ep.8 - ログは残っている(15)名前をもう一度
郊外の県道沿いに建つ、どこか懐かしい佇まいのドライブイン。その奥まった食堂スペースは、夕方前の時間帯もあって人影はまばらだった。
ブラインドの隙間から差し込む光の中、窓際の席にはすでに智也がいた。作業着のまま、油で少し黒ずんだ手でペットボトルのお茶を持ち、口はつけず、じっと外を見ていた。目の下にはくっきりと疲労の影が落ちていたが、視線は静かに研ぎ澄まされているようにも見えた。
扉のチャイムが鳴る。
桐島が静かに入ってくる。背筋の伸びた立ち姿は目を引いた。
視線が室内をひとめぐりし、すぐに智也の姿をとらえた。
ゆっくりと確かな足取りで近づき、席に着く前に、丁寧に一礼する。
「……桐島と申します。民間の探偵をやってます。今日は、妹さんのことで少しだけ、お話を伺えればと思いまして」
そのすぐ後ろから、怜がやや控えめな歩幅で続いた。こちらも深く頭を下げた。
智也は二人を迎えるようにして、うなずいた。
「……どうぞ。こっちはもう、隠すようなことも残ってませんから」
三人は無言のまま、テーブルを囲んだ。怜は端に身を寄せ、膝に小さなノートをそっと置いた。
桐島が口を開く。
「先に申し上げておきます。今回、何かを責めたり、過去の行動を問い詰めるつもりはありません。ただ……」
わずかな間。桐島の声はいつもより低く、穏やかだった。
「“あのリンク”を埋め込んだのが、あなたであるとしたら。その想いを、受け取りたくて来ました」
智也の視線は窓の外に向いたまま、机の縁に添えていた指が、わずかに動いた。
「……何が変わるとも思ってなかった。誰かが見つけるとも、正直思ってなかった」
「それでも、あえて残した。消さなかった、というより“消せなかった”のでは?」
桐島の言葉に、智也は何も言わない。
怜はじっと智也を見つめていた。喉がわずかに動いたまま、まばたきが速くなる。何かを飲み込もうとするような、けれどうまくいかないままに時間だけが過ぎている、そんなふうに見えた。
しばらくして、ぽつりと返ってきた。
「……去年の秋でした。親父の葬式を終えて、実家を整理してたんです。売るつもりで……荷物を片付けてたら、昔のアルバムが出てきて。そこに、田端──あ、旧友です。そいつと一緒に写ってる写真があって」
智也はそのまま、懐かしむように目を細めた。
「なんとなく連絡してみたんですよ。十年以上ぶりだったけど、すぐに飲もうってことになって。でも……そのときは杏奈の話は出しませんでした。ただ、昔のことを淡々と振り返って。『覚えてるか? あの先生』とか、『夏休みに誰が童貞卒業した』とか、くだらない話ばっかり」
「けど帰り際に、言ったんです。『昔の写真、まだ残ってたら送ってくれない?』って。で、田端が貸してくれたUSB、あれ……たぶん、弟さんのも混じってたんですよね」
「弟さん?」と桐島が小さく問い返し、智也がうなずく。
「杏奈の一つ上の学年でした。……中を開いたら、高校の写真と一緒に、.htmlとか.txtのファイルがあって。最初はよく分からなかったけど、開いてリンクを踏んだら……あの裏サイトが表示されて」
「……偶然、ですか」
「はい。ほんとに、偶然。弟さんがね……“国語の女の先生を追え”って、当時そんなアホなノリがあったらしいんです。裏サイトのネタを面白がって、保存してたみたいで。田端が笑ってました。『変態っていうより、バカだったな』って」
桐島も怜も、何も言わなかった。
「中を全部見たわけじゃありません。でも、あのサイトに載ってた言葉……笑いのフリした排除。ふざけた投稿。誰が書いたかなんて、もうどうでもよくなった。ただ、ああいう空気の中で、あいつがいたってことが……どうしても、忘れられなかったんです」
そこには怒りも涙もなかった。ただ、深く沈殿した諦念が滲む声。
「ある日、同窓会の公式ホームページを見つけたんです。きれいな写真と笑顔ばっかりの、“表向きの同級生たち”。……そのとき、気づいたんです。“誰かが何かを書き残さなきゃ、あの子の記録は、どこにも存在しなくなる”って」
「だから、リンクを?」
智也はうなずき、ため息をひとつ落とした。
沈黙を、怜がやわらかく受け取る。
「……残っていたから、気づけた人がいます。僕も、そのひとりです」
その声に、智也がようやく怜を見た。視線の奥にあったこわばりが、わずかにほどけた。
「……責められて当然だったんですよ、俺も。妹の失踪のあと、何もしなかったわけじゃない。ただ……ちゃんと見ようとはしてなかった。記録が残ってなきゃ、それすら考えなかったかもしれない」
「……でも、あんな風にリンクを残したって、何も救えてないんですよ。あの子は帰ってこない。時間も戻らない」
怜が、そっと言葉を置く。
「戻らないものを、少しでも“しまい直す”ために、僕たちはこうして記録に触れているんだと思います。……名前だけでも、もう一度、誰かの記憶に残せるように」
智也の肩の力が抜けたように見えた。そのまま、静かに吐き出すように言った。
「……俺が残したのは、“答え”じゃないです。ただ、“もう一度、考えてくれ”っていう……誰かへの問いかけです」
言葉にするたび、少しずつ、痛みの輪郭が変わっていくようだった。
桐島が、わずかにうなずく。
「たしかに受け取りました。……あなたが、それを残してくれたことも」
その言葉に、智也は視線を伏せた。
「……会ってくれて、ありがとうございます」
「こちらこそ。……もし、また何か思い出すことがあれば、いつでも」
桐島が立ち上がると、智也もそれに習って、ぎこちなくも腰を上げた。怜も静かに礼をして、二人はゆっくりとその場を後にする。
振り返ることなくドアを押した桐島の背中を見送った後、智也はそっと目を伏せた。




