目が合う、ということ
店の扉が開いた時、風がひとしきり散った桜の名残を巻き込んで、店内にひとひらだけ転がした。
外は春の中頃。花の盛りを過ぎた街路樹が、どこか寂しげに陽を浴びていた。
男は、その風と一緒に店内へ足を踏み入れた。
変わらず落ち着いた動きで、同じ席に腰を下ろす。コートを椅子の背にかける所作に無駄がない。椅子を引くとき音を立てないように動かす。
癖ではなく、習慣だ。怜はそう思った。
今日はなぜか、男の手元には何もなかった。資料も手帳も広げず、ただコーヒーだけを受け取り、目の前に置く。
怜はいつものように運んだあと、立ち去るふりをして、一瞬だけ、その顔を盗み見た。
目が合った。
思ったよりも、まっすぐに。
怜は軽く頭を下げて立ち去ろうとしたが、不意に声がかかった。
「……悪いな、毎度。何か気になることでも?」
問いかけに、咎める色はない。ただ、明らかに“気づいていた者の声”だった。観察されていることを、“見ていた”者の応答。
怜は少し驚きながらも、小さく笑って言う。
「いえ。ただ、……何をしてる方なんだろうなって」
正直だった。いつもなら、もっと曖昧な言葉を選んで濁すところだったのに。
“この人には見られてもいい”と思っていたのかもしれない。
男は一瞬、無表情のままカップに目を落としたあと、わずかに口角を上げた。
「……見るのが癖なのか?」
「……つい見てしまうんです。でも、わかった気にならないようにしてます」
男はコーヒーを口に運び、ひと息置いて、ふと視線を窓に向けた。
「その迷い、悪くないと思うよ」
怜は、その言葉を静かに受け取った。
「迷い」。
それは、否定ではなく、肯定として差し出された言葉だった。
無口で、何も押しつけず、語ることより沈黙の方が似合うような人。そんな人が、“迷っていること”を肯定してくれる──
少し意外で、でも、不思議としっくりきた。
もしかするとこの人は、“語らない”のではなく、“語るべきときにだけ言葉を選ぶ人”なのかもしれない。
怜は、返事をせずにカウンターへ戻った。けれどその背中の奥のほうで、かすかに何かがほどけた気がした。
見られることは、ずっと苦手だった。自分を見た人は、大抵すぐに“わかったような顔”をしたから。
でも、この人は違う。
わからないまま、見てくれる人だ。
それなら自分も、まだ何もわからないままでも、この人を見ていていいのかもしれない。