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刺す、黙る・3

住宅街の奥、細い路地の先にある、古びた一軒家。

その一階が、澄子の作品を展示する小さなギャラリーになっていた。


引き戸を開けると、土間があり、その奥に畳敷きの展示室が広がる。

桐島と怜は靴を脱ぎ、スリッパに履き替えて中へ入った。


木の香りがまだ残る空間。

障子越しの自然光がふんわりと差し込む中、控えめな照明が刺繍の額を照らしている。


壁に沿って飾られているのは、すべて小さな刺繍作品だった。

生成りのリネン地に、淡い糸で縫い取られた日常の風景──

洗濯物が揺れる窓、読みかけの本が置かれたソファ、食卓に並ぶ食器。

けれど、どの作品にも、人の姿はどこにもなかった。


糸の色も、極限まで抑えられている。

白、灰、淡い青──遠目には気づかれないほど静かで、近づいてやっと、刺繍だとわかる。


「……生活の風景。なのに、どこにも“人”がいないですね」


怜が立ち止まり、ある額縁を指差す。


そこには、三人分の箸と皿が等間隔に並ぶ、食卓の刺繍があった。

刺し色もなく、すべて輪郭だけで構成されている。

輪郭線は1ミリにも満たないほど細く、綿密に、しかしどこか頼りなさげに布地に浮かんでいる。


だが、その下にあるはずの椅子は──ふたつしかなかった。


「……食器は三つ。椅子は、二つしかない」


桐島が、わずかに身を乗り出す。

視線の先には、影のような糸が伸びている。

しかしその影も、現実の光源とは合っていなかった。


「この影……歪んでる。“居ない誰か”を引き留めてるみたいだ」


怜の声は、どこか痛みを含んでいた。


桐島がふと、展示台の片隅に目をやる。

手書きのカードが、小さく添えられていた。《題:輪郭》

ここにあるはずのものを、ここにあると思い込むために。

私は、それを縫いとめている。


ふたりの間に、言葉が落ちた。


「……刺繍って、見ようによっては、祈りにも呪いにもなるんですね」


怜がつぶやくように言った。


桐島はうなずきもせず、壁際の別の展示に視線を移す。


展示室の一角には、作家紹介の紙が置かれていた。

糸見本帳の横に、簡素な一文だけが印刷されている。


《谷 澄子(Tani Sumiko)》

1987年生まれ。東京都在住。主にミニマルステッチによる生活断片の可視化をテーマとし、刺繍作品を制作。展示は不定期・都内近郊にて。


写真はない。SNSアカウントの記載もない。

ただ名前だけが、ぽつりと置かれていた。


「“可視化”って言ってるけど……これはむしろ、“見えなくなっていく過程”を縫ってるみたいですね」


「あるいは、“在る”ことを主張せずにはいられない人の、最後の足掻きか」


二人の声は、ともにささやきに近かった。


桐島は、最初に目を止めた《輪郭》の前に戻り、再び見つめた。

その目には、言葉にできない何かを組み上げようとする、探偵としての沈黙が宿っていた。


怜が、そっと口を開く。


「……桐島さん。あなたが依頼を受けるようなことなんですか、これ」


桐島は答えなかった。

だが、その背中は明らかに、谷 澄子という人物を追い始めていた。

言葉ではなく、縫いとめられた「不在」の中に、何かを探しにいくように。




戻ってきた頃には、日がすっかり落ちていた。


リュールの店内には、客が一組だけ。

閉店準備を終えた詩織が、カウンターでココアを温めていた。


「おかえり。どうだった?」


詩織の声に、怜が椅子に腰を下ろしながら答える。


「……なんか、“生活の風景”を縫ってるのに、どこにも人がいないんです。なのに、誰かが“そこにいたこと”だけが、ずっと残ってるような」


「……刺繍って、そういうの、あるわよね。黙ってるようで、記憶だけはやたらと喋る」


詩織が言って、カップを揺らした。


桐島はそのやりとりを黙って聞いていたが、ふと、肩の力を抜いて椅子にもたれた。


「……見えてるものを縫ってるんじゃなくて、見えなくなったものを、どうにかして留めてるような感じだったな」


「うん。あと、どの作品にも、ちょっとだけ“構図のズレ”があって。たぶんわざとなんだけど……それが、“誰かの不在”みたいに感じた」


怜が、少しだけ言葉を探すように言うと、詩織は興味深そうに眉を上げた。


「ズレって、たいてい作る側の“心の位置”みたいなもんよ。揃えたくても揃わないことのほうが、きっと多い」


そう言いながら、詩織はふとつぶやいた。


「……ああ、そういえばね。この建物の持ち主も、刺繍やってるのよ」


「え?」


怜がカップを持ち上げたまま、目を上げる。


「昔の友人。いまは海外。刺繍っていうか……もっと、布そのものから空間を作るような表現だけどね」


桐島が少し目を細めて詩織を見たが、それ以上は何も言わなかった。


詩織は気にも留めず、にこりと笑って、


「まあ、そのうち話すわよ。そのうちね」


と言って、カップをふたつにココアを注いだ。


ココアから立ちのぼる湯気が、ほんの少しだけ白く揺れて、冬の夜の静けさに溶けていった。

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