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ep.9 - 本日、リュールお休みです(2)白を塗る

 壁の下地処理は、すでに業者が済ませてくれていた。怜たちに任されたのは、仕上げの塗装だけ。とはいえ、それなりに根気のいる作業だった。


 朝から三人で店の裏に回り、脚立やローラー、刷毛にペンキ缶、それにマスキングテープや養生シートを運び込む。離れの小屋はもともと物置として使われていた空間だが、壁と天井を塗り替えるだけで、ずいぶん印象が変わりそうだった。


 まずは養生だ。床や窓枠、巾木のラインに沿って、丁寧にテープを貼っていく。怜は手際よくコンセントの周りを覆い、詩織は壁の四隅を指さして「そこ、忘れがちだから気をつけて」と声をかける。桐島は黙ったまま脚立にのぼり、高所の窓枠にビニールをかけていた。


 塗料は水性の白。においも控えめで、刷毛をトレイに沈めると、重たげな音がした。


 怜は再び脚立に上がり、天井と壁の境目を刷毛でなぞる。桐島は黙々とローラーを動かし、腰を落としたまま壁を横方向に塗り込めていく。詩織は手に持った刷毛で細部を仕上げながらも、ちらりと様子を見ては口を挟んだ。


「ここ、ちょっとムラ出てない?」


 桐島が「塗り直す」と一言つぶやき、再びローラーを取り直す。怜は少し笑いながら、脚立の上で刷毛を回す角度を変えた。


 黙々とした作業がしばらく続いた。ペンキの匂いが鼻の奥に残り、塗料がトレイに跳ねる音や、脚立のきしむ軋みが静かに響いていた。


 ふいに、詩織が肩越しに振り返った。


「ねえ、映画の話だけど、好きな一本って言われたら何にする?」


 いきなりの問いかけに、怜と桐島はほぼ同時に手を止めた。


「今、聞く?」


「今だから聞くの。こういう単純作業中って、人間の本音が出やすいのよ。無防備になってるでしょ?」


 怜はちょっと考えてから、ローラーを持ち直しつつ言った。


「……うーん、『舟を編む』とか、好きですね。言葉を集める仕事って、なんだか、静かに誰かと繋がっていく感じがして」


「まあ、ロマンチストねえ」


 詩織が笑いながら刷毛を止めた。「じゃあ今度、詩でも書いて壁に飾ってちょうだい」


「詩は……書けないですけど、たまに、うまく言葉が並んだときだけ、ちょっと誰かに届いた気がして」


 怜が照れたように言うと、今まで黙っていた桐島がぽつりと呟いた。


「……向いてそうだな。おまえ、よく黙って人の言葉拾ってるし」


 会話は素っ気ないのに、どこか穏やかだった。言葉の端がやわらかい。

 この人たちに囲まれていると、自分のことを話しやすくなっている。怜はそんな変化を、なんとなく自分でも気づいていた。


「じゃあ桐島くんは? 爆弾処理とかカーチェイスとか、そういうの?」


 詩織の茶化すような問いに、桐島はほんの少しだけ、肩の力が抜けたように苦笑した。


「……『パディントン』かな」


「……えっ」


 怜と詩織が顔を見合わせる。


「それ、あの、子供も見るやつですよね……?」


「うん。でも、よくできてる。テンポがいいし、映像もきれい。あと──クマが礼儀正しいのが、なんかいい」


 桐島はごく自然に言ったが、二人にはどこか不思議な印象が残った。


 詩織は「へえ」と言いながら笑い、怜はローラーを動かしながら桐島を横目に見る。


 なんとなく、その言葉の奥に、懐かしむような気配が滲んでいる気がした。


「私は『かもめ食堂』かな。ああいう、何も起きない時間の中に、人がちゃんといる感じ、いいわよね。おにぎり握りたくなるし」


「……わかります。ああいう場所、誰かに用意してもらえるって、ちょっと憧れます」


 怜がぽつりと答えると、詩織が「でしょ」と満足げに頷いた。


 再び動き出した三人の作業には、それぞれのリズムがあった。けれど、どの動きも、不思議と同じ空気に溶けていた。




「お昼、用意するから。適当に休んでて」


 正午を回った頃。そう言い残して、詩織は刷毛をバケツに立て、腰に手をあててひと息ついてから倉庫を出ていった。扉の隙間から差し込んだ外の光が、ほんの一瞬だけ床に筋を引いた。


 二人きりになった空間は、さっきまでよりも急に静かになった気がした。

 塗りかけの壁、塗料の匂い、トレイに残った白い面。

 桐島はローラーを置いてタオルで手をぬぐい、怜も脚立を下りて、ペンキで少し硬くなった指先を見つめた。


「……顔、ついてるぞ」


 唐突に、桐島の低い声。

 怜がきょとんとして、眉を寄せた。


「え、どこです?」


「左。目の下」


 怜は慌てて指で触るが、場所がよくわからないまま手探りで頬をこする。

 そのうち、指先についた白が広がって、頬に変にムラのある模様ができていく。


「……あーあ」


 桐島がタオルを脇に置き、ポケットからウェットティッシュの小袋を取り出した。ビニールの封を切る音が、やけに耳に残った。


「ちょっと、動くな」


「いや、自分で……」


「悪化させたやつがよく言う」


 そう言って、桐島はティッシュを手に、怜の顔を覗き込んだ。

 その視線に、怜は思わず呼吸のリズムが乱れるのを感じたが、気づかないふりをして、じっとしている。


「……ほら、目、閉じろ」


 言われるままに目を閉じると、すぐに、頬にやわらかな感触が触れた。

 こすらず、撫でるように、慎重に。無骨なのに、妙に手慣れていて、丁寧だった。


 まるで、小さな子どもの顔を拭くような手つきだった。


 誰かに顔を触れられるなんて、久しぶりだ。けれど、不思議と怖くなかった。


「……落ちた?」


「だいたいな。でも、お前の皮膚、弱そうだから、これ以上はやめとく」


「……ありがとうございます」


 そっと目を開けると、桐島はもう怜から手を離し、何事もなかったようにティッシュをたたんでいた。


「……顔だけじゃねえな。耳の横、ちょっと白い」


「え、まだ?」


「もういい。今度は放置しとけ。芸術作品にでもなったつもりでいろ」


 そう言って、桐島は少しだけ笑った。


 怜の胸の奥には、なにかやわらかいものが、そっと沈んでいった。


 桐島は、もう怜の方は見ていなかった。

 その視線の向こうにある気配を、怜はうっすらと、感じ取った気がした。

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