ep.8 - ログは残っている(16)沈黙の共犯者
リュールの時計が午後八時を少し回ったころ。
照明は控えめで、壁際のランプが淡く灯りを揺らしている。
他に客はおらず、ジャズも音を潜めるように流れていた。
井出航平は、椅子の背に深くもたれながら、無言で座っていた。
向かいの席には、桐島。肩幅のある体躯を静かに預け、背筋だけは変わらずまっすぐだった。
怜が置いていった二つのアイスコーヒー。その冷たい表面に浮いた水滴を、井出は指先でなぞっている。
「……あのリンクを貼ったのは、西野杏奈の兄だった」
桐島の声は、低く、まっすぐだった。
「自分では叫べなかった。けど、黙ったまま忘れることもできなかった。……だから、ああいう形を選んだんだと思う」
井出は応えなかったが、その指の動きが止まり、グラスに触れたまま視線だけがわずかに揺れた。
「裏サイトの投稿、今見たって酷いもんだ。兄貴は、あれを何度も読み返したらしい。……何があって、誰が悪かったのか、自分の中でも何度も答えが変わったと思う。怒る対象も、許せる相手も、はっきりしないまま……それでも、何か残さなきゃって思ったんじゃないか」
少し、沈黙が落ちた。
「……怒りっていうより、祈りに近かった。あれを誰かが見つけることで、“あの子がいた”ってことが残るなら……それで良かったんだろう」
井出の眉が微かに動く。やがて、ぽつりとこぼした。
「……あの子、目立たない子だったよ。成績はそこそこ良かったし、欠席も少なかったし……」
だが、その声には実感がなかった。自分でもそれに気づいたのか、井出はそこで言葉を切り、少し笑った。自嘲気味に。
「……いや、たぶん俺、なにも覚えてないんだな」
桐島は黙っていた。
「桐島さんに聞かれて、写真見て、名簿見て……それでもピンとこなくてさ。でも、あの裏サイトのログ見たとき、なぜか引っかかった。なんでだろうな。なんでそのときじゃなくて、今なんだろうって、すげえ思う」
井出は顔を上げ、目の奥にかすかな後悔をにじませた。だがそれは泣きそうな色ではなかった。ただ、突きつけられた現実に、鈍い痛みのようなものが滲んでいた。
「……見てなかったんだよ、俺たち。あの教室にいて、同じ空気吸ってたのに。なにを見てたんだろうな」
その言葉に、桐島は目を伏せたまま、深く呼吸を吐いた。
「──でも、お前がそのリンクに気づいた。そこに、意味はあったはずだ」
井出はふっと目を閉じ、しばらく沈黙した。
カウンターの奥では、怜が静かにカップを磨いていた。
「……報告、ありがとうございました。桐島さんにお願いして、よかったです」
井出の声は、乾いていたが、どこか少しだけ温度を取り戻していた。
桐島は、それに応えるように、一度だけ頷いた。
氷の融けかけたアイスコーヒーが、ゆっくりとグラスの中で揺れている。夜の静けさが、店内をやわらかく包んでいた。
数日後の夜。小さなビルの二階にあるバー。
重たい木の扉を開けると、仄暗い照明のもと、カウンターに沿って静かにボトルが並んでいた。
ジャズの低音が、壁際に淡く沈んでいく。
カウンターの一角、井出航平と岸亮太が並んで座っていた。
岸は、ウイスキーのグラスを片手で回しながら、ふと井出に目を向けた。
「……隠しリンク、見たよ」
短く言われ、井出はグラスに口をつける。
だがアルコールの味は、今ひとつ喉を通らなかった。
「俺、あの裏サイトの運営してたやつに、心あたりがある。確か、うちらの二学年上のやつでさ……親のドメイン使って立ち上げたはず。本人、もう忘れて放置してるんだと思う」
岸は無造作に続けた。
Webサービス系のスタートアップでフロントエンドエンジニアとして働く一方、副業でDJ活動もしている男だ。飄々としていて軽薄にも見えるが、こういう時の勘は妙に鋭い。
探偵を名乗る無愛想な男に聞き取りをされたときも、「おれのコードじゃないよ。ああいうの入れるなら、もっと丁寧にやるし」と笑いながら断言し、誰を責めるわけでも庇うわけでもなかった。
「で、必要だったら、閉じるように連絡取ってみるけど。……どうする?」
井出は、視線を伏せたまま答えた。
「……同窓会まで、待ってほしい」
岸のグラスが、かすかに音を立てて止まる。
「……なんで早く隠しリンク、消さないんだとは思ってたけどさ。正直、あれはもうお前が抱えることじゃないだろ。関係ない」
言葉はきつくはなかったが、どこか諭すような色が混じっていた。
だが井出は、それに対してゆっくりと首を振った。
「……俺が、そうしたいんだよ」
短く、でもはっきりとした口調だった。
岸はしばらく井出を見ていたが、やがて「……ふーん」と肩をすくめるようにして、グラスを傾けた。
「……まあ、お前がそこまで言うなら。俺はいつでも動ける。言ってくれりゃいい」
「ありがとな」
言葉少なに応じた井出の表情には、妙な静けさが宿っていた。
岸はそれ以上追及せず、目の前のボトルをぼんやりと見つめていた。




