ep.8 - ログは残っている(14)変わらない場所にいる
桐島は駅前を抜けて、カフェ・リュールへ続く路地に入った。
まだ梅雨は明けていないが、空気の重さがどこか変わり始めていた。肌にまとわりつく湿気の中に、夏の熱がわずかに混じり始めていた。
歩きながら、頭の中で一つの線をなぞる。
──十五年前、西野杏奈は高校を卒業し、その翌年、二十歳を迎えてから姿を消した。届け出は、しばらく経ってから兄の智也が出した。けれど、警察の判断は「事件性なし」。職場にも揉め事はなく、身の回りも整っていた。静かな、不在。
それから、長い空白。
2023年の夏、父親の死をきっかけに、智也は再び実家に戻るようになる。荷物の整理を続ける中で──おそらくその頃だ、彼が“見てしまった”のは。あの、Q高校の裏サイト。
そして2024年の春。卒業から十五年の節目に、同窓会の開催が決まった。井出や中川を含む五人が、同窓会用のサイトの管理を担った。
……智也は、何らかの方法でそのことを知った。杏奈がかつて「仲が良かった」と話していた相手、中川に接触し、サイトのIDとパスワードを聞き出した。
目的はただ一つ。表向きの記念の場に、あの頃の影をそっと潜ませるため。
──同窓会サイトの片隅に、誰にも気づかれないように仕込まれたリンク。そこから、再び開かれた“あの頃”。
最初に気づいたのは中川だった。そして、掲示板に書き込まれた一文。
「あの子の記録は終了しました。更新はされません。」
六月。今度は井出がリンクに気づき、桐島の元へと話が届いた。
最初の一歩は、偶然じゃない。けれど、誰に、どこまで届くと信じて、あれを残したのか──
桐島はリュールの扉が見えてきたのを確かめると、思考を切るように、小さく息を吐いた。歩みは変わらなかった。
すべてが終わったことにされていた。だからこそ、その先を見に行く。
リュールの窓辺には曇天を透かすような柔らかな光が射していた。
怜は伝票の整理をしているところだった。午後五時、閉店までにはまだ時間があるが、この時間帯はひと息つける小休止のようなものだった。
そのとき、入口のベルが控えめに鳴る。ドアの向こうから、いつもの足取りで桐島が現れた。室内の静けさに、外の熱とざらつきをほんの少しだけ持ち込んだようだった。
桐島が軽く片手を上げると、怜は顔を上げ、作業を一旦脇へまとめて立ち上がった。
「いつもの、でいいですか?」
「ああ。アイスで」
怜はグラスに氷を落とし、ドリップしたコーヒーを丁寧に注ぐ。マドラーで短くかき混ぜてから、グラスを桐島の前に置いた。
「どうぞ」
桐島はグラスを受け取り、ひと口だけ含むと、そっと置き直した。
そして、ふと目を上げる。
「……少し、時間あるか」
怜は頷き、スツールを引いてカウンター越しに腰を下ろした。
「ちょうど切りのいいところでした」
時計の秒針が、またひとつ静かに午後を刻んだ。表の通りで、自転車のベルがかすかに鳴った。
桐島は一呼吸置いてから、静かに語り始めた。
「西野杏奈さんの件で、少し話がある」
怜は姿勢を正して頷いた。桐島の言葉は、無駄のない調子で続く。
「……失踪したのは、二十歳の夏。高校を出たあと、地元の食品工場に勤めていた。勤務態度は真面目で、職場でも問題はなかった」
「……そうすると、失踪した原因は、高校時代のこととも、職場の環境とも、すぐには結びつかないですね」
「ああ。家族もすぐに動いたわけじゃない。兄の智也さんが、だいぶ経ってから届けを出した。でも、そのときの様子が、少し……変だったと聞いている」
桐島は、一瞬だけ視線をカウンターの奥に滑らせてから、ふたたび怜の方へ戻す。
「“やることはやった”って、自分に言い聞かせるような口ぶりだったと。……怒っているようでいて、怒りきれていなかった。どこか、納得してしまっているような」
「……それって」
怜は、少しだけ声のトーンを落とした。
「誰かを責めるより、先に自分の沈黙が引っかかってたのかもしれないですね」
その言葉に、桐島はゆっくりと頷いた。
「兄貴は、今も同じ会社で働いてる。当時と同じ長距離ドライバーだ。……居場所は、変わっていない」
「……変わらない場所に、自分を置き続けてるってことですかね」
怜の言葉には、どこか、やりきれなさと静かな共感が滲んでいた。
「そうかもしれないな。……俺が会いに行くつもりだ、と言えば、どうする?」
怜は少し黙って、それから、まっすぐに言った。
「……僕も、行きます。関わった以上、ちゃんと見ておきたいです」
桐島は何も言わなかった。ただ、怜から視線を外し、手元のグラスに目を落とした。
沈黙のなか、カランと鳴った氷の音だけが、梅雨明け前の午後に静かに溶けていく。




