたらいいかは分かりませんけど」


 詩織は、ふきんで指先を拭きながら、やわらかく返す。


「分からないままでいいのよ。人の気持ちなんて、たいてい、答えの出ないまま動いていくものだから」


 怜は少しだけ目を伏せて、またうなずいた。

 そのまま、完成したばかりの展示スペースをぐるりと見渡す。


 ──あの人が何を見ていたのか。

 こういう場所でなら、ほんの少しだけ、分かる気がした。

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