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ep.8 - ログは残っている(2)書かれた終わり

 いつの間にか、外では雨が降り始めていた。

 窓を叩く細かな粒の音が、静かな部屋にじわじわと滲んでくる。

 室内の空気は張りつめている。画面に映る“過去”の気配が、目の前の空間にまで染み出してくるようだった。


 怜は、モニターに表示された“裏サイト”をじっと見つめたまま、静かに言葉を落とした。


「全部見るには時間がかかります。構造は単純だけど投稿数が多いし、名前が出ていない分、誰が何を書いたのかまではわからない。でも、日付は残ってますね……」


 背後で、小さく咳払いする音がした。


 ──井出(いで)航平(こうへい)。三十代前半、広告・Web制作系のディレクター。

 高校の同窓会に向けて、幹事から依頼を受け、出欠登録の可能な特設サイトを制作していた。その最中、htmlコードの中に“見えないけど存在するリンク”があるのに気づいたという。

 本人の話では、いたずらや演出ではなく、告知ページの確認中に偶然発見したとのことだった。


 怜がふと振り返ると、井出は目線を伏せ、紙コップを指先でいじっている。


「……井出さん、何か心当たりあります?」


「……いえ。ほんとに、こんなの知らなかったんです。たまたまhtml見てて、コードの中にこれを見つけて、ゾッとしただけで……」


 その言葉は嘘ではなさそうだった。けれど、なにかを言わずに済ませようとしている空気が、言葉の隙間にうっすらと滲んでいた。


 桐島が口を開いた。


「……全部見るのは後にしよう。編集できる立場の人間は、何人いた?」


「あ……ええと……僕を含めて、五人です」


「名前と連絡先を教えてくれ。こっちで連絡して、順に話を聞く」


「……あの、みんなには、もう聞いたんです。“隠しリンクなんて知らない”って……」


「そうだろうな。でもな……“知らない”って答えるのは、簡単なんだよ」


 桐島の声は低いが、圧を持っていた。井出は小さく唇を結び、スマホを取り出して連絡先一覧を開く。


「……前原(まえはら)千佳(ちか)大村隼人(おおむらはやと)(きし)亮太(りょうた)中川瑞貴(なかがわみずき)。みんな同級生で、掲示板の投稿や連絡事項の編集は、全員できる立場でした」


「閲覧だけなら、他の同窓生も可能なんだな?」


「はい。出欠登録用のIDは全員に配ってました。だから、アクセスだけなら卒業生みんなが可能です。ただ……編集やページの更新ができるのは、僕たち五人だけです」


 怜がノートを取り出しながら、確認するように尋ねた。


「投稿履歴やログインの記録は、残ってますか?」


「サーバー側に残ってるかもしれませんが……僕が運営用の管理画面に入れるので、ログイン履歴なら、今すぐ確認できます」


 井出は再びノートパソコンに向き直った。画面には、あの頃のやりとりがそのまま残った掲示板と、まるで時間を飛び越えて現れたような新しい書き込みが並んでいた。

 その静かな違和感に、怜は言い知れぬざわつきを覚えた。


「……怜、今夜もう少し付き合ってくれるか。裏の投稿も、ログイン履歴も、洗っておきたい」


「はい」


 モニターの光に照らされる桐島の横顔は、いつもより少しだけ険しく見えた。




 時間は思ったよりもかかった。


 桐島が管理者IDでログインし、サイトの管理画面から井出と他四人のログイン履歴を確認した。

 それぞれが定期的に投稿や編集をしていた一方で、中川瑞貴のログインだけが際立っていた。深夜、他の作業とは無関係に見える時間帯に、数分間だけログインし、すぐにログアウトしていた。


 ログの確認を終えたあと、裏サイトの投稿内容にも目を通した。怜が操作を手伝い、桐島がひとつひとつ確かめていく。

 サイト自体は、井出が在学していた時期の前後──今からおよそ十年前まで稼働していたらしく、当時の書き込みがそのまま残っていた。


 投稿は想像以上に陰湿だった。匿名で、誰かの容姿、交際関係、家庭事情までが断片的に晒されている。明確に誰を指しているとは書かれていないが、それがかえって、読む者の想像を煽った。


 そんな中、最新の投稿に、こんな一文があった。


「あの子の記録は終了しました。更新はされません」


 怜はその言葉を読んだとき、胸の奥に微かな引っかかりを覚えた。

 静かで、どこか事務的で、それゆえに“誰かを名指ししないやさしさ”のようにも見える。

 でもそれは同時に──あまりにも冷たく、確定的な線引きだった。


 作業を終えたあと、怜は椅子の背にもたれて、小さく息をついた。

 目は画面を見続けて乾いている。けれどそれ以上に、心が少し、擦られたような疲労を覚えていた。


 隣に座る桐島は、黙って怜の様子を見守っていた。

 やがて、無言で棚の横から細長い紙コップを二つ取り出し、電気ポットのスイッチを入れる。


 湯の沸く音が、静けさの中で響く。


「……すまない」


 低くつぶやかれた言葉に、怜は目を上げた。


「……こういうの、地味にくるだろ。見続けるのは」


 カップに注がれたインスタントの紅茶が、湯気を立てる。

 桐島は片方を怜の前に置いた。


「……紅茶なんですね」


「コーヒー切れてた」


「なんか、らしくない」


 怜は小さく笑って、紙コップを両手で包み込んだ。温度が、掌からじわじわと染みこんでいく。

 桐島は怜の向かいの椅子に腰を下ろし、やはり何も言わずに湯気の向こうを見ていた。


「……“もう見なくていい”とも、“誰かが悪い”とも言ってない。でも、はっきり“終わった”って言ってますね」


 怜の声は小さく、けれど芯を持っていた。


「誰かのために、そう言わなきゃいけなかったのかもな。……あるいは、自分のためか」


 ぽつりと、桐島が言った。


 怜は少し驚いたように目を向けたが、それ以上は何も言わなかった。

 静かだった。でもその沈黙は、言葉よりもずっとあたたかく、ちゃんと“隣にいる”という実感を与えてくれた。


「もう少しだけ、調べてみたいです」


 そう言った怜に、桐島はうなずくでもなく、ただ視線で返した。

 それだけで、怜には十分だった。

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