ep.8 - ログは残っている(7)黄色の何かを探していた
※本エピソードには、発達特性に関わるような描写が含まれます。人物理解の一要素として描かれており、特定の性質や人物像を否定する意図はありません。ご不安のある方はご自身の判断でご覧ください。
窓の外では、雨が遠慮のない音を立てていた。
時おり、くぐもった雷鳴が遠くで響く。低く唸るようなその気配は、空の奥からじわじわと近づいてくる。
街灯の明かりも、雨脚に滲んで頼りない。湿気を含んだ空気が、密やかに建物を包んでいた。
怜は、ベッドの上で胡座をかいたまま、ノートパソコンのトラックパッドに指を滑らせていた。
室内の照明は落としていて、パソコンの画面だけが青白く発光し、怜の頬にその光がやわらかく反射していた。
SNSの検索窓に打ち込んでいたのは、とある高校の名前と、2006年から2009年までの期間指定。
キーワードを添えて、画像付き投稿だけを表示するように絞り込んだ。
いくつかの投稿がヒットする。校舎の写真、体育祭の風景、誰かの背中──断片的な写真の中に、2007年の文化祭ポスターが写った画像があった。
「美術部で描いたポスター、ようやく完成」と書かれた投稿文。目立つ構図と彩度の高い色使いが、いかにも校内で話題になりそうな雰囲気だった。
怜はその投稿を開いて、しばらく見つめたままスクロールを止めた。
画像下には、いいねの一覧が並んでいる。
美術部員が描いたということもあり、当時の在校生たちがリマインド的に反応したのだろう。
この写真を「いいね」した人たち──その中に、何かが残っていないだろうか。
ひとつひとつ、アカウントを辿っていく。フォロワー数が二桁のもの、鍵付きのもの、すでに削除されたアカウント。
無数の“他人の痕跡”をすり抜けるようにして、怜はある名前に目を止めた。
「@mofumofu13」──ユーザーネームは“あんな”。投稿は十数件。
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「4階の階段、いつも途中で左足がズレる。あれ床のせい?自分のせい?」
「音って、ずっと鳴ってるよね?誰か気づいてるかな」
「今日も『黄色の何か』探して歩いてる。5日目。まだ飽きてない」
「たまご焼きは最後に食べる。甘いのが最後って決まってる。守ると安心する。たぶん。」
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どれも短くて、何気ない言葉だった。けれど、その“観察のしかた”には、何かひっかかるものがあった。
たとえば、「左足がズレる」のを、ただの段差として受け流さず、自分と環境の関係として捉えていたり。
「音がずっと鳴ってる」という言葉には、周囲が気づいていない“何か”に意識が向いている様子がある。
まるで、常に耳の奥で世界のノイズを聞いているような。
「黄色の何かを探して歩いてる」シリーズは、目的よりも“探している行為そのもの”に意味を見出しているようだった。思考がどこか跳ねていて、それでも本人の中ではきっと筋が通っている。
「たまご焼きは最後に食べると、安心する」──それを読んだとき、怜はほんの一瞬だけ、胸の奥がひやりとした。
ただの“好き嫌い”や“マイルール”といったものとは、少し違う気がした。
そこには、“安心するための手順”のようなニュアンスがあった。決まった順番を守ることで、自分を保っていたのかもしれない。
怜はふと、掲示板で彼女について書かれていた数々の投稿を思い出した。
「空気が読めない」「独り言が多い」「ピクニック」「自分のペース」──そのどれもが、“ずれている”ことをあざける形で語られていた。
でも、それは彼女が『ずれていた』からではなく、むしろ、彼女なりの秩序で、周囲と折り合いをつけようとしていた結果なのかもしれない。
もしかして、何か、生まれつきの傾向があったんだろうか。
怜の頭に、学生時代に習った発達特性の講義が浮かんだ。ADHD ──その名前が、ふと脳裏をかすめる。
注意の向き方や感覚の敏感さ、人との距離感。
医者ではない自分が決めつけられることじゃない。けれど、どこかの段階で、誰かが“分かろう”としたことがあっただろうか。そんな疑問が、胸の内に静かに生まれる。
掲示板で笑っていた者たちは、彼女の「黄色の何か」が、どれだけ大事だったかを知らない。
「音が鳴っている」と感じる世界が、どれだけ彼女の中で現実だったかを、想像したこともなかったかもしれない。
そのことが、ひどく悲しく思えた。
怜は指先でポインタを止めたまま、小さく息を吐いた。
見ようとしなければ、見えないままで終わってしまう。この世界では、そういうことの方が多い。
けれど今、自分はそれを、拾い上げる側にいる。
再び画面に目を戻すと、そこにはぬいぐるみキーホルダーの写真があった。机の上で並んだ二つの小さなマスコット。丸っこいフォルムに、名前が記された手書きのタグがぶら下がっている。
「くまの名前はモフ吉とましゅまる。モフ吉は、みずきちゃんがつけてくれた名前」
これを撮った手は、何を残したくて、何を伝えたかったのか。
怜は写真の下に並んだ「いいね」を確認する。その中に、無機質なIDがひとつあった。
──「@user4192abcd」。
アイコンは初期設定のまま。フォロー・フォロワーはごくわずか。投稿は鍵がかかっていないが、誰ともやり取りしている様子はない。
それでも、過去の投稿を辿っていくと、ぽつぽつと短い文が並んでいた。
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「なんでいなくなるんだろうな」
「あのとき、俺がちょっとでも何か言ってたら」
「俺の家にはもう誰もいない」
「警察は“仕方なかった”で済ませるんだな」
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感情の輪郭が曖昧なまま、むき出しで残されている。
誰に向けたものなのかは明記されていない。けれど、そこには“喪失を抱えた者の言葉”が、確かに残されていた。
ときに怒りが先行し、ときに後悔が上書きされる。
その断片が、杏奈の気配を掬い取ろうとしているようにも見えた。
怜は画面を閉じず、しばらくそのIDを見つめていた。
もしこれが西野智也だとしたら、彼はまだ、“あのとき”に立ち尽くしているのかもしれない。
指先が、静かにタッチパッドから離れる。
夜はもう遅いはずなのに、不思議と眠気は来なかった。




