ep.7 - 刺す、黙る(5)伸びた影の前で
展示室の空気は、前に訪れたときよりも静かだった。平日の午後、来場者は数えるほどしかいない。入り口近くに受付の女性が控えているほかは、誰も声を発していない。
その奥に、一人の女性が立っていた。
桐島は、わざと間を空けながら、ゆっくりと同じ列の展示に近づく。
女性は、壁にかけられた刺繍のひとつ──三つの皿と、二つの椅子。あの《輪郭》の前で、じっと佇んでいる。
手元にカタログも持たず、ただその布の上の糸の流れを、吸い込むように見ていた。
細身の体に、柔らかな生成色のニット。癖のない髪は肩先でまっすぐ切りそろえられ、装飾もほとんどない。ひと目で「作者だ」と確信するような、強い個性ではない。
だがその静けさの中に、妙に研ぎ澄まされたような感覚があった。
桐島は、その横に自然な距離を保ったまま立ち止まり、少しだけ視線を寄せる。
声をかけるまでに、ほんの数秒を置いた。
「……この椅子、影だけが妙に伸びてるのが、気になって」
女性が、かすかにまばたきした。気配を感じたわけではなく、言葉そのものに引かれたようだった。
桐島は、展示に視線を向けたまま続けた。
「誰かが、居たのか。これから来るのか。それとも、もう居なくなったのか……」
しばらく沈黙があって、女性はようやく言葉を返す。
「……何も描かなかった場所に、何かを見てくださる方がいるとは、思いませんでした」
「何も描かれてないようで、いちばん強い線に見えました」
ふっと、空気が動いた気がした。
女性の横顔がわずかに和らいでいた。けれど、それもすぐに消える。
「すみません、勝手に話しかけて。……この展示、偶然立ち寄って。たまたま、仕事で近くに来てたもんで」
「いえ……ありがとうございます」
深く頭を下げるその姿は、礼儀正しいのに、どこか所在なさげだった。誰かに感想を伝えられることに慣れていない──あるいは、受け取ることそのものに戸惑っているような。
桐島は、手に持っていたパンフレットをたたんだ。
「この空気、……たぶん、家の中の空気なんだと思います。誰も声を荒らげてない、誰もいないみたいなのに、何かが詰まってる感じ」
言ってから、自分でも妙なことを言ったと思った。だが、女性は反応を示さず、少しだけまぶたを伏せた。
「……作品は、家でしか作れないんです。外では、縫えなくて」
「音がしないほうが、いいんですか?」
「音がない、というより……何も言えない場所じゃないと、できないのかもしれません」
まっすぐな声だった。それは、内に沈めていたものがほんの一瞬、縫い目の隙間からこぼれたような響きだった。
桐島は、それ以上は何も言わなかった。
立ち去り際、ひとつだけ言葉を残す。
「……ありがとうございました」
澄子は、小さく、だがはっきりと頭を下げた。糸のような声が、それに続いた。
「こちらこそ……見てくださって、ありがとう、ございます」
カフェ・リュールの扉を押すと、鈴の音が小さく鳴った。
もう日が暮れかけていた。
店内は淡い光に包まれ、カウンターの奥では詩織が帳簿をめくっていた。
怜はレジ横の棚を整理していたようで、桐島に気づくと軽く目礼した。
「おかえりなさい。……今日は、展示会に行かれてたんですよね」
桐島はいつもの席へ腰を下ろす。
怜がコーヒーを淹れる準備を始め、詩織がカップを用意する。
「谷 澄子さん、来てた?」
「ああ。“作品を見て感想を伝えたくて”って言ったら、在廊予定を教えてくれたよ。……他の来場者と同じ顔をして、少しだけ言葉を交わした」
コーヒーが運ばれてくる。深めの焙煎。香りが、ほんのわずかに苦くて甘い。
「どうでした」
「……展示と同じだった」
そう答えてから、桐島は少しだけ考えた。
「自分の中の言葉を、すでに縫ってしまった人間は、他人の声を必要としてないのかもしれない。……たとえ届いても、もうそれを受け取る手を、残していないんだろうな」
怜は何も言わなかった。詩織がそっと水の入ったグラスを置いていく。
「穂乃花さんには……どうするの?」
「……迷ってる」
桐島は、コーヒーに口をつけた。
「“ちゃんと話せ”とも、“話してみたらどうだ”とも……言える立場じゃないんだよな。俺が動けば、たぶん変わる。でもそれは……俺が変えたことになる」
怜が、静かに言葉を重ねる。
「でも、穂乃花さんは、変わってほしいんじゃないですか?」
「それは、本人が選ぶべきことだろう。……親と子であってもな」
桐島は、手帳を開いた。そこには展示案内の切れ端と、澄子の言葉が控えめに挟まれていた。
《ここにあると思い込むために、私はそれを縫いとめている》
「……あの人は、“ここにある”って思いたくて縫ってた。でもそれは、家族に届けるためじゃない。自分の中にとどめるための行為だった。……それが壊れたとき、何が残るかは、もう俺の知るところじゃない」
怜はしばらく沈黙し、そのあとやっと一言。
「それでも、誰かが“見ていた”ことだけは……残るんじゃないですか」
桐島は、苦笑のような息をついて、カップを置いた。
「……だったら、俺ができるのは、その“見ていた”ことを、ただ伝えるだけだな」
「それだけでも、十分かもしれませんよ」
そう答えた怜の声には、いつもより少し温度があった。
桐島は窓の外に目をやる。曇り空の向こうに、夜が降りてくる気配があった。
その静けさの中で、自分はどこまで踏み込むべきなのか。
どこまでが「見る」という行為で、どこからが「相手の沈黙を壊すことになる」のか。
その境界線を確かめるように、桐島はそっと目を閉じた。




