ep.8 - ログは残っている(4)見ないようにしていたもの
ショッピングセンターのフードコートは、午後の買い物客でほどよく賑わっていた。周囲には、子連れの家族や、制服姿の学生たちの姿もある。
中川瑞貴は、紙コップのストローに口をつけている三歳の娘の横で、どこかそわそわと落ち着かない様子だった。視線は周囲を警戒するように泳ぎ、ときおり近くのママ友グループをちらりと気にするような目つきで見やる。
テーブルの上には、子ども用のぶどうジュースと、半分残ったパンケーキの皿。中川はナプキンを指先で細かく折りながら、桐島と怜の前に座っていた。
「……井出くんから、“隠しリンク”のことは聞いてます。ちょっとだけ」
桐島が小さくうなずいた。
「リンクの先は、十年くらい前まで使われていたQ高校の裏サイトでした。中川さんたちが在学していた頃の投稿が中心で──いわば、当時の空気がそのまま残ってるような場所です」
一拍置いて、桐島は続ける。
「その中に、一件だけ、ごく最近になって書き込まれた投稿がありました」
「……ああ」
中川の口から、わずかに息が漏れる。顔はうつむいたまま、ナプキンをきつく握りしめていた。
「“記録は終了しました。更新はされません”という内容でした。あれは、どういう意味なんでしょうか」
桐島が穏やかに問いかけると、中川は一瞬、目を閉じた。その表情は、何かを思い出している人間のものだった。
「……ごめんなさい。知りません」
そう言いながらも、ナプキンの端をさらに折りたたむ。くしゃりと潰れた紙の感触に、指先だけが忙しく動いていた。
怜は、その動きに目を留めた。感情を押し込めたまま、手だけが動いている。言葉よりも、指先のほうがずっと正直だった。
「私、今、こうして子どももいて……いまさら昔のことで誰かに責められるのは……」
そこで、ためらうように視線を上げる。ようやく、中川は桐島を見た。
「……誰かが、終わらせてあげたかったんだと思います。あの子のこと、ずっと気にしてた人がいて──今になって、区切りをつけようとしたんじゃないかって。……そういうのって、いけないこと、ですか?」
声はかすかに震えていたが、口調はあくまで落ち着いていた。そうしようと、必死に保っているような静けさだった。握りしめたナプキンに、うっすらと爪が食い込んでいる。
桐島は答えなかった。ただ、その視線をまっすぐに受け止める。
「私たちは、責めに来たわけじゃありません。誰かが、昔のことを“今”に引きずってきた。その誰かが、何を見せたくて、何を見せたくなかったのか。知りたいと思っているだけです」
その言葉に、中川の肩がほんのわずかに揺れた。
それでも、彼女は首を横に振った。
エンジンを切った車内に、缶コーヒーのプルタブを引く小さな音が響いた。
桐島はふたつ買ったうちの一本を自分の方に、もう一本を怜に手渡す。
「ありがとうございます……」
ショッピングセンターの立体駐車場の隅。車の往来もまばらで、ぼんやりした空気だけが静かに漂っている。
缶の縁に視線を落としたまま、怜がぽつりと言った。
「中川さん、他の四人と……なんか違いましたね」
「……ああ」
桐島は応えながら、フロントガラス越しに目をやる。
数列先の駐車スペースでは、サラリーマン風の男が車のトランクを閉めていた。何度も同じ動作を繰り返す様子が、どこか所在なげだった。
「前原は、完全に“知らなかった”顔だった。そもそも、過去に触れる理由がない、っていう」
「それから大村は、“間違えたくない”って反応だった。正直に話そうとしているようで──実際には、何も言ってなかった」
桐島は少し息を吐き、最後のひとりを思い出すように言った。
「岸は、話さない。最初から、そう決めてる人間の態度だったな」
怜も静かに言葉を継いだ。
「井出さんも……たぶん、悪意ではなかったと思います。ただ、自分にとっては小さな出来事だった。それだけなんじゃないかって」
短い沈黙のあと、桐島が口を開く。
「四人も、中川も、“知らない”って言った。でも──」
「“知らない”の質が、違った」
怜が、静かな口調で重ねる。
「中川さんは……“見ないようにしてた”って顔をしてたと思います。井出さんたちは、そもそも見てないか、もう見えないところに置いてる。でも中川さんは、まだ、手元にあるものを──見ないようにしてた」
視線を逸らす動きと、唇にかかるわずかな緊張。怜にはそれが、思い出したくないものに触れたときの反応に、近いように見えた。
「それでいて、終わらせようとしてた」
桐島は手元の缶を親指で軽く回しながら言った。
「“もう終わったこと”にしたい、って逃げる感じじゃない。“終わらせなきゃいけない”って──自分に言い聞かせるような口ぶりだった」
「だから、書いたんでしょうか。“あの子の記録は終了しました”って」
「たぶんな」
助手席の怜はふとスマートフォンを手に取り、裏サイトの画面を再び開いた。
そのページには、在学当時の匿名投稿と並んで、ごく最近──数週間前に書かれた一文が表示されている。
「あの子の記録は終了しました。更新はされません」
静かな言葉が、ディスプレイの奥で凍りついたように貼りついていた。
それが、“誰かの罪悪感”から書かれたものなのか。それとも、“誰かをなかったことにするため”に書かれたのか。
まだ、判断はつかない。
二人は、それ以上、確かなことは言わなかった。
ただ、缶を持ったまま沈黙し、空を仰ぐように、時間が過ぎていく。
何も解けてはいないが、何かが、わずかに姿を見せたような、そんな午後だった。




