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刺す、黙る・2

「母は、たぶん……“普通”の人です」


 フォークを皿に置き、穂乃花は言った。

 窓の外では、冬の午後が静かに色を変え始めていた。


「いつも笑ってるし、ちゃんとご飯も作ってくれるし、家の中もきれい。──でも最近は、なんていうか、“透明”になったみたいで」


「透明?」


「そこにいるのに、いないみたい……っていうか、“何を考えてるのか、わからない”感じです」


 桐島は黙って、カップに口をつける。


「前はもっと、口うるさかったんですよ。朝から“早く起きなさい”とか“洗濯物出して”とか言ってきて。……うざいなって思ってたのに、今は全部、黙って片づけちゃうんです。叱られるより、なんか、こわくて」


 穂乃花は、湯気の消えかけたカップの縁に指をそわせた。


「最近は、“お父さんの邪魔しないように”って感じで動いてる気がして。静かにしてれば空気が悪くならないって、そう思ってるみたいで……」


 桐島の視線が、微かに揺れる。


「変ですよね。別に怒鳴られたとか、そういうことじゃない。でも……私、家の空気がおかしくなると、“あ、またお母さん、何か変なんだな”って、つい思っちゃって」


「父親は?」


「仕事してます。たぶん、すごく大変。家にいるときもあんまり喋らないけど、私も弟も、“お父さんは疲れてるんだから”って、なんとなく……。お母さんも、そうしてる」


「誰が言ったわけでもないのに、“父に合わせるのが当たり前”になってるわけか」


「……そうですね」


穂乃花はうつむいて、少し笑った。


「でも、よく考えたら、お母さんが何してるかって、私、あんまり知らないかもしれません。毎日家にいて、家のことしてて、それが“当たり前”すぎて……何も考えたことなかった」


 その笑いは、決して自嘲ではなく、ほんの少しの戸惑いと痛みが混じったものだった。


「別に、嫌いなわけじゃないんです。お母さんのこと。……ただ、このまま、どっか遠くに行っちゃいそうで」


 その言葉に、桐島はわずかに表情を動かした。


「……依頼って、できますか」


「調べてほしい、ってことか」


「はい。何かが起きてるのか、それとも、私の思い過ごしか」


「未成年からの依頼は、原則断ってる」


「でも、私、バイトでお金貯めました。これくらいじゃ、ダメですか」


 小さな茶封筒が、テーブルに置かれる。角がほんの少し潰れていた。迷いながらも差し出した意志の跡だった。


 桐島はしばらくそれを見下ろしたまま、静かに息を吐く。

 そして、そっと指先で封筒を押し戻した。


「……金の話じゃない。これは“仕事”にはしない。そう決めてる」


 穂乃花の肩が、わずかに強張る。

 桐島は椅子にもたれ、手元のカップを一口すすった。


「……ただの気まぐれで、ちょっと様子を見るくらいなら、付き合ってやってもいい。それでよけりゃ、だ」


 桐島の言葉に、穂乃花は目を見開き──そして、そっと頷いた。


「……じゃあ、お願いします。“気まぐれ”でも、いいですから」


 そう言って立ち上がると、椅子がわずかに軋んだ。

 彼女は空になったカップを見つめてから、小さな声で「ごちそうさまでした」と言い、カバンのストラップを握り直した。


「また、来てもいいですか?」


「店は常連以外も受け入れてる」


 そのそっけない返事に、穂乃花はふっと笑い、扉の前で一度だけ振り返った。けれど、何も言わず、そのままガラス戸を押して出ていった。


 扉のベルが鳴る音が消えると、店内には静けさが戻った。

 カップの縁に残ったコーヒーを飲み干し、ふと手元に目をやると──そこには、穂乃花が持っていた展示会のパンフレットの、控えがあった。


 桐島はそれを手に取り、立ち上がる。



「……展示会?」


 怜は首を傾げた。


「まあ、刺繍だ。見てどうこうってもんじゃないが……ちょっと気になってな。行くなら一人よりマシかと思ってな」


 桐島はパンフレットの控えをカウンター越しに差し出す。

 怜はそれを受け取り、表紙の柔らかな模様と名前を眺めた。


《谷 澄子 刺繍展──日々のかけら》


「“日々のかけら”……」


 怜はぽつりと呟き、そのままページをめくった。


「……“ミニマルステッチによる生活断片の可視化”……か。思ったより、コンセプト寄りですね。場所は中野?」


「駅から少し歩いた先らしい。展示自体は小さいらしいが……そういう方が、見落とすもんが減る」


「なるほど。刺繍という沈黙の中に、“何か”があるかもしれない、ってことですか」


 怜が笑みを含ませた瞳で桐島を見る。


「……桐島さんが刺繍展、ってちょっと意外かも。行きましょう。静かな場所、嫌いじゃないです」


 パンフレットの紙越しに、静かな冬の光が透けていた。

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