ep.2 - 見るひと
カフェ・リュールの扉が開いたとき、窓の外にはまだ寒さが残っていた。それでも風の匂いには、ほんの少しだけ“春の予告”のような湿気が混じっている。そんな午後だった。
あの人がこの店に来るのは、もう何度目かになる。
いつも決まって午後の遅い時間、誰も多くを語らないような静けさの中で、ふらりと現れる。
窓際の席に、ぽつりと腰を下ろした男は、前回とまったく同じ席に、同じように静かに座っていた。
初めて見たのは、ひと月半ほど前のこと。無言でブレンドを頼み、ほとんど言葉を交わすこともなく去っていった。
怜は変わらぬ調子で声をかける。
「ご注文は、お決まりですか?」
「……ブレンドで」
声は低く、短いが、不快感はなかった。むしろ、無駄を省いただけのような、簡潔なやりとりだった。
注文を聞いて戻ったカウンターで、怜はふと気づく。自分が観察していることに。
「心理学を学んでいた癖だ」と、どこかで言い訳のように思いながらも、ふいに向けられた視線のことが、まだ胸のどこかに残っている。
この店の空気の、ほんのわずかな“ゆらぎ”を、あの人はよく拾う。
たとえば、スプーンがカップに当たる音が、いつもより鋭かったとき。
たとえば、常連さんの笑い声のあとに、ほんの少しだけ続いた沈黙。
たとえば、カップを置く音に、無意識の力が入りすぎていたとき──
あの人は、目を上げる。声をかけるわけじゃない。ただ、気配のように視線を寄せる。
……まるで、“音のグラデーション”を聴いているようだった。
音そのものじゃなくて、その濃淡。音が鳴る前と鳴った後の、空気の色の変化を見ているような。
それはきっと、音の奥にある誰かを見ている目なんだと思った。
再びテーブルに向かい、コーヒーをそっと置いたとき、彼の手帳からはみ出した紙片が目に入る。
図面のようなもの。ただの地図かもしれないし、そうでないかもしれない。
(……やっぱり、この人は何かを見てる)
その感覚は、分析でも推測でもなかった。ただ、“見ている人の目”だという実感が、静かに腑に落ちた。
音に揺れる空気も、図面の線も、どちらも、同じように誰かの存在をたどろうとする視線のように見えた。
帰り際、男が席を立とうとしたとき、怜はふと声をかけた。
自分でも、なぜその言葉が口をついて出たのかは分からない。
「寒い中、ご苦労さまです」
男が立ち止まり、少しだけこちらを振り返る。その目には、わずかな戸惑いのようなものがあった。けれど、それは警戒ではなかった。
「……何が?」
怜は、ごく薄く笑ってみせる。
「そういう顔、してましたから」
男は何も言わなかった。けれど、どこかほんの少しだけ肩の力が抜けたように見えて、リュールを後にした。